総持寺→西国街道→太田茶臼山古墳→太田神社(昼食)→太田茶臼山古墳陪塚→土室遺跡→番山古墳→新池埴輪製作遺跡→闘鶏野神社→今城塚古墳→芥川廃寺→嶋上郡衙→JR高槻駅
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案内図(友史会報) たかつき文化財地図(高槻市教育委員会資料より抜粋) | ||
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12月例会だより 師走もなかば過ぎというのに暖かく絶好のハイキング日和。狭い駅前を避けて集合場所を総持寺に変更。 205名の会員が集まった。 高槻市と茨木市の境界付近を北上し行基ゆかりの薬王寺を通り西国術道に向かって歩く。途中JR線の開かずの踏切で大勢の参加者は立ち往生。やっと開いた踏切を大急ぎで渡る。太田茶臼山古墳も今城塚古墳も嶋上郡街も東西に走る西国術道につながっていることから古い時期には前身の道があったことがうかかえる。太田茶臼山古墳の南面には古墳を支えていたムラのリーダーたちの埋没古墳か41基見つかっている。丘陵上に作られた古墳は当時さぞかし目立つ古墳であったことだろう。太田神社裏側の道のない竹薮をかき分けながら行くと、前方部からは見えなかった太田茶臼山古墳のくびれ部から後円部側の様子が良く見える。2基の陪塚があるさくら企園で昼食。名神高速道路建設で破壊された貴重な古墳かある中で墳丘部分だけ宮内庁の陪家指定を受け高速道路に横切られて残る二子山古墳が悲しげに見える。 土室遺跡を経て新池埴輪製作遺跡へ到着。本日初めてのトイレ休憩とあって着くなり長蛇の列。太田茶臼山古墳などに供給されたA群窯から今城塚古墳などに供給されたC群窯までの18基の埴輪窯跡と工房跡などか見つかっていて史跡公園の中に復元されている。 闘鶏野神社の裏側の丘陵上に調査中のブルーシートだけが見える闘鶏山古墳を仰ぎ見て今城塚古墳へ向かう。今城塚古墳も調査中で物々しくフェンスで囲まれていて中は見えない。調査発表が待ち望まれる。 6世紀前半の古墳としては大規模な今城塚古墳は陪塚を伴わない。今城塚古墳の登場によってその後に続く大王墓とされる古墳のメカニズムが変わってくる。 本日、先生がお話されたことが「季刊考古学別冊」の『天皇陵古墳の実像』に詳しく書いていますのでお読みください」とのことです。各々の遺跡では文献史料に基づく解説と持論を判りやすく説明していただきました。今尾先生本当にありがとうございました。皆様お疲れさまでした。 扇 純子 参加者 205名 (都道府県別内訳)奈良72、大阪61、京都19、愛知11、兵庫9、三重6、東京4、神奈川3、和歌山3、滋賀2、岐阜2、香川2 | ||
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![]() | 総持寺 手狭の阪急総持寺駅を避け、直接総持寺に集合。 参加者は200人を上回った。 今日は、今尾さんの案内で、島上、島下の郡界と三島に築かれた巨大前方後円墳、陪塚、埴輪製作所跡、郡衙跡等を探訪して、継体天皇出現の意義などを考える。 総持寺は、西国22番札所、早速お札をいただく会員も。 創建は、879年、摂津国班田検校使となった藤原山陰。 1926年に発見された「摂津の国総持寺領散在田畠目録」により、現在の地名を元に当時の比定が可能と判明。延喜式に三島藍野陵は「在摂津国島上郡」とあり、発見者の天坊氏は、継体陵は島下郡にある太田茶臼山ではなく、島上郡の今城塚こそふさわしいとした。 | |
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![]() | 太田茶臼山古墳 造りだし部を望む。 墳長226m、南向きの3段築成の中期後葉(450年頃)の前方後円墳。8基の陪塚が周濠に配置。今城塚の2世代前の古墳。 | |
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![]() | 太田神社と太田茶臼山古墳宮内庁「は」号陪塚 「播磨の国風土記」の揖保郡太田の地名伝承に「摂津三嶋賀美郡太田」が出ており、太田が島上郡にあった可能性もあるため、今城塚=継体陵が100%肯定されたわけではないとのこと。 | |
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![]() | 太田茶臼山古墳陪塚A(宮内庁「に」号陪塚) 直径21mの円墳。周濠3.5m、円筒、朝顔形埴輪をもつ。 | |
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![]() | 太田茶臼山古墳陪塚B(宮内庁「ほ」号陪塚) 周濠と造り出しを持つ直径19mの円墳。 | |
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![]() | 太田茶臼山古墳陪塚C(宮内庁「と」号陪塚) 墳長30mの前方後円墳。人物埴輪が出土。 後円部のみが「くすのき公園」内に残る。 | |
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![]() | 太田茶臼山古墳陪塚D(宮内庁指定陪塚ではない) 墳頂に石仏が安置。 | |
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![]() | 太田茶臼山古墳陪塚 二子山古墳 墳長40m、盾形周濠が取り巻く前方後円墳。家形、盾形、蓋形埴輪が出土。阪神高速の下に位置し、道路が周濠を迂回。 東方50mに土保山古墳があり、粘土槨に包まれた弓が比類のない保存状態で出土。いまは、完全に破壊され、弓も焼失とのこと。 | |
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![]() | 番山古墳 南西部に短い前方部を持つ中期の墳長60mの帆立貝形前方後円墳。 一帯は、古墳造営にかかわった人々が居住したと見られる土室(はむろ)遺跡。「日本書紀」欽明23年11月条に新羅系の人々の居住地として「三嶋郡埴廬」が出るがここのことといわれる | |
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![]() | 新池埴輪製作遺跡 古墳時代中期中ごろのA群、中期後半のB群、後期のC群の3つの埴輪釜が作られている。A群は太田茶臼山、C群は今城塚に供給された。今城塚埴輪に特徴的な二本マストの船の線刻がここで出土。 展示館のビデオでは継体妃「手白香姫」陵といわれる西山塚の埴輪もここから供給とあるが、菅原西遺跡の間違いとの今尾さんの話。 | |
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![]() | 闘鶏野古墳 ファイバースコープによる調査で槨内に三角縁神獣鏡、方格規矩鏡、鍬形石などの存在が確認された、墳長86.4mの前方後円墳。現在調査中で入れず。 | |
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![]() | 今城塚古墳 墳長190m、2重盾形周濠を持つ後期前半(530年頃)の大型前方後円墳。北側内堤で家形、柵形、門形、機材、人物埴輪が元位置を保って出土。大王の儀式が表されているとの意見があるとの解説を現地で受ける。石棺は3種類出土。現在、墳丘部を調査中。 | |
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![]() | 芥川廃寺 島上郡衙発掘時に発見された奈良時代前半の寺院。 塔の心礎が素盞鳴尊神社の手水鉢に使われている。 | |
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![]() | 島上郡衙跡 1/3に縮小して再現 奈良時代の建物跡や井戸が検出。井戸底から「上郡」の墨書土器が出土し、一帯が郡衙跡であることが確実視されている。 (写真・説明文 伊田嘉文、下尾茂敏) | |
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