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中央公民館内 川合町資料館→長林寺跡(スサノオ神社、現長林寺)→中良塚古墳→川合大塚古墳→広瀬神社→富貴寺(本堂拝観)→大福寺(拝観)→櫛玉売女神社(古墳後円部に建つ)→近鉄箸尾駅

例会だより
 今回は八つの川が合流して大和川になり河内方面へ流れていく水運の拠点地であり、主神は水の守り神である広瀬神社近辺を学習した。まず集合場所である近鉄池部駅のすぐ近くにある河合町文化財展示室へ。参加者一六六名と大  勢の為、資料室の方のご厚意で9時30分から順次鑑賞。奈良県唯一の大型動物化石をはじめ旧石器時代から室町時代までの数々の出土遺物の展示を鑑賞し、次の長林寺へ。金堂の基壇や塔の心礎などを見て、「穴闇塚」の名称の転化と考えられている中良塚古墳、次は川合大塚古墳へと一行の足は進む。
そして今回のコースの一番北にある広瀬神社で昼食。小休止の後、定林寺を横目に見ながら富貴寺へ。もうこの時間帯には飲料水の自動販売機に行列ができる暑さ。それもそのはず、近くの滋賀県では十一人の熱中症患者が出たと言う。そして西寺だけが存続している大福寺、すぐ東にある東大福寺の観音堂を見る。最後に近鉄箸尾駅の近くの櫛玉比女神社へ。社殿の位置が前方後円墳の後円部にあることで、古墳と神社が結びつく例として注目されている。古墳を確認して、ここで解散。炎天下の中、参加者の皆様、お疲れ様でした。大西先生、有難う御座いました。(鈴木 征三郎)
 
近鉄池部駅
近鉄池部駅10時集合。
到着した会員から順次中央公民館内 川合町資料館を見学。
 
川合町資料館
資料館は事前に連絡すると開けていただける。今日は早朝からボランティアの方々にスタンバイしていただいた。
一室は民族資料の展示
◇古代寺院の出土品展示 長林寺など
◇古墳の出土品展示
 ・池部3ツ池1号墳 石室再現
 ・中良塚古墳、高山2、3、4号墳、川合城山古墳
 ・川合大塚山古墳、川合丸山古墳、ナガレ山古墳 など
 
見学を終え、中央公民館前で大西先生から今日の訪問地広瀬郡の解説を聞く。

曇りの予報が朝から蒸し暑い快晴。集まった会員は166名。今日は、古代広瀬郡の遺跡を巡る10kmの平坦コース。
 

近鉄線路を越えて馬見丘陵から広瀬郡の低地に足を運ぶ。
穴闇(なぐら)の集落の中、池の傍の大きな屋根が長林寺。裏の森が素盞鳴神社。
 
長林寺跡 長林寺
長林寺は鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」によると聖徳太子が創建された46伽藍の1つ。地名から穴闇(なぐら)寺、長倉寺と呼ばれた。近くに朝廷の蔵があり、それを管理する長倉造の造営とも考えられている。江戸時代中期に建立された今の長林寺の境内に花崗岩製の塔の心礎が残る。
 
長林寺跡 素盞鳴神社
元の寺域は東西1町、南北1町以上で、金堂の東側に塔をおく法起寺式。多く出土する法隆寺式単弁忍冬唐草文軒丸瓦から創建は7世紀第4四半期と推定される。金堂遺構は西隣素盞鳴(すさのお)神社の境内が中心。
鳥居の東側に礎石群が残る。桁行5間、梁行4間、柱間隔は8尺。基壇周辺に丸瓦を立て並べその上に平瓦を立てる瓦積み基壇。
 
中良塚古墳 高山1号墳
川合大塚山を盟主に城山古墳、高山1~4号墳をあわせ計8基の古墳で大塚山古墳群を形成。
 中良(なから)塚古墳(高山1号墳)後円部を望む。
前方部を北に向けた5世紀後半築造の前方後円墳。全長88m、後円部直径48m、後円部高6.5m、前方部幅50m、前方部高6.5m。墳丘は二段築成で、テラスに円筒埴輪列が巡り、斜面部には葺石が施され、墳丘の周囲に周濠が巡り、更に外側には外堤が巡っていたと考えられる。埋葬施設は不明だが、粘土槨があったと思われ、出土遺物は円筒埴輪の他に朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪および須恵器。中良(なから)塚古墳の名称から長倉(ながくら)造との関係も推定される。
後円部から前方部を望む
 
