yushikai.jpg

塚山古墳→居伝瓜山瓦窯→居伝館跡→つじの山古墳→荒坂窯跡→猫塚古墳→鑵子塚古墳→丸山古墳→西山古墳→勘定山古墳→今井1、2号墳→今井窯跡→JR五條駅

例会だより
「北宇智の古墳と窯跡」訪ねて
奈良から電車が1時間に1本しかない、足の便が悪いJR和歌山線北宇智駅に年末にも関わらず128名が集合。
 当地宇智は古くから紀ノ川を経由して大和に入るルートで、水路から陸路への水揚げ地として重要な場所であったとので、大陸との人的交流だけでなく紀氏、葛城氏、巨勢氏との関係が気になるところである。
例会で訪れた古墳は墳丘の残りも良く、今井1号墳(前方後円墳)以外は方墳、円墳であった。石室、石棺には結晶片岩を使っており、副葬品は武器、武具、鍛冶具など鉄製品が中心に韓式系土器も出土している。猫塚古墳では蒙古鉢形眉庇付冑、大陸スタイルの帯金具などを出土していることから、被葬者は鍛冶集団の頭ではないかとのことであった。
 そして、飛鳥川原寺の創建瓦を供給した荒坂窯跡は、瓦と須恵器を生産した瓦陶兼用窯で、これまで14基確認されており、1号窯が保存されていた。現地で五条文化博物館の前坂先生より施設を開錠していただき、遺跡の説明を受け、窯のスケールを体感することが出来た。さすが友史会ならではのことで大変有難い。
足早の例会であったので、私は後日ゆっくり古墳めぐりと五条文化博物館を訪れたいと思っている。14㎞の行程で少し疲れたが、充実したHAPPYな1日を過ごすことができ、これで新しい年を迎えることができそうだ。松田館長ありがとうございました。(森田 勝)
北宇智駅
JR和歌山線 北宇智駅集合 参加者128名
宇智駅はかつてスイッチバックの駅。現在も古い線路が残る。
1時間に一本のダイヤ。多くの会員が王寺発9:24 吉野口発10:04 北宇智着10:11 の五条行き列車に乗車。後方高速の下が、居伝瓜山瓦窯跡と居伝館跡。
塚山古墳
五條市北端の出屋敷町の丘陵上には、一辺約24mの方墳塚山古墳が単独で立地し、墳丘には葺石と円筒埴輪盾形埴輪、短甲形埴輪、家形埴輪が置かれていた。結晶片岩製の箱形石棺内には鹿角装鉄剣2振りが、石室に接した副室や石室周囲には三角板鋲留短甲や衝角付宵、肩甲、脇当、篠籠手などの武具や武器として使われた鉄斧をはじめ、鉄刀、鉄鍍、加えて鉄鎧、鉄整、鉄錐などの鍛冶具、鉄鎌や鉄釣針などの農具や漁撈具が副葬されていた。ここでも多くの武器や鉄製品の副葬が注目でき、鉄器生産に関わった5世紀中頃の被葬者象を推定させる。
居伝瓜山瓦窯
居伝瓜山瓦窯は居伝町北側の丘陵裾で発見された奈良時代の瓦窯である。半地下式のロストル式平窯としては最古段階のもので、規模は全長4・9m、幅2・4m、平面が羽子板形を呈し、焚き口、燃焼室、焼成室と、前面には前庭部を設けていて、その前に灰原が形成されている。燃焼室の焔はロストル式の分焔柱を通って、奥壁に設けられた4ケ所の煙出し部から窯背後の日干し焼瓦積み天井をもつ坑に通じ、煙道から抜ける構造となっている。三回の操業が確認できた窯から出土した瓦には軒平瓦、隅切瓦、垂木先瓦があるが、いずれも単一形式で8世紀中頃の短期間だけに操業が限定できる。瓦窯に近い北側と南側では、背後の斜面を造成した平坦地に、合計9基の掘立柱産物群を検出した。建物群は3期に区分でき、飛鳥時代から奈良時代に営まれたことが明らかになっていて、より古い窯跡などの遺構が近くに存在するかもしれない0また南側からは一辺が3m、深さ約2mあまりの不整方形土坑が検出されている。砂層に至るまでの粘土層を掘り込み、さらに脇へ掘り進んでいることからみて、造瓦用の粘土採掘坑と考えられている。
