yushikai.jpg

田原本町津島神社→田原本寺内町→平野氏陣屋跡→下ツ道→鏡作座天照御霊神社→鏡作麻気神社→唐古鍵ミュージアム(田原本教育委員会藤田三郎さん講演)→羽子田古墳群→保津・阪手道→鏡作伊多神社→太子道→保津・宮古遺跡→笹鉾古墳群→鏡作神社→近鉄石見駅

6月例会だより
幸運にも前線が南下して、朝から晴れ間がのぞく。きょうは、4月に研究所から異動された山田隆文先生の初めての例会。ホームグラウンドの田原本・鏡作神社周辺、特に下ツ道、太子道とそれをつなぐ保津・阪手道をたどり、田原本寺内町と、鏡作郡黒田郡にまたがる五つの鏡作神社中心に案内いただいた。津島神社に集まった会員は215人、「田原本は、室町時代に楽田寺の門前町として成立。教行寺の寺内町から平野氏の陣屋に発展」との解説を聞き、午前中は、鏡作天照御魂神社、鏡作麻気神社から唐古・鍵ミュージアムへ。田原本教育委員会藤田先生の講義を聞き昼食。午後は、牛形埴輪が出土した羽子田古墳群(削平)から二つの鏡作伊多神社、さらに人物埴輪が出土した笹鉾山古墳群へ。最後に5番目の鏡作神社、石見鏡作神社で、暑い中事故もなく解散。山田先生今後もよろしくお願いいたします。(下尾 茂敏)
 
津島神社
駅前は狭く、駅東側津島神社集合。
4月に研究所から異動された山田隆文先生の初めての例会。
山田先生はここ田原本のご出身。ホームグラウンドの田原本・鏡作神社周辺をご案内いただいた
津島神社は元は祇園社といい、明治時代に書き写された棟札には天治2年(1125年)の年号があり、平安時代以降中世の田原本の産土神であった。明治2年、田原本城主平野氏の出身地尾張津島にちなみ津島神社と改称。
 
寺内町
津島神社向かいに立つ楽田寺(正面)から下ツ道に沿って北上。
田原本は当初津島神社と楽田寺の門前町として発展。楽田寺の創建は天平元年(729)と元享2年(1322)の説がある。室町時代には坊が20を超える大伽藍だった。
下ツ道の道標。
田原本には5基の道標がある。「北へ」は京、奈良、郡山、「南へ」は大峰、吉野、高野の地名が書かれている。「すぐ」は「すぐそこ」ではなく「まっすぐ」の意味。
常夜灯として用いられる太神宮灯篭も多く残る。
 
鏡作座天照御霊神社
鏡作座天照御霊神社。
古代氏族鏡作氏の氏寺。鏡作郷の郷社で延喜式にも見える。祭神の天照御魂は天照大神の象徴でr鏡すなわち天照大神そのもの。天凝姥命は鏡作氏の祖で八咫の鏡を作ったとされる。天児屋根命は中臣氏の祖で天岩戸の前で鏡を持っていた。
神宝として外区の欠損した3神2獣鏡がある。近所の古墳で出土したものかと思われる。
朱塗り本殿 境内にある、鏡の鋳型とも思われる石。
先生は子供の頃そう教えられたが鋳型はやはり土で作るもの。
 
鏡作麻気神社
寺川を渡り東へ。
鏡作麻気神社は江戸時代まで子安神社と呼ばれたが、明治になって延喜式鏡作麻気神社に比定された。
祭神は天凝姥命の子、天糠戸命と、鍛冶屋の神とされる天目一筒(あめにまひとつ)神とも呼ばれる麻比止都禰(まひとつね)命。
神社東500mのところに多々羅部の地名があり、鋳物の道具踏鞴を想起させる。





境内には巨大なケヤキの木がそびえる。





今日は観音講の日。近所のご老人がお堂の清掃中。
 
唐古鍵ミュージアム
唐古鍵ミュージアムで田原本教育委員会藤田三郎さんの講演を聞き昼食。
 
羽子田古墳群
羽子田古墳群は田原本幼稚園の地下から発掘調査で見つかった22基の埋没古墳群。
前方後円墳の1号墳から牛形埴輪、盾持ち人の埴輪が出土。唐古鍵ミュージアムに展示されている。
前の道は、保津阪手道とよばれる、下ツ道と太子道をつなぎ、東は古代の都桜井、西は川合にむかう古代の道路。
 
宮古鏡作伊多神社
鏡作伊多神社は、近接して、鏡作郷に保津鏡作伊多神社と隣の黒田郷に宮古鏡作伊多神社がある。
祭神はともに天凝姥命。
 
宮古北遺跡
保津阪手道から太子道に入る。
正面に建物が宮古北遺跡。歩いている道は太子道。
建物跡が見つかっており、方向が太子道より保津阪手道に沿うことから巷に建つ官衛跡とも見られる。
 
黒田郷
孝霊天皇廬戸宮伝承地。孝霊神社。
 
笹鉾山古墳群
笹鉾山古墳群は5基の古墳群。1号墳は当初古墳とは認識されてなかったが、発掘調査の結果、墳丘長50.4m、二重の周濠を持つ前方後円墳であることが判明。(大和古墳取調べ書には記載されている)円筒埴輪や家形埴輪が出土。 2号墳は道路左、畑と田圃の境目付近にあった直径22mの小円墳。円筒埴輪のほか人物、馬形、蓋形埴輪のほか、儀仗形、笠形木製品が出土。
墳丘の残る笹鉾山古墳群
 
石見鏡作神社
延喜式に記載がなく、黒田郷にある鏡作神社。
 
石見
曲がりくねった道を持つ環濠集落。
15時30分過ぎ解散。
 
 (文責 写真 下尾 茂敏)