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近鉄藤井寺北口→津堂城山古墳→高鷲丸山古墳→岡ミサンザイ古墳→シュラホール→小室山古墳→仲ツ山古墳・三ツ塚古墳→市ノ山古墳・長持山古墳の石棺→近鉄土師の里

12月例会だより
 心配された天候も、雨も降ることもなく、参加者約200名で、駅前の混雑を避けて、一路津堂城山古墳へスタート。この古墳は河内の大型古墳としては初代の古墳、室町時代の築城のどによって、墳丘はかなり傷んでいたが、そのスケールの大きさは、千賀先生の周濠や堤の説明でより実感できた。水鳥埴輪と祭祀のお話の後、現雄略陵に比定されている高鷲丸山古墳に向う。この古墳は円墳であり、その時期も確定できず、その比定に多くの疑問が残る。昼食場所シュラホールへ、途中全て取壊わされた藤井寺球場跡横を通り、辛国神社に立寄り、先生の若き日の思い出、葛井寺や井真成等についてのお話を伺う。やっと午後一時昼食。午後は近くの岡ミサンザイ古墳からスタート再度雄略陵との関連について説明をうける。次に右手前方に巨大古墳誉田御廟山古墳を眺めながらウオーク。予定外の大鳥塚古墳の枯葉で埋った急斜面を墳頂へ、高齢の男性会員の後を高齢女性会員が押されるほほえましい光景を目にする。続いて古室山古墳に登り眺望を楽しむ。修羅が出土した三ツ塚古墳と仲ツ山古墳を経て、道明寺小学校内にある長持山古墳の石棺を見学。最後は雄大な周濠をもつ市ノ山古墳で予定時間を少しオーバーして例会は終了。先生には各見学場所で丁寧な説明をうけるとともに、関連施設〝まほら・しらやま〟〝陵南の森センター〟〝アイセル・シュラホール〟では充分時間をとり、又登れる古墳は全て登り終日古墳めぐりを堪能させていただきありがとうございました。(片岡 昭)
 
近鉄藤井寺北口
午前中雨の予報にもかかわらず
北口を埋めた参加者202名、古墳めぐりは参加者が多い。

平成8年4月28日以来10年ぶりの古市古墳群北半部訪問。
 
津堂城山古墳
古市古墳群のなかで一番古い、一番北側に位置する津堂城山古墳。墳丘長は208mだが、周濠と堤が二重にめぐり全長は400mに達する。まだ墳丘には秋色の残る。
後円部にある八幡社。
神社裏の陵墓参考地からは、1912年に竪穴式石室と長持形石棺が見つかっている。正面右の「八幡社旧址」の石碑は凝灰岩の石棺を流用。
東側周濠の内側で千賀さんの説明を聞く。
「周濠内に17mの方形の島(前方垣の内側)が確認され、コハクチョウをモデルにした水鳥の埴輪が3体立てられていた。 レーダ調査で西側周濠でも島を確認している。
盾形の二重周濠は以降の大王墓に引き継がれており、津堂城山古墳も規模は小さいが大王墓と考えられる」
 
高鷲丸山古墳(現雄略天皇陵)

現雄略陵の高鷲丸山古墳は、直径76mの大形円墳。「天皇陵=前方後円墳の前提では、高鷲丸山が雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時の中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方がある」


東側の明治時代に改修された前方部。
後円部(円墳部)
 
辛国神社
藤井寺駅南側、古墳群中央に位置する雄略天皇が建立したとの由来ある神社。向かい側は渡来系藤井氏の氏寺葛井寺。中国西安郊外で遣唐使として唐に亘り36歳で客死した「井真成」の墓誌が発掘された。渡来系の人々は漢文の外交文書作成などに重用され遣唐使にも選ばれたと考えられ、「井真成」はここ葛井氏の出という説もある。 「古市古墳群築造には渡来系の人々も関わったと推定され、神社、寺の創建は古墳群築造時に遡る可能性もある。」
 
アイセルシュラホール
岡ミサンザイ古墳陪塚鉢塚古墳を横目にシュラホールへむかい遅い昼食タイム。
 
岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)
岡ミサンザイ古墳陪塚 割塚古墳
岡ミサンザイ古墳は墳丘長242mの5世紀後半の大型古墳。作り出し付近に等高線の乱れがあり、 横穴式石室の可能性もあるが宮内庁書陵部は否定。時代的には雄略天皇陵の可能性もあるがここは「恵我長野」、雄略陵所在地といわれる「丹比高鷲原」とは地域が異なる。
 
大鳥塚古墳
東へむかい、誉田御廟山(応神天皇陵)を崩した断層(手前の川)を越え大鳥塚古墳へ
墳丘長110mの5世紀前半の誉田御廟山に先行する前方後円墳。後円部で説明を聞く。「この古墳の築造時には誉田御廟山も築造に着手しており、工人が片手間に作った可能性もある。被葬者は工人トップの土師氏の可能性もあるが、大王の周辺の人物(王位につけなかった皇子など)と考えるのが妥当。」
クヌギの落ち葉がきれいに敷き詰められていた。
 
赤面山古墳
大鳥塚北側の高速道路の下に残る。
 
古室山古墳
大鳥塚古墳の北側に位置する仲ツ山に先行または同時期の全長150mの前方後円墳。後円部に竪穴式石室の存在が想定される。
 
三つ塚古墳

三つ塚古墳は西から1辺36mの助太山古墳と50mの中山塚、八鳥塚の3古墳からなる。中山塚と八鳥塚の間から修羅が出土。
西端の助太山古墳墳丘には石が露出し、横口式石槨が考えられるため、終末期古墳。修羅の時代は、終末期との見方が有力だが、北に隣接した埴輪窯からの流入土から、大形古墳の中山塚と八鳥塚とあわせ修羅も5世紀中葉との説がある

助太山古墳墳丘の露出した石
中山塚と修羅出土地点(マンションの地下)
 
仲ツ山古墳
仲つ山古墳は墳丘長290mの津堂城山古墳に後続する3段築成の前方後円墳。V字形に切れ込んだ濠が特徴。
近鉄線路に沿う陪塚の鍋塚古墳。
 
市ノ山古墳(現允恭天皇陵)
市ノ山古墳陪塚、長持山古墳の阿蘇凝灰岩製の舟形石棺。
長持山からは朝鮮伽耶の武具(東博所蔵)も出土しており、畿内の大王が九州の首長を通じ朝鮮につながっていたと推定される。
市ノ山古墳は墳丘長230m誉田御廟山(応神天皇陵)に後続する5世紀中葉の前方後円墳。允恭天皇陵として時代は合う。周濠部は広々としている。

10年前の例会では、千賀さんの大胆な古墳被葬者の比定が披露されたが、今回は残念ながら聞くことができなかった。

日中は晴れ間が広がり絶好の例会日和。北からは黒々とした雲が迫る16時10分、近鉄土師ノ里で解散。
 
 (写真 文責 下尾茂敏)