三輪山登拝→玄賓庵→桧原神社→ホケノ山古墳→茅原大墓→弁天山古墳→狐塚古墳
例会だより 仲井 紘 | |
JR三輪駅10時、雨天のなか広くもない駅前が熟年男女で埋まった。102名、皆さん気合が入ってます。その調子で、三輪神社ご神体の山に登ります。前半はウォーキングでなく登山です。 ご神体(三輪山)登拝口で荷物を置き空身で歩き ます。しばしの間、考古学を忘れて神の寄代、頂上の磐座群(自然石)を参拝に健脚者で一時間の登山となります。(入山料300円)休日でも1日100人ほどの登山に、100人超える団体さんの登り、お山の神様もびっくりでしょうね。登山口ではマイク、カメラ、弁当はダメ!神様の住んでいるところですから、その辺のところご理解のほどを。頂上は小さな社と岩がゴロゴロ、この岩が神様の寄代磐座群である。神様は天から来るのか磐座のうえはしっかり青天井。(憎い演出ですね)三輪神社境内の休憩所で遅い昼食となる、100人収容の休憩所も今日ばかりは満員です。 玄賓庵 謡曲「三輪」(と言っても私にはわかりません)に謡われている玄賓僧都が都(京都)を逃れて隠れ住んだ庵とのこと。今でも辺鄙な所だが、景色と空気がご馳走の世界、やはり隠遁生活者の住むところでしょうね。檜原神社 三輪神社から40~50分歩いて檜原神社に着く、大神神社の最も北に位置する摂社で社格の高い社です。「元伊勢伝承の地」で天照大御神が伊勢に鎮座する前にあちこちに移り住んだ所を「元伊勢」というらしいが、今も昔も、人も神も自分の住処を決めるのは、苦労があったようです。檜原神社には大神神社独特の神明形鳥居を、三つ組み合わせた三輪鳥居がある、三輪神社独特の形式だがこれって省資材鳥居かな? 畑の中の古墳 弁天社古墳より南へ今日最終の茅原狐塚古墳をみる。畑の中にある石室の上部の土を削り取られた古墳は、畑の畦道がルートです。この古墳の特徴は一つの石室に四つの石棺が入っていること(二つは合葬墓である)で珍しい。研究者からは四棺合葬は今後の研究対象になるが、私からは一石室に四つの石棺は家族愛の証し?それとも墓地の用地難(築造費節約)のため?前半の三輪山登拝は雨も激しくなく、無事登れたことに感謝。卜部先生ありがとうございました。 | |
JR三輪駅 | |
![]() | JR三輪駅 10時 昨日は雨でした、今日は小雨、友史会員が 愛媛・東京・北海道から続々と到着します。 |
大神神社 | |
![]() | 大神神社は、日本最古の神社で神殿は無く、拝殿のみで、現在の拝殿は、江戸時代(寛文4年1664年)の再建です。この奥に独特な三ツ鳥居があります。 「拝殿(重要文化財)は、桁行9間、梁間4間の切妻作りの主屋に母屋造り軒唐破風付きの向拝が取り付く構造。創建は鎌倉末期文保元年1317年、室町から桃山にかけて現拝殿に近い姿に修復。三ツ鳥居(重要文化財)は、明神形式の鳥居の両側に小形の鳥居が取り付く。中央の 鳥居に内向きの扉を設け、石製の唐居敷を据える。創建時期は不明だが、唐居敷の使われていない扉軸受穴がかなり磨耗しており、 鎌倉から平安時代に遡る可能性も指摘されている。三ツ鳥居の内側は禁足地。文献では、東300mの磐座巨石との間に御主屋敷と称する 20m四方の石積み土壇と字「茶臼山」と呼ばれる地があり、「茶臼山」からは、寛文11年に須恵器と子持勾玉、模造刀子、臼玉が出土。」 |
三輪山登拝 | |
狭井神社より三輪山へ | 狭井神社拝殿で無事全員がケガ無く降りてくるよう祈ります 三輪山は山そのものが神であるため飲食、タバコ、カメラは禁止なので荷物をおいて登ります。 登拝を終わった人達は狭井神社左手奥の、御神水で一息です。 「登山道の途中に磐座が点在し、山頂の高宮社裏にも磐座がある。「大三輪鎮座次第」によると、山頂の一群が奥津磐座、 中腹の一群が中津磐座、麓の一群が辺津磐座。 辺津磐座に含まれる山ノ神遺跡の磐座では、祭祀遺物が出土。祭祀遺跡は23箇所も見つかっているが、 巻向川と初瀬川に挟まれた三輪地域に限られ北側の纒向地域には分布せず。 反対に3,4世紀代の古墳は三輪地域には築造されず、 この段階で三輪地域は聖域として意識されていた。寺澤薫さんによると三輪山祭祀の始まりは4世紀中頃まで遡る可能性があり、 5世紀後半には滑石製、土製模造品や須恵器を用いた祭祀形態が確立、6世紀代には入ると現在の禁足地周辺に祭場が限定された。」 |
