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白鳥神社古墳→誉田白鳥遺跡→誉田八幡宮→野中宮山古墳→野中古墳→野中寺→塚穴古墳→小口山古墳→峰ケ塚古墳→前の山古墳→高屋城山古墳→近鉄古市駅

例会だより
「出物腫れ物ところ嫌わず」の諺がある、古市駅周辺は古墳、遺跡所かまわずの感があるが古墳や遺跡が先なので、今の開発が所構わずなのか、ご先祖様(古墳)の方が小さくなっている。
いつもは集合場所に気を使うのだが、今回の白鳥神社は静かな境内、広さもぴったし、千賀先生の美声も隅々まで聞こえました。
この地の古墳は、大和古墳群に比べて時代は新しいが墳丘の規模は大きくなっている。特に誉田御廟山古墳は、堺の大仙古墳に次ぐ大きさで全長420m、後円部の径250m、前方部の幅三300mは、箸墓古墳の全長(272m)より長い古市古墳群の盟主的存在である。そしていずれの古墳にも鉄製の武器武具が多く収納されている、これは大陸や朝鮮半島との交流が頻繁で、特に渡来人の流入がこの地の開発に、貢献したのではないかと思う。
未だ田園が残る奈良の古墳だが、ここ古市古墳群は民のかまどならぬ民の住居の海にある。海に浮いている古墳、海に利用されている古墳、海に沈んだ古墳、羽曳野の古墳はにぎやかな民のかまどに囲まれている。
(仲井 紘)
 
白鳥神社古墳
集合は近鉄古市駅東側の白鳥神社。
千賀久先生に古市古墳群の南半分を案内いただく。
参加した会員は225人。
古市駅のすぐ東にある白鳥神社の境内は、前方部を駅と線路で壊された前方後円墳、白鳥神社古墳の後円部にあたると復元されている。線路をはさんで、前方部の端に想定されたところの包含層から、盾・家・キヌガサ・円筒などの埴輪片が出土しているが、周辺の調査では、前方後円墳とする根拠は得られていないようだ。
 
誉田白鳥遺跡
古市駅の北西一帯にひろがる誉田白鳥遺跡、そのなかに国史跡として現地保存されたところがある。それは、昭和44(1969)年、国道170号線の改修工事のときに、市役所の南東でみつかった埴輪工房の掘立柱建物と窯跡、粘土採掘跡などの一部である。この遺跡の埴輪窯は、これまでに11基確認されていて、その構造は須恵器とおなじ窖窯(あながま)である。出土した人物・馬・鹿・家・盾・軟・円筒などの埴輪の特徴は、5世紀後半から6世紀前半までの時期のものである。ただし、すぐ近くには墓山古墳や誉田御廟山古墳があり、それらの築造に際して編成された埴輪工房とみるのが自然なので、本来は5世紀前半~中葉までその開始時期が遡るのではないだろうか。なお、誉田御廟山古墳のような巨大古墳の築造時には、当時の優秀な技術者を動員するため、それを契機に新たな生産システムが考案されることがある。このときには、埴輪の暁成に窖窯が本格に採用され、埴輪生産のなかで大きな画期となった。
 
誉田八幡宮
誉田御廟山古墳墳丘の南(後円部側)には、応神天皇を主祭神とする誉田八幡宮があり、その境内には、竪式石室の天井石と、長持形石棺の小口石がみられる。さらに、古墳の北側の誉田丸山古墳出土と伝える、国宝の金銅製鞍金具が収蔵されている。嘉永元 (1848)年に出土した二具のうちの2号鞍は、中国東北部の遼寧省に類似品の出土例があり、4~5世紀前半にこの地に拠点を置いた、鮮卑族の馬具に共通する。
 
放生橋(太鼓橋)
毎年9月の大祭には神輿が、太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられた。
長持形石棺の小口石(左)
 