写真左 高速道路上が居伝瓜山瓦窯跡
居伝館跡
居伝の集落の北東側には鎌倉後期に造営された在地領主の館跡と目される遺跡が存在する。居伝舘跡としたこの遺跡は谷を挟んで南北2ケ所の達跡からなり、北の館跡は2重の濠を備えた一辺が50m方形館で、内濠は幅5m、最深で3mあり、内部には10数基の掘立柱建物が建てられていた。濠には水を谷に排水する溝が設けられ防御用だけでなく潅漑用にも利用したらしい。出土遺物は極めて少ないが、輸入陶磁器や漆器などが目立っ。南の館も同規模ながら、凌は50cm前後と浅くしかも館を全周しない0館内からは掘立柱建物が10数基検出されているが、出土遺物に輸入陶磁器や漆器などを欠き、土師器など日常の雑器類によって大半が占められる。両方の館が同時期に機能していたことは出土遺物の年代から明らかで、一方は日常の居住の場として、他方は非常時や特別の用途のための施設として、機能を分かち連携して役割を果たしていたことが考えられる
南の館跡 北の館跡
つじの山古墳
向山丘陵の北西にある、近内町の集落に近い場所に単独で立地するつじの山古墳は、幅約9mの周蒜と東側に方形の造り出し部をもつ一辺が約62m、高さ約8.8m、二段築成の大型の方墳である。周凌の発掘調査で墳丘裾部の葺石と、須恵質円筒埴輪や儀杖形木製品などが墳丘に立て置かれたことが明らかになっている。造り出し部を持つ方墳は四条1号墳などあるが類例は少ない。埋葬施設は未確認だが、かつて結晶片岩の板材が出土しており箱形石棺だった可能性が高い。築造時期は5世紀終末前後。
荒坂窯跡
荒坂窯跡は向山丘陵と西河内丘陵の間に西から延びてきた丘陵突端部に位置し、前を流れる関屋川を望む斜面に造営されている。7世紀後半に飛鳥川原寺の創建瓦を供給した、須恵器と瓦をともに生産した瓦陶兼用窯として知られ、これまで12基の窯跡が確認されている。近年行われた周辺の調査では、1号窯の下流150mの地点の北斜面と、その北側の谷部から掘立柱建物3基、竪穴住虐跡5基、土坑などの窯業工房の跡と考えられる遺横が検出されている。これらの遺跡の時期は飛鳥Ⅱ期からⅢ期に限定でき、さらに周辺に未検出窯跡の存在が想定されている。最近8号窯の西側から新たに2基の窯跡を発見した。どちらも操業によって境傷した窯本体を、瓦を混ぜ込んだ粘土などによって補修し焼成室の構造を改造するなどしていたほか、一方の窯の奥壁の構造は4本の煙道を備えた事例の少ないものであることがわかり、朝鮮半島の技術者の関与が簸える。窯跡の前面には廃棄された瓦や須恵器が大量に出土していて、ここで窯の整備や生産された製品の選別が行われたのだろう。
五條市教育委員会前坂先生にご説明いただく。
猫塚古墳
向山丘陵の最も西にあって、関屋川の作る谷を望む位置には猫塚古墳が立地している。一辺が約27m、高さ5mの、二段築成の中規模の方墳で、葺右と三段の円筒埴輪列が確認されている。埋葬施設は結晶片岩を小口積みに用いた長さ約5mの竪穴式石室で、石室外にも副葬品を納める施設が存在した。出土した副葬品は金銅製蒙古鉢形眉庇付宵、金銅製眉庇付冑、鉄鏃、金銅製帯金具などの武器・武具・装身具類のほか、鉄鏨6、鉄鉇、鉄鎚3、鉄紺2、鉄床1、砥石6など使用痕跡を残す鍛冶具を基本とした工具類、埴製枕、朱文鏡などが出土している。古墳は出土遺物からみて5世紀中葉から後半にかけての築造であろう。猫塚古墳から出土している鍛冶具は一古墳から出土している数量としては、大和におけるほかの古墳をはるかに凌ぐこと、また稀少な大陸スタイルの冑や帯金具などを入手していることなど、先進的な大陸の技術をもって鍛冶作業に携わった集団を統率する被葬者像を思い浮かべることができる。

