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桜塚古墳群東群(南大平塚、御獅子塚、大塚)→原田神社銅鐸出土地→桜塚古墳西群(大石塚、小石塚)→看景寺(金寺山廃寺出土の塔礎石)→豊中稲荷神社(新免宮山古墳群)→金寺山廃寺→金禅寺→阪急豊中駅


7月例会だより
木下先生が博物館に異動されて初めての例会ご案内。
阪急宝塚線曽根駅前広場に集合して、木下先生より今日の行程と、豊中台地の遺跡概要などの説明を受ける。隣接市、箕面在住の先生にすれば豊中台地は庭先。地元の先生ならではのお話を、要所でお聞かせいただけるものと期待がはずむ。
桜塚古墳群は、現存は五基のみとのこと、しかし、この地域を実際に歩けることで、往時を想像できるのではと期待に胸が膨らむ。
暑さ対策、交通などの注意の後、出発。
桜塚古墳群東群の南天平塚古墳に到着。周辺の区画整理で大半を削り取られてしまったという、住宅地内の古墳。五世紀後半の帆立貝式と聞いていたが、方形区画が付設された円墳とのこと。周濠跡も確認できたとのこと。数多くの副葬品はこの地域を考えるうえで重要とのご説明。
つづいて、御獅子塚古墳。周濠も含めると約70mという前方後円墳が埴輪や葺石とともに復元整備され、堂々たるもの。直ぐ北の大塚古墳のある公園広場で説明を聞く。豊富な副葬品、葺石、周濠内から検出された初期段階の須恵器高坏、大阪南部窯址群(陶邑古窯跡群)に準ずる基数の、この地域の須恵器の窯跡(大阪北部窯跡群)の話など。漢直の一族、桜井宿禰に率いられた新漢陶部が、須恵器製作のためにこの地域に移り住んだという、聞きかじりの話を思い浮かべてしまう。
大塚古墳。大円墳の墳頂で説明を聞く。発掘調査のきっかけとなった鉄刀発見のいきさつ、三基の埋葬施設、珍しい石製把付短剣を含み、各種副葬品のことなど、実際に発掘調査に携わった先生の話に耳を傾ける。
昼食の後、原田神社へ向かう。神社は岡町駅の商店街の中。予想以上に立派な神社。慶長五年の建立を確認というが、「創建は詳らかでないが・・・」と、最初に書かれた由緒説明板。正直で清々しい。有名な東奈良遺跡の鋳型で鋳造された銅鐸が境内で見つかり、銅鐸の生産地と消費地がつながった唯一の例、とのご説明。桜塚遺跡とはこの境内だったのか・・・。
西群の大石塚・小石塚古墳へ。東群と違って、自然のまま保存されている両前方後円墳の間でのご説明。板石を用いた葺石から竪穴式石室を推測され、埴輪類からも前期古墳とのこと。すぐ横の伝統芸能会館内に展示された埴輪も見学。前期の特徴を色濃くただよわす実物に大満足。埴輪に施された線刻に、各人、絵(?)の意味を論ずることしきり。時代は大きく隔たり、無関係だが、大阪北部窯跡群の須恵器に、箆書きの記号(または、漢字)が格段に多いことを、竜谷大の岡崎晋明先生が指摘されていたことを思い出す。
豊中駅近くの看景寺に移って、移設された金寺山廃寺の大きな礎石を見学。礎石は塔心礎のみ?。経由地の豊中稲荷神社の新免宮山古墳群も説明を受ける。ここから瀟洒な住宅地の中の金寺山廃寺跡へ、木下先生はここで発掘調査され、大量の須恵質の瓦と格闘(?)されたとのこと。須恵器の伝統が瓦製作へとつながる説明を受ける。
最後に金禅寺で貞和五年銘のある、国重文で三重が珍しい、見事な石造三重宝篋印塔を見学。無事全日程終了。解散。参加者は130名。
木下先生、懇切なご説明ありがとうございました。お疲れ様でした。今後ともよろしくお願いいたします。(中村鴻三)

   阪急宝塚線曽根駅
  今日は木下さんの始めての例会ご案内。学生時代からのホームグランド、豊中市の遺跡を案内していただいた。
  週間予報は雨にもかかわらず朝から雨の気配はない。参加者は、130名。


   桜塚古墳群東群

   豊中市の台地部には猪名川氾濫原を稲作生産基盤とした勢力が築いた4世紀から5世紀末までの三六塚と呼ばれる
   数多くの古墳群が点在。大半が宅地化の波に消えていったが、残存する古墳を東側から見てゆくことにする。

南大平(みなみてんぺい)塚古墳

十字路に削られて無残な姿を残す墳頂部に登り説明を聞く。
東側(写真左上)に築造時の土盛が残る。
東側に円筒埴輪列で囲んだ作り出しを持った2段築製の直径20mあまりの円墳。7mの周濠が囲む。築造は5世紀末。古墳群の中では一番新しい。昭和10年代に行われた発掘で、2基の粘土槨木棺を検出。