竪式石室の天井石 池に中の竪式石室の天井石
 
誉田御廟山古墳
古市古墳群で最大の誉田御廟山古墳は、5世妃前半~中葉の前方後円墳で、百舌鳥・古墳群とあわせて、4代目の大王墓である。その前の百舌鳥陵山古墳(365m)と、後の大山古墳 (486m) とともに、墳丘の巨大化のピークを迎える。(全長400mを超える巨大古墳では2代目)
 墳丘長425m、後円部の径250m、前方部の幅300m、墳丘の高さはともに35~36mあるため、遠くから見ても古墳の巨大さは実感できる。三段築成の墳丘の各段と、二重の周濠にともなう外堤に、それぞれ埴輪列が巡らされていて、埴輪の総数は2万本以上とする試算がある。
 これまでに知られている形象埴輪は、家・キヌガサ・盾・靫・甲宵などとともに、白鳥が十数体と馬がある。とくに、津堂城山古墳の埴輪によく似た白鳥が、この古墳にも伴ったことは注目できるが、その出土位置も共通しそうだ。つまり、明治年間に出土したのは内濠の浚渫(しゅんせつ)時のことであり、城山古墳と同様に島状遺構であった可能性を、近つ飛鳥博物舘の昨年の特別展図録で指摘された。
 白鳥といえば、記紀に伝えるヤマトタケルの白鳥説話を思い浮かべる。つまり、死者の霊魂を運ふ鳥としての白鳥の役割とともに、その羽を休めたところは、霊のとどまる所でもあるという伝承が、河内の大王やその一族のあいだで、語り継がれていたのではないだろうか。

写真上 二重の周濠の内、外側の周濠跡
 想定される島状遺構は反対側、二つ塚古墳との間の内側の周濠内

写真下 陪塚 手前 東山と 奥 アリ山
 
野中宮山古墳
誉田御廟山古墳の南西には、墳丘の主軸を東西に向けた前方後円墳が3基ある。はざみ山古墳(103m)、野中宮山古墳 (154m)、墓山古墳(225m) と並ふ。このなかでも墓山古墳は、ある程度の内容がわかる。宮内庁によって応神陵の陪塚に指定されているが、明治年間の浜田耕作の観察所見などから、後円部の盗掘坑に長持形石棺の竜石片があったと判断されている。出土品の滑石勾玉と、家・盾・靫・キヌガサなどの埴輪の特徴から、五世紀前半の時期が想定できる。古墳群中では五番目の規模をもつ古墳であり、周朗には複数の方墳の陪塚が伴う。
 野中宮山古墳も5世紀前半の古墳。
墳丘南側の造り出し周辺の発摘調査では、斑鳩町瓦塚古墳の埴輪に似た壷形埴論の列と、家・キヌガサ・盾・囲形・水鳥・鶏・猪・馬などの埴輪が、まとまって出土した。

今日の行程で墳丘に登れる唯一の前方後円墳。思い思いに紅葉の墳丘を探索。

写真上 後円部
写真下 前方部
 
野中古墳
墓山古墳後円部の西の野中古墳は、一辺37mの方墳。墳丘の頂上に5列に並ふ木箱に、一体を埋葬し副葬品を納めていた。鉄製品は、11領の甲胃、多量の刀剣・銑鉄・農工具、三六kgの鉄挺など、さらに加耶の陶質土器と初期須恵器が伴った。   また、前方部の南東の西墓山古墳(一辺約20mの方墳) からも、刀剣や各種農工具などの大量の鉄製品が出土し、注目された。ともに、中央政権への鉄の集中を物語っていて、野中古墳の土器は、この時期に加耶との関係を維持していた外交情勢を反映する。
 誉田御廟山が大王の墓、墓山古墳の主が大王の部下、野中古墳の主はそのまた部下と想定され、大量の副葬品は野中古墳の主ではなく墓山古墳の主の所有と推定。
 
野中寺
野中寺は、寺に伝わる弥勒菩薩半思跏惟像の台座に、丙寅四年(666) の銘がある。創建時の伽藍配置は、中門から北を見て、東に金堂、西に塔、北の正面に金堂が配されていた。川原寺の、東金堂と塔を逆転させた配置だ。この寺の塔心礎には、亀の彫刻があり、径71cmの心柱の三方に添柱孔があり、橘寺の心礎に似ている。
 なお、この地域を考えるためには、『日本後紀』の記事が重要だ。菅野真道の延暦十八年(799) の上表文で、葛井、船、津三氏の墓地が、河内国丹比郡野中寺の南にあり、そこを寺山と呼んでいたことがわかる。
 その寺山の一角に善正寺跡が位置するが、渡来系氏族の三氏の氏寺については意見が分かれる。このうち葛井氏=葛井寺に異論はないが、船氏の氏寺を野中寺にあてる考えは、井上光貞氏の研究以来、有力視されてきた。ただ、最近では、その所在地や調査成果から、在地氏族の野々上連や野中連をあてる考えも示されている。そして、善正寺跡は、船氏あるいは津氏とする意見もある。