ここで遅い昼食を取る。
鑵子塚古墳
先進地域の古墳文化は中期になって波及し、住川墳墓群に近い宇智川流域の向山丘陵に、この地域最大の近内古墳群が形成される。そのなかの盟主と目される鑵子塚古墳は向山丘陵の最高所を占め、直径約86m、高さ約12mの二段築成の大型円墳で、中期古墳としては県内でも最大級といえる。墳丘は現代の墓地の拡張によって、一段日の平坦部が当初より広げられ改変を被っている。北西側と南東側に痕跡が残る周凌と、外堤をもち川原石の葺石を備え、家形埴輪や楯形埴輪をもつことから5世舵中ごろの築造と考えられる。埋葬施設については定かでないが、盗掘坑付近に結晶片岩の板石があり、その石材を用いた箱形石棺、ないし石室が設けられていたことが推定される。

写真下 墳丘頂の盗掘跡の窪み
丸山古墳
錐子塚古墳がある丘陵の東端には、直径約37m、高さ約7mの二段築成の円墳である丸山古墳が立地し、周囲には幅5mほどの周凌と外堤を備えている。墳丘からは葺石や円筒埴輪が採集されており、埋葬施設についての手掛かりはないが、築造時期は鑵子塚古墳に遅れた5世紀後半頃と思われる。
西山古墳
丸山古墳に隣接するように、その東側には鑵子塚古墳に次ぐ一辺約54m、高さ約7mの規模の墳丘をもつ方墳の西山古墳がある。周囲にその痕跡が明瞭に残されている周濠の幅は約8mをはかる。ここでも結晶片岩の板石がみられるほか、墳丘からは葺石や埴輪が採集されているなど、鑵子塚古墳などとの共通性がありその系統を引き継いで5世紀後半頃に築造されたと思われる。本日は時間の関係で省略。
勘定山古墳
近内丘陵の南東端には直径約17mの小円墳、勘定山古墳がある。結晶片岩の板石を組み合わせて構築された横口式石榔は、長さ210cmの玄室と長さ約60cmでやや幅の広く短い羨道部からなる。石榔の閉塞石の前面から須恵器台付長頸壷、直口壷、高杯、杯、甑や竃などのミニチュア炊飯具が出土している。窯業に従事した渡来系の被葬者が想定できる7世紀中葉に築造された流域最後の古墳。
今井1号墳・2号墳
近内古墳群の南方に横たわる西河内丘陵の南東端、宇智川を望む場所に全長約35mの前方後円墳今井1号墳がある。周漆の存在が現地形にも残り、葺石と円筒埴輪列が確認されている。後円部には2基の結晶片岩を用いた竪穴式石室が構築されている。東側石室には割竹形木棺が置かれ、石室からは細線式獣帯鏡や鉄刀のほか、毅翠勾玉、碧玉製管玉、ガラス小玉など多数の玉類が副葬されていた猫塚古墳や塚山古墳と同様に、主たる埋葬施設以外に副葬品を納めた格納施設がここでも存在し前方部に穿たれた土坑からは三角板鋲留短甲、衝角付宵、頸甲、肩甲、鉄剣、鉄鍍など、武具や武器類の充実振りが特に目を引く。古墳の築造は5世紀中葉頃とみられるが、大型方墳や円墳が盟主的な存在である近内古墳に隣接しながらも、小型とはいえ前方後円墳を採用していることは重要である。
今井2号墳
今井窯跡
左丘陵付近の今井窯跡では6世紀前半に須恵器を生産し始めるが、そこでは杯、高杯、器台、壷など陶邑古窯MT15号窯と同型式のものが出土していて、この地域では最も初期の窯跡と考えられている。
荒木神社
荒木神社周辺にも瓦窯跡があったが、地元に人に聞いても詳細は不明。
写真 下尾 茂敏
解説文は会報より抜粋編集