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畝傍山→イトクノモリ古墳→大窪寺→本薬師寺→日高山→日向寺→興善寺→香具山→耳成山

例会だより
一週間前から、天気予報が気になる梅雨の季節、この日も家を出るときは小雨、しかし、集合場所の博物館を出発する頃には雨もあがり、今回デビューの石井先生と176名の会員は元気に出発しました。博物館横、多くの縄文遺物が出土している橿原遺跡は今では、体育館・運動場等になり、とても賑やかです、しかし、畝傍山の中腹まで来ると静寂に包まれる不思議な空間があり、山頂まで登るとさすがに、達成感があります。香具山へと続く道の途中にも多くの遺跡があり、本薬師寺・日高瓦窯等を見学し、紀寺跡で昼食後、万葉の香り漂う香具山へ、山頂の国常立神社横で説明を聞きながら、それぞれ"国見"をしました。耳成山の山頂は、かつて山城があっただけに、これまでの二山とはまた違った雰囲気がありました。スタートから耳成山まで、私が見つけた万葉歌碑は8つ、コースを変えればもう少し見つけられそうですね、蒸し暑い日ではありましたが、大和三山を、一日で廻る事が出来、良い汗をかくことが出来ました。バテる方もなく無事例会終了で気分はさわやか、途中途中で、熱心な会員の質問にも丁寧に答えて下さった石井先生ありがとうございました。     (大西寿江)
 
博物館前
橿原考古学研究所附属博物館前 10時
今日は石井さんの初めての例会ご案内
参加者は朝からの雨にもかかわらず176名
 
雨が上がり橿原神宮から畝傍山へむかう
 
畝傍山
畝傍山山頂
 
  畝火山口神社社殿跡
 畝火山口神社は9世紀初頭の記録に見られ、もともと西麓にあった。16世紀に貝吹山に城が築かれ真北に神社を望むのを忌んで山頂に移転。1940年橿原神宮造営にあたり見下ろすことがないように再び西麓に移転。山頂には社殿跡が残る。
住吉神社の祭礼に使われる土器を作るための土を取る「埴土神事」が毎年行われている。
 
急な斜面に足をとられながら畝傍山を下る
 
イトクノモリ古墳
登山口近くにある、全長30mの前期の前方後円墳。
土とりで前方部が削られ、後円部のみが残り池田神社が鎮座.
 
大窪寺跡
国源寺は博物館の北側にある。日本書紀朱鳥元年の項に登場する四天王寺式伽藍とみられる大窪寺跡.。
南側に礎石が残る。写真左の大日堂の前から礎石の抜き取り穴が出土。
 
元薬師寺
水田の中に東西塔跡金堂跡が浮かぶ。
夏の水田はホテイアオイの青い花で埋まる。
 
金堂跡で石井さんの説明を聞く。天武9年皇后の病気平癒を祈願して発願。平城京遷都とともに移転。
門の発掘により平城京薬師寺と柱の間隔が異なり移設は行われなかったことがわかった。
 
日高山
畝傍山を背に日高山へむかう
 
手前斜面が平窯跡。藤原宮と同じ複葉八葉蓮花文の軒瓦が出土。藤原宮瓦供給地のひとつ。
5世紀から7世紀の古墳時代後期から終末期の古墳と横穴墓を発掘。藤原京朱雀大路工事に伴い古墳を削平し横穴を埋めた。
 
紀寺跡
昼食をとる
 
日向寺
香具山の南に小堂が残る日向寺跡。「大和志」では推古朝建立と伝え、「太子伝暦」では聖徳太子建立と伝える.。
小堂東側の塔跡土壇にかつて心礎を伴う、礎石5個が残っていたが、明治初頭に石垣に転用されたという。
 
興善寺
詳細不明の白鳳寺院。
本堂右側に7世紀末から8世紀初頭の掘立柱建物を検出。
裏山は戒外山城。13世紀後半から15世紀中頃の山城跡。
 
天香具山
万葉の森から登山道 山頂の国常立神社
国土形成の神国常立神と竜神を祀る。
手前の甕で雨乞い
 
麓の天香具山神社
 
畝尾都多本神社
耳成山を背に水田に会員の影が映る
 
畝尾都多本神社
藤原京以前の瓦が出土することから寺院の存在が考えられ、木之元廃寺とされているが未確認。南側からは「香山」と書かれた墨書土器が出土。天平時代の「香具山正倉」と考えられる。
哭沢女を祭った本殿裏にご神体の井戸
 
醍醐
藤原京跡を抜けて、醍醐環濠集落跡から耳成山へ
 
耳成山
中腹には耳成山口神社があり、和算の額が奉納されている 山頂で解散 16時
会員の万歩計は21,000歩に迫る。
 
 写真・文責 下尾茂敏