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慶雲禅寺→屋敷山古墳→布施城→二塚古墳→火振山古墳→葛城市歴史博物館

4月例会だより
 
 今期、最初の例会の集合場所は、近鉄新庄駅、次々に友史会員が到着し、集合時間には、145名が集まりました。
新庄駅から、西へのどかな町を歩いて行くと、布施城城門と言い伝えの残る慶雲禅寺を見学し、屋敷山古墳へ、
後世に、布施氏、桑山氏の屋敷があった様だが、古墳の前方部・後円部の形はよくわかる古墳で、奈良盆地への眺望も最高の立地である事がわかる、廻りは、公園に整備されていて、公園の入り口には、両端に突起のある天井石があります。
さらに西へ、『山を愛する会』の方々による、《布施城跡まであと900m》という表示に従い右に急な山道を登って布施城跡を目指しました、天守跡にたどり着いた頃には、かなりの汗が出ました、天守跡では、《布施城跡まであと600m》の表示あたりが布施城入り口である事、城があった時代は、北側の二上山雄岳に、二上山城、さらに北に信貴山城があった事、人々は、武具を装備しての移動に、どれだけの重労働であったか窺える等の説明を先生から受け、天守跡周りで、昼食、二塚古墳では、石室が3つあり、地元の友史会員の協力で普段鍵の掛かっている石室も開けて頂き、ゆっくり見学する事ができました。
葛城市歴史博物館では、田中先生から、布施城に関する遺跡の説明を、20分程度していただき、その後展示室で、ここまで見学してきた屋敷山古墳の組み合わせ石棺、布施城・二塚古墳の復元模型等、館内を見学し、それぞれ解散しました。急な山道、城跡、石室内見学、順序良く説明していただきました、石井先生ありがとうございました。(大西 寿江)

新庄駅
近鉄御所線新庄駅10時
今日は、石井先生のご案内で葛城山中腹標高400mにある中世の山城布施城に登る。
集まった会員は145人。
慶雲寺
新庄駅西に布施氏の菩提寺、供養の五輪塔が残る慶雲寺がある。山門の瓦は新しいが、布施城のどこかの虎口から移築されたもの。布施城には複数の虎口があった。
屋敷山古墳

屋敷山古墳
全長145m、後円部径78m、前方部幅90mの中期の前方後円墳。盾型、家形、円筒形などの埴輪片が出土。
屋敷山古墳には関が原以前は布施氏の館があった。
これから訪ねる布施城は戦時の城、屋敷山は平時の城。
江戸時代には桑山氏が陣屋を建設したが、17世紀終わりに改易になり畑地になった。
墳丘横に展示されている、墳丘斜面に露出していた天井石。
くびれ部近くの調査で長持式石棺の蓋と小口部分の石が見つかる。
布施城は正面尾根
山道にさしかかる。
参加会員145人の内134人が布施城へ
布施城
曲輪(くるわ)南側の道を一気に主郭をめざす。
主郭跡

主郭跡周辺で昼食。
12時17分三重亀山を襲った地震をお尻で感じる。
主郭跡奥に残る畝状竪堀跡
櫓台跡
虎口跡の石組
二塚古墳
古墳時代後期の前方後円墳。
全長60m、後円部径36m。
後円部、前方部、作り出し部に石室。
後円部石室。通常は施錠されているが、朝から会員の橋本さんが地権者の方から鍵を拝借し会員は順に石室内へ。

両袖式石室は全長16.4m、玄室長6.7m、幅3m、高さ4.1m。
くびれ部の石室。
長さ4.5m、幅1.4m、高さ1.3m。
玄室より羨道が低く作られている変わった構造。
前方部の石室。組み合わせ石棺の底部や馬具、鉄鏃などが出土。片袖式玄室を備え、玄室長3.9m、幅1.7m、高さ1.9m。
火振山古墳
古墳時代中期の前方後円墳。かつて新庄神(こう)塚と呼ばれた。全長95m以上、後円部径55m、前方部幅36m。
葛城市歴史博物館
葛城市歴史博物館にて田中先生の布施城の説明を受ける。
布施城の築城時期は不明だが布施氏によって築城された山城。布施氏は7世紀遣唐使に名前が見える置始(おきぞめ)氏を祖とする筒井順慶配下の大和の国人。永禄8年(1565)信長の命を受けた松永久秀に攻められ筒井順慶は筒井城をすてここ布施城に逃げ込んだ記録が東大寺多聞院日記に残る。永禄11年、12年の信長の攻撃にも耐え、松永久秀が信長に背き滅びた後、筒井順慶が大和国主になったが、一国破城の命により取り壊された。
各自見学後解散。
 (写真 文責 下尾茂敏)