yushikai.jpg

城陽市歴史民族資料館→尼塚古墳→正道官衙遺跡→久世廃寺跡・久世神社→芝ケ原古墳→上大谷古墳群→丸塚古墳→久津川車塚古墳・梶塚古墳→芭蕉塚古墳

例会だより
春のうららかな日差しに誘われ、近鉄寺田駅には、友史会員、196名が集まりました。
 まずは、城陽市の文化パルク内、歴史民族資料館で、今回見学する、久津川流域の遺跡を事前勉強、春の特別展で『古墳のできるまで』の展示があり、特徴のある埴輪や出土遺物を見学、珍しい遺物、疑問に思う事は、卜部先生、資料館の先生を見つけてはどんどん質問をする友史会員もいました。
水度神社は時間の関係で、省略、尼塚古墳は、墳丘がわずか3分の1の残りであるけれども、遺物として出土している筒形銅器は朝鮮半島で作られている事、中に舌状の物が入って出土するなど、音を出す目的である事等の説明を受ける。
正道官衙遺跡は公園に整備されていてここで昼食、午後からは、箸墓より古い芝ヶ原古墳、小さいけれど尾根上にしっかりと守られているように作られた上大谷古墳群、前方後円墳と方墳がセットの様に作られた丸塚、久津川車塚、芭蕉塚古墳を見学し、この地域は、埋葬の仕方、鏡や他の遺物の置き方にも特徴のある古墳であると説明を受け、予定通り久津川駅で解散。
好天に恵まれ、196名の会員の方々も爽やかに帰路に着けた事と思います。
案内の卜部先生、有り難うございました。   大西 寿江
 
近鉄京都線 寺田駅
集合は近鉄京都線寺田駅。
本年度就任した森田会長から挨拶。

今日は卜部先生に南山城の前方後方墳を中心に案内いただく。

木津川右岸の丘陵地にも左岸と同様に前方後円墳や前方後方墳が分布しているが、やや様相が異なる。
古墳時代前期の極早い段階に前方後方墳の芝ヶ原古墳が出現し、前期後半に再び前方後方墳が築造され、狭い範囲にもかかわらず複数の築造系列が認められる。
規模は相対的に小さく、方墳も目立つ。
この違いは副葬品にも表われており、右岸には前期段階で三角縁神獣鏡を持つ古墳は今のところ西山2号墳のみ。
古墳時代中期に入ると大きな変動が訪れる。箱塚古墳の築造を契機とする久津川古墳群が形成され、車塚古墳、芭蕉塚古墳へと大形前方後円墳が続く。
これによって前期に見られた主な築造系列は途絶え、かわって丘陵の平野部寄りに大形円墳を主体とした芝ヶ原古墳群が形成される。
ここには車塚古墳と同じく、三角縁神獣鏡が副葬されている。
また木津川左岸の古墳にも影響を与え、やはり主だった築造系列は途絶える。
 
城陽市歴史民俗資料館
平成7年に開館し、18年4月にリニューアル。常設展示では城陽市内の旧石器時代から現代までの歴史、城陽市の自然、産業、民俗文化財などを紹介。
 
水度神社
旧寺田村の産土神。拝所の奥にある本殿(重要文化財)は一間社流造で、屋根は檜皮茸、正面に大きな千鳥破風。庇の正面中央には、透彫の唐草と笹りんどうをあしらった欄間。文安5年(1448)の造営で、城陽市内に現存する最古の建造物。祭神は天照大神、高御産霊神(たかみむすびのかみ)、少童豊玉姫命(わだつみとよたまひめのみこと)の三柱。『山城国風土記』逸文に「久世の郡水渡の社祀社(くにつやしろ)」とあることから、風土記が編纂された奈良時代には存在。『延書式』には「水度神社三座」と記されており、官幣小社に列せられている。
本日は参道を抜けて尼塚古墳に急ぐ。
 