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ホケノ山より三輪山を望む | |
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大神神社休憩所 | |
大神神社休憩所での昼食風景(レンズが曇りました) | |
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山の辺の道 | |
![]() | 三輪山ふもと山の辺の道を北に、狭井川を渡ります。 友史会員山の辺の道、雨の中を歩きます。 神武天皇聖跡狭井河之上顕彰碑、これを建てる時に玉・高杯がでています。 |
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桧原神社 | |
桧原神社祭神は、天照大神、三ツ鳥居の格子戸が特徴で、室町時代から建っていた形跡がある。 国見が出来る絶好の場所に建っています。桧原神社窯跡、瓦器を焼いたようです、囲いを作って、保存。 (ガラス越しで上手く写ってないみたいです) | |
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ホケノ山古墳 | |
![]() | 全長約80mの前方後円墳、葺石があり、 「石囲い木槨」と葺石の一部が復元されています。 「1995年より4次にわたる調査が行われた。前方部は低平かつ短小の纒向形前方後円墳。墳丘周辺に幅10~17m の不定形周濠が巡り、墳丘には重厚な葺石が施されている。後円部は段築は2段確認、3段目も想定可能。 後円部の埋葬施設は、木槨の周辺に川原石を壁状に積み上げて2重構造にした「石囲い木槨」。木槨内部には舟形木棺が納められていた。 副葬品には画文帯神獣鏡、内行花文鏡、銅鏃、鉄鏃、刀剣、工具などがあり、囲いの上には土師器が置かれていた。」 |
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茅原大墓古墳 | |
後円部 | 前方部 |
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![]() | 全長66m、このあたりは、他にも古墳が10数基分布しているようですが内容はわかりません。 前方部は柿畑になっています。 「巻向川左岸三輪地区の古墳は総じて箸中古墳群より新しい。茅原大墓古墳は古墳群中で最大の帆立貝式前方後円墳。1995年の堤防修復工事に伴う、 周濠部発掘調査で円筒埴輪、朝顔形埴輪が出土し、築造時期は5世紀前半と推定。」 |
弁天社古墳 | |
神社の祠の真裏に石室があり、覆土もほとんどなく石が露出して、詳しいことは、わかりません、。 石室は南向きの両袖式で内部に刳抜式石棺の蓋が見えています。 | |
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狐塚古墳 | |
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![]() | 一辺50mの方墳、家形石棺が複数あり、木棺もあったようです。天井石が露出していて隙間から中を覗く事ができ、家形石棺の蓋が見えました。 「築造は出土した須恵器より6世紀末で7世紀まで追葬された。」 |
![]() | 狐塚古墳に続くあぜ道。 予定どうり終了、三輪駅解散お疲れ様でした。 |
(写真 文責 大西寿江) |