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吉野口駅(飯降谷遠望)→(国見山遠望)→市尾墓山古墳→森カシ谷遺跡→佐田遺跡群→国立飛鳥歴史公園高松塚周辺地区→甘樫丘→近鉄橿原神宮駅

例会だより「飛鳥をめざして」
寒い冬晴れの日曜日、吉野口駅に友史会員135名が集合。案内の山田先生のお話を聞きながら、心はすでに飛鳥へ攻め込む一軍になったよう。今まで歩いた巨勢路が、まるで別のものに思える。飛鳥地方に地名として残る「ヒブリ」は「火振り」から、そして「飯振谷」「飯振田」も「火振り」「ヒブリ」「イヒフリ」から転化して今の漢字が当てはめられたとすると、見晴らしの   良い山は、敵の侵攻を知らせる峰火台の役割を担っていたかも知れないのだ 。火振山に見張られながら、高取町森の辺りまでどんどん歩く。このあたりは幕末の天誅組が攻め上がり、高取藩と戦って敗走した地域でもあるらしい。
時代の波に翻弄された若者達の熱さ、悲しさを想う。リベルテホールには彼らを驚かせた「大砲」の復元模型もある。思ったより小さく可愛らしい。いよいよ飛鳥に入る。あちこちの火振山からの知らせで、飛鳥への侵攻を知った人々と、攻め上って来た人たちの間には熾烈な戦いがあったに違いない。果たして飛鳥の人々は防ぎきれただろうか?守りきれたのだろうか?
目を閉じれば、ひたひたと走る音、金属のふれ合う音、人々のざわめきが聞こえてきそう。
素敵なテーマを追体験しながら、一日たっぷり古代のロマンに浸ってしまった。寒いけれど心は熱い。
山田先生、本当に有難う御座いました。  (暦利 和子)
 
吉野口駅
吉野口駅10時10分。参加した会員は135人。


今日は山田先生のご案内で、古代飛鳥の烽火台と推定される火振山を眺めながら 、 巨勢路を吉野口から飛鳥まで歩いた。

飛鳥時代は我が国だけでなく東アジア全体でみても、 激動の時代。 中国では隋による南北朝の統一とつづく唐の建国、 朝鮮半島では古代三国の攻防と新羅による統一がなしとげられた。 このような中、 日本においても対外防衛は必須であり、 北部九州から瀬戸内に点在する古代山城や烽火はその典型。 この防御網はもちろん都である飛鳥を守るために設けられたものだから、 飛鳥の周辺、 つまり奈良県内にも少なからず防衛施設が設置されたと思われる。


山城の地図を見ながら山田先生の説明を聞く。
 
御所市樋野飯降谷
吉野口駅がある御所市古瀬とは曽我川を挟んで対岸にある御所市樋野。 ここには 「飯降谷」 、「飯降田」 という地名があり、 「火振」 → 「ヒブリ」 → 「イヒフリ」 と転訛して、 今の漢字があてられたものと山田先生は推定。
 
左側(北側)の山 (標高220m) が飯降谷烽火台
南側は採石場で、 以前の景観は失われつつある。
 
国見山
曽我川に沿って巨勢路を北北西に進む。
高取町の小盆地に出たすぐ左手に独立した山塊が 国見山 (標高229.4m) 。 この山の周辺にも火振に関する地名が残る。 ひとつは国見山山頂の南側(手前側)の御所市戸毛にある 向火振山
もうひとつは山頂の北側(向こう側)の御所市原谷にある火振塚。 しかし、 具体的に国見山のどの部分を指すのかは、 はっきりしていない。
飯降谷を遠くに望む。
 
市尾墓山古墳
高取町の小盆地に入って、 北西に歩を進めていくと、 高取町市尾の集落、市尾墓山古墳に到着。
6世紀の初めから前期に築造されたと考えられる全長66メートルの前方後円墳で、 近年とてもきれいに整備され、 横穴式石室ものぞき見ることができる。
市尾墓山古墳の墳丘に登って、 周囲を見渡してみる。
これまで歩いてきた南西側を見ると、 市尾宮塚古墳のある丘の左に最初に見た御所市樋野の飯降谷の鉄塔が霞む。

北西側に目を転じると左遠くに、国見山が望める。 左側尾根に戸毛 向火振山が、右側尾根に原谷火振塚があると推定される。
右遠く、 薩摩や兵庫の集落の北に広がる丘陵の左端に、 橿原市観音寺町の観音寺山 (標高143.7m) という独立丘陵が見え、この山の上にも火振塚という名の古墳がある。
先の原谷火振塚 と、 この観音寺山火振塚はその位置から、 高取から葛城山麓へのルートに対する守りであると推定。
この市尾という場所が巨勢路と葛城へ向かう道の三叉路という交通の要衝であったことがわかる。
さらに飛鳥に目を向けると、 3つ連なった山の右端、頂上がとがった山が高取町薩摩にある 火振山 (標高約170m) 。
宮内庁が岡宮天皇陵として管理する場所のすぐ西裏手の山。
 