尼塚古墳
南に張り出す舌状尾根の西端に築造された前期後半頃築造の方墳。昭和42年に発掘調査。墳丘は一辺40m、高さ4.5m。幅10mの周濠が北辺から東辺に巡る。北300mの尾根状に7基ほどの尼塚古墳群が縦列しており、尼塚古墳はこれとは独立した位置にある。現在墳丘の三分の一が保存されて住宅地内に遺る。埋葬施設は長さ6.4m、幅1.2mの粘土槨で、長さ5.5m、幅70cmの割竹形木棺を内蔵。粘土槨の中央は盗掘によって擾乱されていたが、棺内両端より鎧、刀子、管玉、土師器壷が、棺外より筒形銅器、槍、鋼鉄が出土。特に筒形銅は槍の石突き相当の位置で出土した上に、内部に木質と青銅製小棒が遺っており、機能を考える上で重要。
 
正道官衙遺跡
芝ヶ原丘陵の先端近く、台地状になった部分に造営された古墳時代から奈良時代にかけての複合遺跡。特に奈良時代の遺構は、軒丸瓦が採取されたことから寺院が存在するものと考えられていたが、規模や配置の点から山背国久世郡衙の中心部と考えられ、昭和49年に史跡指定。遺構は3時期に分けられ、Ⅰ、Ⅱ期(7世紀後半)の長舎を中心とした配置からⅢ期(8世紀初~9世紀前半)の長舎を用いない品字形配置に変遷。現在整備・復元されているのはⅢ期の遺構。6間×2間の4面庇付大型建物・庁屋を中心として、その背後に7間×2間の副屋を置き、斜め前には向屋、東屋を配置。庁屋の全面は広場になっており、これらを南北215m、東西52.5mの規模で築地がL字形に囲む。
庁屋の正面に相当する部分には南門。
 
久世廃寺
芝ヶ原丘陵の西端部に位置し、現在久世神社の社叢の中に主要伽藍が遺存。塔を東に金堂を西に並置する法起寺式伽藍配置。講堂は塔・金堂の北方にあり、回廊の外に出る異例の配置。塔基壇は一辺22.4mで、基壇化粧は取りはずされているが、瓦積みであったと考えられる。基壇上の礎石は全て抜き取られており、心礎は地下式と推定。金堂は塔と8.9mの至近距離。基壇の平面規模は26.7×21.3m。塔と同様に基壇は瓦積みで外装、建物平面は不明。建築遺構は講堂、東回廊、北回廊、南門とそれに接続する南面築地、南西隅の築地などが検出。これらから、回廊は東西79.2m、南北56m、寺域は東西24.6m、南北225mに復元。飛鳥時代後半から奈良時代後期の瓦が出土し、創建から廃絶までの時期を示す。近接する平川廃寺所用瓦と共通しているものがある。写真正面が塔基壇、左が金堂基壇。
 
芝ヶ原古墳
芝ヶ原丘陵の上位に立地。芝ヶ原古墳は、芝ヶ原古墳群12号墳と称されていたが、11号墳からは約200m離れた位置にあり分離できる。前方後方墳で、19×21m、高さ3.4mの後方部に前方部がつく。前方部の大半は削平されているため全形は不明だが、くびれ部の幅より幅広の前方部を想定。埋葬施設は組み合わせ木棺を直葬。墓墳の上面には礫敷きがあり、礫中に混じって壷や高杯などの供献土器が出土。棺内からは銅鏡、銅釧、勾玉、管玉、鉇、針などが出土。鋼釧は祖型を二枚貝製貝釧に求められ、周縁に突起を残す点で古相。反面、銅鏡は変形が著しく前期古墳に多く見られる四獣形鏡。築造時期は土器より庄内式期後半と考えられ、定型化以前の様相を示す。
 
上大谷古墳群
上大谷古墳群は大谷川を見下ろす宇治丘陵の南辺に築造された4世紀代から7世紀代の約20基の古墳群で、うち11基が発掘調査された。1号墳と8号墳の2基の前方後方墳と7基の方墳を含む点が注目される。
 年代が最も遡る古墳は6号墳。15×11mの方墳で、鳳凰鏡、短冊形鉄斧、鉇、庄内式期の土師器高杯が出土。
 1号墳の墳丘はかなり変形を受けているが、全長約30mに復元。後方部碩に大きな撹乱坑があり、大形塊状石材の露出が報告されており、横穴式石室の可能性がある。
写真左は18号墳
 
 8号墳の墳丘は全長33m、後方部長21m、前方部幅22mの前方後方墳。茸石を確認。埋葬施設は未調査だが、盗掘坑に粘土塊が確認されたので粘土槨と推測。築造時期が窺える資料はないが6号墳に引き続いて築造されたと思われる。
前方部から後方部をのぞむ。(写真右)
 