出土品
鏡、鉄刀、鉄剣、鉄鏃、短甲、冑

当時木棺は調査されずそのまま埋め戻された。再発掘したが土に返り、見つからず。
御獅子(おしし)塚古墳

南桜塚小学校の校庭脇に保存された全長55m(周濠を含めると70m)、後円部直径35m、前方部幅40m、周濠幅7m、2段築成の前方後円墳。2段目だけに葺き石が施され、1段目平坦部に埴輪列が立ち並べられていた。埴輪列と西側斜面に葺き石が再現されているが、柵に囲われて中に入れず。築造は5世紀末。
後円部には東西と南北に2つの木棺が確認された。

出土品
第1主体部棺内
 甲冑、鏡、刀剣、玉、農具、鉄鏃
第1主体部棺外
 盾、馬具
第2主体部
 甲冑、鏡、槍、鉾
周濠出土
 初期段階の須恵器高杯
 堺の陶(すえ)村産ではなく地元で作られたと考えられる。

写真右 大塚古墳から南、御獅子塚を望む。
左遠方の森は南天平塚。南北の位置関係がわかる。
大塚古墳
木下さんの学生時代は雨が降れば玉が見つかり、収集に通った。そのうち埋葬施設の底部を示す朱が地面に認められることがわかりあわてて調査したとのこと。
1983年の調査で、第2主体部の西側は盗掘されていたものの、東側は未盗掘で主体部の構造や規模が判明。
墳丘は3段築成直径56m、円筒埴輪が並び周濠12m、2段築成で整備されている。築造は、5世紀初め。
埋葬施設は粘土槨3基。墳丘上に白、黒、赤の小石で場所が示されている。

出土品
第1主体部
 鉄剣、玉、鉄鏃
第2主体部東槨
 鏡、盾、短甲、刀剣、槍
第2主体部西槨
 弓、盾、鉄鏃、農工具

写真左 復元された三角板革綴襟付き短甲

   原田神社

    神社境内の松の根から天明元年(1781年)に出土した外縁付き鈕式流水紋銅鐸は茨木市東奈良遺跡で出土した
   東奈良2号鋳型で製作したことが判明。香川県善通寺市我拝子山からの出土品と兄弟銅鐸。
    当時の社地と現在の社地が同じかどうかわからず、出土地は不明。

西に進路をとり、岡町商店街を抜けると原田神社鳥居に出る。
本殿は、慶安5年(1652年)建立の五間社流造り。
国の重要文化財
摂社の十二社神社本殿は、三間社流造り檜皮葺き。
建築様式から、17世紀の建立と推定される。
拝殿前の寛政年間の灯篭には、「桜墳村」とあり、当時から古墳の多い土地という認識があり、「桜墳」で「さくらづか」と読ませたことがわかる。
商店街のなかには桜塚の由来を示す石碑がある。

  桜塚古墳群西群

  岡町駅西側の閑静な住宅街の中にある大石塚(南側)、小石塚(北側)は東群に先行し4世紀中ごろに造られた。

  大石塚は全長70~80m、後円部径48m、3段築成の前方後円墳。
  墳丘には葺き石が施され、3本一対の埴輪がめぐる。
  埋葬施設情報はないが後円部葺き石に板石が見られることから竪穴式石室が考えられる。
大石塚前方部 大石塚後円部
豊中市石塚会館には大石塚出土の朝顔形、円筒型埴輪が展示されている。表面には埴輪工人が描いたと思われる文様が見られるが意味は不明とのこと。
小石塚
北側に位置する小石塚は、全長49m、後円部径29m、前方部幅21mの前方後円墳。後円部中央で長さ7.4mの墓壙1基を検出。墳丘には埴輪類と壷形土器が出土。

   看景寺
   阪急岡町駅から豊中駅まで線路沿いに歩き、豊中駅前の看景寺に向かう。
  門の脇には、文化10年(1813年)頃に移設された金寺山廃寺の塔礎石がある。

看景寺 金寺山廃寺の塔礎石
花崗岩の自然石を用い、直系61.5cmの柱穴を開け、その中央部に直径10cmの舎利奉安孔を穿つ。

   豊中稲荷 (新免宮山古墳群)

新免宮山古墳群
豊中稲荷東側には、昭和初期までは2基の円墳が存在。神社本殿背面の自然地形残存部(写真下)には古墳が残っているかもしれない。
豊中稲荷で30人くらいの小グループに分かれ交代で金寺山廃寺金禅寺を尋ねる。

  金寺山廃寺

   富士紡績豊中寮の敷地だった頃には礎石も残っていたと考えられ、この地域一帯に伽藍跡が広がっていた。
   いまは、瀟洒な住宅地の路地に説明版が立つ。
   78、79年の発掘調査で厚い焼土に覆われた基壇状の高まりや掘立て柱跡を検出。

   出土瓦 須恵器質の単弁十弁蓮華文軒丸瓦と三重弧文軒平瓦の組み合わせ。
         後には、単弁十六弁蓮華文軒丸瓦と複弁八弁蓮華文瓦が加わる。
           須恵器質の硬く焼け締まり、厚く自然釉を被るものもある。
           桜井谷の埴輪工房が7世紀に衰退、工人が瓦職人に転職したことが想定される。


金禅寺
 金寺山廃寺の法燈を継承した金禅寺には重要文化財の貞和5年(1349年)銘のある三重法篋印塔が据えられる。

写真、文責(下尾 茂敏)