ここで遅い昼食をとる。
 
塔礎石 亀の彫刻にある塔心礎(頭は左下)
 
野中寺南西1kmにあったヒチンジョ古墳のニ上山凝灰岩を使った横口式石槨。7世紀終わりから8世紀後半の築造。 金堂跡
 
塚穴古墳
塚穴古境は、宮内庁の測量図では、一辺45mほどの上円下方墳の可能性があり、明日香村岩屋山古墳のような、切石使用の横穴式石室が、明治時代までは開口していたようだ。なお、被葬者といわれる来目皇子は聖徳太子の弟で、603年に没し、『日本書紀』では「河内埴生山の岡の上」に葬ったと記す。古墳の年代と大きな矛盾は無い。
 
小口山古墳
峯ケ塚古墳の西の丘陵に、小口山古墳がある。径30mほどの円墳で、明治時代にすでに「河内軽里の掘抜石棺」として紹介されている。墳丘の北と東側には、丘陵とのあいだに堀割があり、この時期の古墳の特徴を備えている。埋葬施設は、二上山の白色擬灰岩をくり抜いた横口式石榔で、内部は長さ2.13m、幅1.17m、高さ0.63m、外の天井部は屋根形に削る。この石櫛は板石三枚の上に置かれていて、周囲の三方にも大きな石を積む。この古墳は、7世紀末ごろの年代が想定でき、すぐ西にある白鳳期の善正寺跡との直接の関わりが考えられる。この寺跡は、今では完全に宅地化されているが、戦前までは基壇の痕跡がのこっていて、薬師寺式の伽藍配置であったことがわかる。
 
順に石槨を見学 石槨上部には盗掘穴?
 
峰ケ塚古墳
墓山古墳の西・南に少し離れたところに、ボケ山古墳(現仁賢陵、122m)、峯ケ塚古墳、前の山古墳(現白鳥陵)、白髪山古墳 (現清寧陵、115m)、高屋城山古墳 (現安閑陵) がある。それらは、古市古墳群の最終段階に属する、5世紀後半から6世紀前半の前方後円墳である。
 発掘調査された峯ケ塚古墳は、墳丘長96m、後円部径56m、前方部幅74mの墳丘に、二重の周濠と堤が伴う。後円部に石室があり、東半部が未調査だが、幅広の竪穴式石室か竪穴系横口式石室とみられる。阿蘇石の石棺が採用されていて、石室奥壁沿いに置かれた飾り大刀や挂甲・馬具・玉などの副葬品があった。5世紀末~6世紀初頭の、大王家に近い有力者の墓の内容が明らかになった点で、重要な古墳である。
 
前の山古墳
前の山古墳は、軽里大塚古墳とも呼ばれ、景行天皇の皇子、ヤマトタケルの白鳥陵に比定されている。墳丘長190m、後円部径106m、前方部幅は165mに開いている。この古墳に伴う円筒埴輪には、5世紀後半の特徴がみられる。
 『日本書紀』に伝える説話は、つぎのような内容だ。東征の帰路、伊勢の能褒野(のぼの) で病死したヤマトタケルの墓を現地に築いたが、白鳥に化身して飛び去り、大和の琴弾原(御所市に伝承地あり)を経て、古市に留まった。三たびその地に墓を造ると、白鳥は天高く飛び去ったという。
 白鳥の代わりに、たくさんの鴨が周濠に遊ぶ。
 
高屋城山古墳
高屋城山古墳(安閑天皇陵)は、墳丘長122m、後円部径78m、前方部幅100m、北西の隅が直角に近い墳形が特徴といえる。墳丘は、室町時代に畠山氏の高屋城の本丸に利用されたため、大きく乱れている。6世紀初頭に下る時期で、南側のくびれ部付近に、横穴式石室らしき空洞があったとの伝承がのこる。また、東京国立博物館には、この古墳出土と伝えるカットグラスの碗がある。
安閑天皇は継体天皇の跡をついで2年在位したが、欽明天皇と両朝並列との説がある。
 
西琳寺
西琳寺は、塔の心礎がよく知られていて、南北の東高野街道と、東西の竹内街道の交差するところに寺域が想定されている。波釆系氏族の西文氏の氏寺と考えられ、伽藍配置は西に金堂、東に塔の、法起寺式になる。
 
写真 下尾 茂敏、仲井 紘
解説文は会報より抜粋編集