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南白石→川向遺跡→小治田安万侶墓→来迎寺→都祁水分神社→ゼニヤクボ遺跡→高塚遺跡→葛神社(氷室)→三陵墓西古墳→三陵墓東古墳→南白石


  
例会だより

 松田新館長の初めての例会。ご出身地に近い都介野盆地「都祁の遺跡」をご案内いただいた。
 古い家並みの残る興善寺前の南白石バス停に集合して、松田先生の今日の行程の説明を聞いた後、盆地を反時計回りにまわる。
 都祁は標高200から500メートルの大和高原、水田を渡る風は汗ばむ肌に心地よい。川向遺跡は、古墳時代中期の都祁の中心集落。住居跡は見つからないものの農具などが出土。友田古墳群、川向古墳群のある丘陵を抜けて、三陵墓西古墳や都介野岳を眺めながら盆地中央部へ。
 小治田安万侶の墓は岡の東斜面。斜面に腰掛け墓誌の歴史の話を聞く。突然降り出した雨を避けながら来迎寺花崗岩製の重要文化財「宝塔」を見学。ちなみに都介野岳竜王社は雨乞いの神。都祁水分神社で軒先を借り昼食。雨上がり、おもいおもいに付近を散策。本殿は一間社春日造檜皮葺、一対の石造狛犬は、鎌倉末期の作。裏には、「続日本紀」聖武天皇伊勢行幸記事に見える堀越頓宮跡がある。ゼニヤクボ遺跡は方形周溝墓と竪穴式住宅が検出された弥生前期から古墳時代前期の遺跡。瀟洒な並松小学校の校舎を眺めながら想像を膨らませる。縄文遺跡の高塚遺跡は、工場に囲まれた交差点。遺物は見つかるが、開墾のためか遺跡は見つからずとのこと。南、氷室が残る「葛神社」に向かい、友史会会員川村和正さんから氷室の説明を聞く。「かしこうけん友史6号」(地図記事)にも詳しい。最後に三陵西古墳墳丘に登り、盆地を見渡しながら、古墳の話や東海系須恵器の流入に見られる都祁の東西の交通の経路としての役割について説明をきき、三陵東古墳を経て南白石に戻る。
 都祁は交通の便が悪く、参加者を120~150人と読んで奈良交通バスの臨時便を3台準備。参加人数は天候に左右されるため、運営委員は梅雨時のころころ変わる天気予報に一喜一憂。開けてみると上天気、参加者は予想を上回る170名。積み残しはなかったものの、立ちっぱなしの皆様には申し訳ありませんでした。松田館長お疲れ様でした。今後ともよろしくお願いいたします。また、バスの手配で中辻次長にもお世話になりました。感謝申し上げます。(下尾茂敏)

  榛原駅北口

集合10時。
奈良交通バス3台で都祁南白石へ向かう。
参加者170名。

  興善寺前の南白石バス停


会長挨拶の後、松田館長から説明を聞く。
左回りに盆地を巡る。

  川向遺跡 (手前右、白い橋付近)

古墳時代中期の遺跡。1959年に鋤、鍬などの農具、はしごなどの木製品が出土。住居跡は見つからず。
三陵墓西古墳(正面の岡)、都介野岳(左三角形の山)が望める。
  
  友田東山古墳
 友田東山遺跡

友田東山古墳(中央森)
一辺19メートルの方墳。今は破壊されたが、かつて横穴式石室があり、琥珀棗玉、水晶切子玉、瑪瑙勾玉、硬玉勾玉、鉄刀、鉄鏃、馬具轡、須恵器、土師器が出土。

友田東山遺跡(手前台地)
縄文晩期終末の長原式土器と弥生前期の土器が出土した移行期の遺跡

  川向古墳群 (左岡の上)

16基の円墳と1基の前方後円墳からなる。

  
小治田安万侶の墓


墓の前、岡の東斜面に腰掛け墓誌の歴史の話を聞く。

・・・穴を掘ってそこで火葬。炭や灰を外に出し底に玉石を敷き、遺骨を納めた木柩と墓誌を納め、粘土と炭と灰で穴を埋めて低い盛り土で覆った。墓誌は副板2枚を伴う例のないもの。副板は「左琴」「右書」とあり、琴と書は教養を意味する・・・
・・・安万侶従4位下、近鉄尼ヶ辻駅近くに住み、、神亀6年(天平元年)2月9日「長屋王の変」の前日に死亡。同3月4日に正6位下に叙せられた小治田諸人は息子と見られる・・・。
・・・令制では三位以上の高官は墓碑を建てることが許されており、それができない中級官人らが墓誌をつくった。これまで見つかった墓誌は18例、120年の間に作られた。住まい、身分、死亡年月日を記する。・・・

   来迎寺



突然降り出した雨を避けながら来迎寺花崗岩製の重要文化財「宝塔」を見学。塔身には木造建築を思わせる細かな表現。

  都祁水分神社


風雨祈願の神
都祁山口神社が格上だったが、後に逆転。

軒先を借り昼食。雨上がり、おもいおもいに付近を散策。
本殿一間社春日造檜皮葺
一対の石造狛犬は、鎌倉末期の作。
本殿裏には、「続日本紀」聖武天皇伊勢行幸記事に見える堀越頓宮跡とされる場所がある。

  ゼニヤクボ遺跡



並松(なんまつ)小学校造成工事で方形周溝墓と竪穴式住宅が検出された弥生前期から古墳時代前期の遺跡。

  高塚遺跡

縄文遺跡の高塚遺跡
周辺から遺物は見つかるが、開墾のためか遺跡は見つからず
 
 
 葛神社

葛神社
友史会会員
川村和正さんから氷室の説明を聞く
氷室跡
斜面に大きなくぼみが見える。
九頭神社の銘が残る灯篭
水の神として出雲建雄神が祭られている。
九頭神ともいわれた。

   三陵西古墳


直径40m高さ5mの円墳
1951年に主体部確認。1994~95年に調査。
粘土槨割竹形木棺と組合式木棺の2つの主体部。

第一主体部は中期前半埋葬。長さ8.4mの赤色顔料塗布の長大木棺。琴柱式石製品、碧玉管玉、滑石臼玉、竪櫛、鉄剣などが出土。

第2主体部は、中期中葉の埋葬。長さ4.2mの木棺。
靭、鉄鏃、滑石臼玉、竪櫛などが出土。

盆地を見渡しながら、古墳の話や東海系須恵器の流入に見られる都祁の東西の交通の経路としての役割について説明を聞く。
・・・允恭天皇皇后押坂大中姫が子供の頃、苑で遊んでいた時、闘鶏(つげ)国造が通りがかり、虫を追うためにノビルをくれと言った。皇后になった後、この時の言葉の無礼をせめて、国造を稲置に降格した。この逸話は、当時都祁から初瀬押坂を経由して大和で通じる道が存在したことを物語る・・・。

  三陵東古墳


全長110mの都介野地域最大の中期後半の前方後円墳。墳丘には葺き石、各段築には,円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪が確認されている。明治末には粘土槨後円部が盗掘され銅鏡、硬玉勾玉,滑石勾玉、滑石臼玉、碧玉管玉、鉄刀、鉄鉾、鉄鏃などが出土。

(写真・文責 下尾 茂敏)