鳥ヶ峰古戦場
ここまで歩いてきた道を実際に攻めあがってきた軍勢が 幕末の天誅組。
天誅組は1863(文久3) 年に尊皇攘夷派の土佐藩出身の志士、 吉村寅太郎らが公家の中山忠光を擁して挙兵し、 8月17日に五條代官所を襲撃。 同25日に高取へ向けて出撃し、 26日に高取の森あたり (町立のリベルテホールや高取中学校の周辺) で迎え撃つ200名ほどの高取藩士と戦う。 高取藩は今の町役場がある鳥ヶ峰という丘の上に大砲四門を据えて天誅組を攻撃、 天誅組は一度敗走。 夜には吉村寅太郎率いる別働隊が夜襲を企てて薩摩まで進軍し、 警戒していた高取藩士と薩摩の 木の辻というあたりでふたたび戦うが、 吉村寅太郎が味方の鉄砲玉に当たって負傷し、 旧大塔村の天辻に置いていた本陣へと敗走。
その後、 天誅組は吉野山中を転戦、 敗走し、 9月24日に東吉野村の鷲家口での戦いで吉村寅太郎以下16名が討ち死にし、 事件は終結。 高取での戦いの時に大砲が据えられた今の町役場の敷地内に 「天誅組 鳥ヶ峰古戦場」 の記念碑が、 町立リベルテホールには大砲 「ブリキトース砲」 の復元模型がある。
 
市尾墓山古墳の東側すぐにある「木の辻
リベルテホール
大砲 「ブリキトース砲」 の復元模型
高取での戦いの時に大砲が据えられた今の町役場の敷地内
「天誅組 鳥ヶ峰古戦場」 の記念碑
 
森カシ谷遺跡
 2002~3年度に高取町教育委員会によって発掘調査がおこなわれ、 丘陵頂部の周囲に曲輪状の平坦面があり、 掘立柱建物一棟と柵列を検出。 柵列は平坦面よりも下の斜面からも二列めぐっていたことを確認。 古墳を利用したとみられる丘陵頂部には大型の土坑があり、 土坑内と周囲から多数の柱穴が検出されていることから屋根などの上屋が付く特殊な構造のものだったと考えられる。 また、 丘陵の奥側の平坦面からは竪穴住居や大壁建物、 堀割なども検出。 この遺跡は砦や烽火台の可能性が指摘されている、 殯屋の可能性も指摘されている。
 
リベルテホール北側、左奥崖から手前テニスコート付近が森カシ谷遺跡
この遺跡は調査終了後、 土取りのためにほとんどが消滅。
 
佐田遺跡群
1983年、 この学校の建設に先駆けての発掘調査で、 小谷遺跡・北ノ尾北遺跡・北ノ尾南遺跡・横ヶ峯遺跡と名付けられた遺跡が発見され、 総称して佐田遺跡群。 調査では15基の古墳のほかに、掘立柱建物や竪穴住居のほかに、 城郭の曲輪のような平坦面や丘陵頂部の縁辺にめぐらされた柵列など飛鳥時代の遺構を多数検出。遺跡の立地や柵列の存在などから、 飛鳥の防衛施設である可能性。
実際に南側から飛鳥に向けて歩いてみると、 遺跡の中心部は道からは全く見えず、 しかし遺跡側からは完全に見下ろされているという立地状態にあり、 まさに飛鳥の防衛施設にふさわしい。
 
県立高取国際高等学校が佐田遺跡群
高校建設によりすべて消滅。
 
桧前上山遺跡
1983年と84年の2度の発掘調査で、 土塁状をはじめ掘立柱建物三棟以上、 掘立柱塀、 大型土坑などの飛鳥時代の遺構を検出。また飛鳥時代から奈良時代にかけての遺物も多数出土。 巨勢路に対する位置関係が佐田遺跡群と共通し、 軒瓦が出土していることなどから官衙的な性格をもつものではないかと推定。
 
佐田遺跡群とは巨勢路を挟んで反対の東側の丘陵上で発見された遺跡が明日香村桧前の桧前上山遺跡。 調査終了後に宅地造成のために消滅。

佐田遺跡群や桧前上山遺跡のあるところは巨勢路と芦原峠を越えて吉野へ至るルートとの分岐点にあたり、 この吉野へのルート明日香村栗原と阿部山にも、 それぞれヒフリヤマの地名が残る。 正面手前の山の尾根の1つと思われる。
 
明日香村平田ヒフリヤマ
高松塚古墳の覆屋の手前で説明を聞く。写真右、中央の竹やぶが中尾山古墳。稜線上に南東へ150mほど行ったところに ヒフリヤマがある。今は果樹林の山 (標高121.1m) 。遺跡地図には古墳として登載されているが、 現地を観察すると山頂部は古墳としてはやや広い平坦地で、 その四方にそれぞれ曲輪状の平坦面がある。 地権者の山口正七氏によると、 むかし日照りが続いた時にはこの山の上で雨乞いの護摩を焚いた。そのため ヒフリヤマという名前がついたという伝承があるとのこと。

山頂からは西南の方向に桧前上山遺跡や佐田遺跡群、 さらには高取町薩摩の火振山まで望むことができることを確認。 北東の飛鳥側は明日香村橘の火振山 が望め、 北には甘樫丘が望めるはずだが、雲ゆきが怪しくなってきた。

 
甘樫丘
甘樫丘にたどり着くと同時に雪。
幸運にも思わぬ飛鳥の雪景色を眺めることができた。
 
奥山ヒフリ山
山田道を通って北東の桜井市方面から飛鳥への入口にあたる、 明日香村奥山の丘陵、 飛鳥資料館の東の裏山 (標高133.4m) も ヒフリ山。 ここから先、 桜井方面にも 火振山 などの烽火に関連すると思われる地名がいくつかある。

写真は甘樫丘から眺めた雪景色の奥山ヒフリ山
 
和田町ヒフリ山 豊浦摩火振山
甘樫丘から畝傍山を眺める。

和田池の堤の右が
豊浦摩火振山 (標高108.2m)

池の正面向こう側が
和田町ヒフリ山
(標高108.4m)

ここが烽火の終着点。
 
豊浦摩火振山
和田池の堤で最後の説明。
和田町ヒフリ山
削平され無残な姿。
 
写真 下尾 茂敏
解説文は会報より抜粋編集