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近鉄大阪線二上駅10時→大坂山口神社(穴虫)→威奈大村墓推定地→大坂関推定地→屯鶴峯(昼食)→穴虫峠→牡丹洞→太平塚古墳→御嶺山古墳→近鉄南大阪線上ノ太子


12月例会だより
 今年最後の例会は博物館大西貴夫先生の案内で、奈良県香芝市から二上山北麓の穴虫峠を越え、大阪府太子町に至る古代の大坂道をたどるコースです。快晴ながら今冬一番の寒波をついて近鉄二上駅に80数名が集合しました。
電車の延着で遅刻される会員がおられたが、途中続々と合流されて最終的には100名の参加となりました。
まず出発点の大坂山口神社(穴虫)に向かう。「大坂道」は飛鳥時代に拓かれた竹内越より古く、日本書紀の崇神9年3月条に、天皇が(大和の西の守護神として)「大坂神」を祭ったとの記事があります。「大坂神」は「大坂山口神社」(延喜式内社)とされていますが、同名の神社が大字穴虫と逢坂にあり、どちらが「大坂神」にあたるかは決定されておらず、立地点から見れば、山の口にある穴虫の山口神社が相応しいとの解説を受けて各自参拝しました。神社の南西に御坊山という山があり、江戸時代明和年間に金銅威奈大村骨蔵器(国宝)が発見されたところです。民有地に阻まれ近づけず、付近にある高山火葬墓、穴虫火葬墓など2つの火葬墓についても詳しい説明を受けました。
大坂道は竹田川の谷筋沿いが古道に推定されており、千田稔説の「大坂関」推定地付近で、「大坂関」の位置がまだ特定されておらず、より東方に小泉俊夫説の候補地があり、また穴虫の北にも「関屋」の地名があります。大西先生は例会報に、竹田川の谷西端の穴虫越と田尻越との分岐点付近が地形から相応しいのではと記されています。「大坂関址は何処か」興味は尽きません。
国道165号線の田尻峠交差点を渡り、古墳時代・奈良時代から中世にかけての凝灰岩の石切場であった「屯鶴峯」に登り昼食を摂りました。起伏に富んだ白い岩肌が眩しい。屯鶴峯から大阪府側に越えて直ぐの、古墳時代から大正時代まで石切場だった「牡丹洞」は、近鉄電車線路脇にあって危険なため、国道側から遠望することになりました。また牡丹洞の北奥には、中山大塚古墳や天神山古墳に使われた石材を産出した春日山が望めました。「太平塚古墳」は大坂道が大阪側に最初に開ける地点にあり、なんと石室は近鉄電車の線路直下にありました。それでも南に開口する両袖式の石室は堂々たるものです。奥壁は大きな1枚岩で、孝徳天皇陵とする意見もあるそうです。全員交代で見学しましたが、「線路直下の古墳」とはなかなか印象深いものでした。
近鉄上ノ太子駅で一旦解散しましたが、時間に余裕あれば行きたいとしていた御嶺山古墳に殆どの会員が向かいました。最近まで葡萄畑だったため、縦横に張り巡らせたワイヤーと笹やイバラに注意しながら、1人ずつ盗掘口から腹這う苦心の見学でした。それでも皆さん満足されて寒風の中を上ノ太子駅に15時過ぎ帰着し解散。寒波の例会でしたが、全員元気に踏破されお疲れ様でした。
大西先生はこの例会のために2度も下見に出向かれて、例会報には詳細な解説文を執筆して下さいました。「大坂道」についての貴重な参考資料といたします。どうも有難うございました。                 (伊田嘉文) 

  近鉄大阪線二上駅

近鉄大阪線二上駅10時
雪の予報もはずれ、寒いが空は快晴。ここでの参加者は、93名。
新幹線が雪の影響で遅れ、名古屋ほかからの会員6名が大坂関推定地付近で合流して総勢99名。案内は博物館の大西貴夫さん。

 大坂山口神社(穴虫)

大坂山口神社(穴虫)
大和の西の出入り口。大坂山口神社は延喜式内社であるが、東北700mにも逢坂大坂山口神社がありどちらが式内社か不明。祭神はどちらも大山祇神。

 威奈大村墓推定地

  大坂山口神社南西の御坊山から江戸明和年間に金銅製威奈大村骨蔵器が出土。
 威奈大村
少納言正五位下、慶雲4年(707年)に46歳で越後にて死亡し、ここに帰葬された。兵庫県「猪名」が本貫か?

左手奥の丘が御坊山。

 大坂関推定地

日本書紀壬申の乱の記事に、大海人皇子側の将軍大伴吹負が佐味君少麻呂に大坂を守らせたとある。郡が池南方の千田稔説大坂関推定地で大西さんから説明を聞く。後方丘陵付近が穴虫火葬墓。

  石造浮彫り地蔵菩薩立像

穴虫峠東側、北側斜面にある。下から見上げながら通過。

  屯鶴峯

少し早いが、昼食をとる。快晴で白い岩肌がまぶしい。

 
牡丹洞
 古墳時代から大正時代まで掘られた凝灰岩の石切り場。市尾墓山や藤ノ木古墳の石棺、飛鳥寺、法隆寺の礎石などはこのあたりで産出。

穴虫峠国道から細い路を近鉄線路へ向かうが
危険のため国道側から遠望。
線路を渡って右上の崖が牡丹洞

 太平塚古墳

国道から近鉄線路に沿って細い路へ。太平塚は近鉄線路の下、南向きに両袖式石室が開口。斉明天皇陵とみられる岩屋山古墳に後続する7世紀後半の30mの円墳。孝徳天皇陵との考えもある。順番に石室内を見学。
奥壁は大きな一枚岩 右2段、左3段の側壁岩

 
御嶺山古墳
  小雪が北風に乗って舞い降りはじめ、近鉄上ノ太子駅14時でいったん解散。
 大部分の会員は飛鳥集落の南方丘陵にある御嶺山古墳向かう。
 東側斜面からブドウ畑のビニールハウスの脇をワイヤーを避けつつ尾根を越え南斜面に降りる。
 御嶺山古墳は墳丘径30mほどの
横口式石槨を持つ7世紀後半の円墳。細い路を1列に並び順番に盗掘口から石室内を覗く。

床面には側壁から少し間隔をあけ凝灰岩製の棺台があり、側面には格子狭間が設けられ仏教的影響も見られる。石槨内から漆塗木棺片やこれに使われた金具が出土。
 
 近鉄南大阪線上ノ太子

15時過ぎまでに、全員近鉄上ノ太子駅に戻り三々五々解散。

(写真、文責)伊田嘉文、下尾茂敏