丸塚古墳
大谷川が形成した扇状地の上位に立地。墳丘の現状からは方墳のように見えるが、前方部を南西に向けた帆立貝杉前方後円墳。昭和60年以来の発掘調査で墳丘の構造と規模がほぼ確定。墳丘は全長80m、後円部径63m、後円部3段、前方部1段に築かれ、周囲には幅16mの空壕と幅26mの外堤が巡る。墳丘斜面には茸石が敷設され、各段のテラスと外堤には埴輪列が巡る。埋葬施設は未調査のため不明、出土遺物も埴輪のほかは、副葬品は伝わらず。
 出土した埴輪は普通円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、家形埴輪。円筒埴輪は底径19~29cmと幅があるが、多いのは21cmほどの中型品。外面の二次調整にはB種ヨコハケが目立つ。スカシは円形で、黒斑を有しており、車塚古墳よりも古い要素が認められる。前方部斜面から出土した家形埴輪は、棟長101cm、復元高98cmにおよぶ入母屋造りの大型。上屋根と主屋壁には網代を表現した市松文様がみられる。棟飾に蓋形埴輪に類似した鰭状突起をつけている点が特徴で、葛城市和田1号墳などに類例がある。
 
久津川 車塚古墳
JR線路沿いに立地 。
JR工事の土取りで石室と石棺が出土。
(2段目写真が土取りの跡))

全長183mの南山城最大の前方後円墳。江戸時代の文献に車塚の名称がすでに見える。明治27年(1894)に鉄道敷設に伴う土砂採取工事で後円部頂から未盗掘の長持形石棺を発見。大正4年(1915)に梅原末治氏が『久津川古墳研究』で再調査成果を報告し、その重要性が学界に周知された。以後、同志社大学や龍谷大学による測量調査を経て、域陽市教育委員会が調査を継続。墳丘は南向きの3段築成で全長183m、後円部径113m、前方部幅123m。周囲には内壕、内堤、外壕がいずれも盾形に巡る。埋葬施設は長持形石棺を直葬、両小口には板石を積み上げて小石室を付設。棺内には人骨が遺存し、7面の鏡のほかに刀剣、滑石製勾玉、刀子、合子、石皿などが、小石室からは甲冑五領、刀剣などが出土。埴輪には円筒埴輪、朝顔形輪、家形埴輪、蓋形埴輪があり、円筒埴輪には黒斑が認められる。
墳丘を順に登る。墳丘を下り流れ解散。
 
芭蕉塚古墳
久津川車塚古墳より北西100m離れた扇状地低位に位置。平成12年から17年にかけて保存と活用のための範田確認調査が実施され、大要が判明。墳丘は前方部を南に向けた前方後円墳で、後円部、前方部とも2段築成、前方部両側には造り出しが付く。墳丘全長114m、後円部径62.7m、前方部幅61mで、均整のとれたプロポーションが特徴。幅10mほどの周濠が巡り、その外側にはやや間隔をとった埴輪列を検出。この埴輪列には底径30cmを越える大型円筒埴輪を用い、墓域を区画。墳丘外表には茸石と埴輪列が敷設。墳頂部と造り出しには形象埴輪も配置。形象埴輪の種類には家、蓋、鞍、盾、甲宵がある。またくびれ部の谷筋からは囲形埴輪が出土。このような配置は行者塚古墳、宝塚古墳などにあり、囲形埴輪内に木樋形埴輪を備えた導水施設による祭祀を表わしたもの。芭蕉塚古墳からは木樋形埴輪は出土していないが、城陽市内では芝ヶ原10号墳と2号墳で出土。埋葬施設は後円部碩で粘土榔が確認。久津川古墳群の埋葬施設は梶塚古墳をのぞき、石材を使用しないことが主流で、芭蕉塚古墳もこの流れにのる。副葬品は盗掘坑より鋲留小札宵、短甲、肩甲、頸甲が出土。これらの甲宵類と周濠よりTK73~TK216型式の須恵器が出土していること、ウワナベ古墳と同じ特徴を持つ黒斑のない埴輪から見て、芭蕉塚古墳の築造時期は5世紀中葉頃と推定され、久津川古墳群最後の大型前方後円墳。