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近鉄御所駅集合(10時)→鴨都波神社→宮山古墳→條庚申塚古墳→條ウル神古墳→伝日本武尊白鳥陵→掖上鑵子塚古墳→市尾宮塚古墳→市尾墓山古墳→近鉄市尾駅

案内図(友史会報)
 10月例会だより
 予想外の台風襲来やら新潟大地震やらの不安をかき消してくれるような好天の一日、葛域を千賀先生のご案内で歩きました。
 近鉄御所駅から24号線を南に鴨都波神社に向かう。
西に済生会御所病院があり鴨都波一号墳はその増設中に検出され副葬品のレプリカは病院内で見学可能とのこと。
 弥生時代拠点集落で祭りを司ったとされる鴨都波遺跡は柳田川が葛城川と合流する河岸段丘上で現鴨都波神社一帯。その参道を東に抜け、南へ。稲田の中、宮大墓が現れる。20m級の前期古墳からこれも突然200mを越す巨大古墳の出現である。時期は違うが箸墓もしかり。「謎を考えてください」と先生。
 後円部東の八幡神社より墳項へ登る。南石室は王者の棺にふさわしい竜山石長持型石棺。飾り物でない縄掛け突起が見える。北石室は小さな突起のある天井石が見えるのみ。こちらも竜山石でかの地で加工され運ばれたそうだ。副葬品で鞘に収めた刀子を表した滑石製模造品は当時の最先端の物で中期古墳への入り口を示す遺物。
 昼食をとり、12時45分出発。
条池古墳群は巨勢山古墳群の北先端に位置し、現在庚申塚のみ石室の一部が残る。北、南・古墳はその南にある草むらの中の落ち込みとして確認できる。長辺に3個の縄掛け突起をもつ条ウル神塚古墳は当時の喧騒などなかったように葱畑の中の小山に戻っていた。大きな石棺、石室の存在から墳丘に続く前方部があるそうだが・・・。
 日本書紀伝承地の琴弾原へ向かう。ヤマトタケルの英雄譚にみられる大和朝廷の中央集権化の話を御陵の前で聞く。
 田園風景の中、交通量の多い道路が出来ていたり、開発が進んでいることを実感する。
鴻池病院前を過ぎ掖上鑵子塚占墳へ。160mの墳丘で宮山古墳に次ぐ大きさ、時期であるが立地の「見通しの悪さ」が表すようにはっきり葛城とは言えず巨勢関係?の微妙な古墳だそうだ。収穫の終わった周濠の中、先に造られた円墳が残されていた。
 集落、JRトンネルをぬけ天満神社正面より市尾宮塚古墳へ。石室見学の順番を待つ間、横穴石室の比較の解説。墓山古墳は横穴を早く取り入れたにもかかわらず石棺は一個のみで羨道の機能が果たされていなく、理解されず形だけに終わり、ほぽ同時期、同プランの東乗鞍古墳は到り抜き式石棺の前に底石があり、追葬が行われており意識の差が蔑われる。石材の大小で新旧ははっきり決められるものでない事など、ボーと石室へ入って喜んでいる自分の意識の無さも改めねばと思った。
 先月の例会で見学した墓山・古墳は今回墳丘のみで少し残念!畑の中はっきりした形を見せている。横穴らしきところにブルーシートがかけられその位置がわかる。横穴って一体墳丘のどの高さに開口しているのだろう?周濠を確認して4時解散。市尾駅を目指す。千賀先生ありがとうございました。
190名の会員の皆様いい勉強できて楽しかったですね。愛煙家の会員様禁煙ご協力ありがとうございました。講座でもよろしくお願いします。(桂田克美)
秋晴れの近鉄御所駅
古墳めぐりは人気が高い。
190名の会員が集まった。
鴨都波1号墳(4世紀中頃)は病院の下。
出土した3面の三角縁神獣鏡が病院内に展示されているが、大勢での訪問は遠慮。興味のある方は少人数で訪問のこと。
4世紀中頃の前期古墳鴨都波1号墳のあと、5世紀前半に室宮山古墳が突然出現。このギャップが葛城の謎。
鴨都波遺跡の上に立つ、鴨都波神社
(祭神は八重事代主、下照比売命)
金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流する台地にあった拠点集落。
室宮山古墳
津堂城山に似る小さな作り出しと張り出しを持つ全長238メートルの5世紀前半の前方後円墳。後円部に南北に2つの石室。北側(写真上)は古くから知られ、取っ手が付いていたことから石棺の一部と見られていたが、石室の上板だった。南側の石棺(写真下)は昭和25年の盗掘で調査。竜山石の長持式石棺。神獣鏡、武器、吉野川産の滑石、機織様滑石が出土。葛城の首長葛城襲津彦(そつひこ)の墓の有力な候補とされている。
前方部2箇所、張り出し部に1箇所の粘土郭の木棺追葬あり。
先年の台風で朝鮮の船の土器が出土。葛城氏が受け入れた忍海などの帰化人との関係も考えられる。
ネコ塚
宮山古墳北西にある方墳
宮山古墳の後に作られたが陪塚と考えてもよいとのこと
條庚申塚古墳
条池北古墳(6世紀中葉~後半)、条池南古墳(6世紀後半)に続く古墳。
条庚申塚と葛城山
條ウル神古墳 (6世紀後半)と葛城山
8箇所の縄掛突起がある珍しい石棺を持つ。円墳か前方後円墳の可能性も。6世紀後半には、葛城氏は衰微、後続の鴨、蘇我一族の墓の可能性。
日本武尊琴弾白鳥陵
三重県の能褒野に葬られた日本武尊の魂は
白鳥になり、ここ琴弾原にとどまった後、
河内の古市へ向かい、天高く飛び立った。
ここには、日本武尊の魂はない。
掖上鑵子塚(南から)
国見山と玉手丘陵に挟まれた位置にあり、
巨勢谷から吉野にいたる交通路を重視した、宮
山に後続する5世紀中頃の前方後円墳。
後円部に長持式石棺があった模様。
掖上鑵子塚南側の陪塚
市尾宮塚古墳(6世紀中頃)
石室は北向き、市尾墓山を意識。
長い玄室は追葬を意識して作られた。
朝鮮の先進の横穴石室の採用は被葬者の先進性を思わせる。
修復復元された石棺
市尾墓山古墳
先月訪問したこの古墳が本日の終着。
市尾宮塚古墳に先行する前方後円墳。横穴式石室の採用は宮塚同様、被葬者の先進性をうかがわせるが、本来の目的の追葬を意識せず。あくまで王1人の墓であるとのこと。

(写真 説明文 伊田嘉文、下尾茂敏)