高山2号墳
中良(なから)塚古墳(高山1号墳)は西側周辺の2、3、4号をあわせ支群を形成。
2号墳は 現在は18×16mの方形だが、隣接保育所で周濠を確認。5世紀後半築造の周濠がめぐる直径30mの円墳と推定。
 
川合大塚山古墳
前方部を南に向ける全長197m、後円部径108m、前方部幅123m、大型の前方後円墳。墳丘は三段に築成され、円筒埴輪が並べられ、斜面に葺石が葺かれていたと思われる。また、埋葬施設は竪穴式石室と考えられているが、未調査。墳丘の周囲に盾形周濠の痕跡をよく残す。墳丘の形や埴輪から、5世紀中頃から後半にかけての築造であると推定。同時期の古墳としては、奈良県下で最大級。
くびれ部から順に墳丘に上る。
 
後円部斜面。竹で覆われ墳形を確認するのは難しい。
前方部には明治40年陸軍大演習時の天皇の本部が置かれた記念碑が建つ。
 
広瀬神社
主神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)。佐保川・初瀬川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川等、大和盆地を流れる全ての河川が一点に合流する地に祀られていることから、主神は水とそれに関わる食物の神。山と風を司る龍田風神(龍田大社)と対照的。社伝では、「崇神天皇九年(前89年)、廣瀬の河合の里長に御信託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる」との記述があり、古墳群とのかかわりや、祭祀が古代以前に遡る可能性もある。日本書紀天武天皇4年4月10日(675年)に、「小紫美濃王、小錦下佐伯連広足を遣わし風の神を竜田の立野に祭らせ、小錦中間人連大蓋(はしひとのむらじおおふた)、大山中曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)を遣わし大忌神を廣瀬の河曲に祀られた」と記されていて、これが毎年4月4日と7月4日に行われた大忌み祭の始まりと伝えられる。
 
定林寺
近世の絵図には定林寺、神宮寺、安隆寺、長明寺などの神宮寺が描かれ現在も定林寺が残る。
 
城山古墳
全長109m、6世紀前半終末段階の南面する前方後円墳。周濠と外堤の存在が推定。墳丘全体が畑となっている。
 
富貴寺
広瀬神社を東に蘇我川を渡る。
六県神社の境内に在り、神仏習合の寺。無住無檀で壺阪寺の末寺でもある(真言宗)清涼山「富貴寺」。延喜式内社穂雷命社に比定する考えもある。
平安朝貞観年間(859~877)に法隆寺の東院伽藍を再興した道詮律師の草創といわれ、道詮の隠棲した平群町普門院富貴寺と名前が同じ。
本堂は桁行5間、梁行4間の寄棟作り。仏壇一郭を格子戸で囲む特異な作り。平安末期1178年築造で1388年再建。中世の本堂建築に貴重な例で重要文化財。昭和39年の解体修理時に創建時の基壇、礎石を確認。
本尊は木造釈迦如来座像(国重文・平安時代後期) 木造地蔵菩薩立像(国重文・平安最末期)も安置。背後の来迎壁には壁画が描かれ、右に5体の如来、左に明王像、全体の左右に文殊菩薩と普賢菩薩が描かれている。明王と如来像は、創建時のものが残る。
 本堂の東にあった羅漢堂は、平安時代後期創建の三重塔の初層部と考えられるが、老朽化のため昭和9年解体、昭和44年法隆寺に寄進され、昭和46年再建(重文指定)。
 
大福寺
聖徳太子創建46伽藍の1つで、広瀬寺の後身と伝えられるが古代に遡る遺構遺物は知られていない。古代の広瀬寺の候補として、寺戸集落の西側寺戸廃寺が考えられる。
大福寺は東西2寺からなっており、明治25年に東寺が廃止された。
 
東大福寺からは平安時代から中世の多数の泥塔が出土したことで知られ、内部には紙に書いた経を納めた。博物館の常設展示の泥塔の出土地候補。現在は住宅地の片隅に観音堂が残る。
 
櫛玉比女神社
櫛玉比女神社は天川村の天河弁財天を鎌倉時代に勧請した水の神と伝える。
本殿は前方後円墳の後円部に築造されており、古墳と神社の祭祀との関連が注目される。
ここで解散。暑い中お疲れ様でした。
 
教行寺
箸尾駅への帰路教行寺に立ち寄る。
蓮如上人が開いたことで始まり、親鸞上人が表した「教行信証」に因んで「教行寺」と名付けられた。本堂は、横26m、奥行き22mの巨大な入母屋造り。
 
(文責 写真 下尾 茂敏)