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近鉄飛鳥駅10時集合→牽牛子塚古墳→マルコ山古墳→出口山古墳→束明神古墳→市尾墓山古墳(特別設定)→松山古墳→キトラ古墳→現文武陵→高松塚古墳→中尾山古墳→天武・持統合葬陵→近鉄飛鳥駅

コース説明図
 今回は河上邦彦館長の案内で、ご専門の「終末期古墳」特に飛鳥終末期古墳を歩き、天武天皇の陵園を検証する行程である。集合場所の近鉄飛鳥駅には285人の参加者が詰めかけ大盛会となった。また河上館長のご尽力と高取町教育委員会のご好意で、特別に市尾墓山古墳の発掘現場を見学することになり、当初予定の逆コースで廻ることになった。嬉しいことにイタリア・ナポリ市の大学生ナディア クレッシェントさんが飛入り参加、彼女は日本の終末期古墳を研究しているそうだ。
 まず岩屋山古墳の前を通って牽牛子塚古墳に向かった。河上館長からこの時期の古墳は殆どが風水思想によって東西南北方向に四神を見立てているので、古墳周辺もよく観察するようにとの説明があった。少し色づいた田んぼと彼岸花の咲く野道を辿ってつぎのマルコ山古墳に向かう。墳丘周辺は整然と整備されており墳丘上からの眺望を楽しんだ。河上館長からは終末期古墳を考えるには、土葬・改葬・火葬の「墓制の変化」がある点を考慮するようにとの解説があった。
 途中佐田2号墳の傍を通り、村落の細い道の先の急な階段を上ると束明神古墳に着く。この古墳は河上館長が調査を担当されており、古墳が地元の人たちによって大切に守られてきた経緯や、天武陵を築いた際の石材を一部使用した八角墳であることからも天武天皇の皇太子草壁皇子の墓である可能性が高いとの説明があった。
ついで岡宮天皇陵を右に見て一路南下、市尾墓山古墳へ向かった。この古墳は本日のテーマの後期古墳ではないが、調査整備中の石室内部を特別に見せて頂くことになり、1組10人づつ交代で見学。仕事の手を止めて便宜を図って下さり感謝感激である。この間昼食を摂って体力を回復、つぎにキトラ古墳に向かった。途中林の中に僅かに認められる松山古墳の墳丘を見る。
キトラ古墳の覆屋の前で、河上館長から壁画保存についての考え方やキトラ古墳や高松塚古墳の壁画がなぜ石槨内に描かれたか等について詳しい解説があり併せて質疑の時間を持った。
墳丘がほぼ五角形の現文武天皇陵、防カビ対策のため痛々しい姿の高松塚を経て中尾山古墳に登る。3段築製の八角墳であり火葬墓であることから文武天皇の御陵の可能性が高い。最後の天武・持統合葬陵前に着いたところで激しい夕立に遭遇し、河上館長の締め括りの解説をうけ雨の中解散。
 精力的な案内と愉しく貴重な解説を頂き河上館長有難うございました。今回は異例の大人数の参加となり、館長の解説が聞き取れなかった場面があり、参加の皆様に大変ご迷惑をかけてしまいました。蒸し暑い中かなりの長距離を踏破された会員の皆様お疲れさまでした。 (伊田嘉文)
近鉄飛鳥駅10時集合
館長と高取町教育委員会のご好意で市尾墓山古墳の発掘現場が見学できることになったため、当初の予定の逆コースで廻ることになった。
飛鳥駅に集合したのは、285名
河上館長のご案内とあり異例の大人数。
牽牛子塚古墳
東側谷筋からの道に迷い西側尾根筋から到着。凝灰岩を彫りぬいた2室を持つ墓室を見学の後、墳丘北側の草原を踏み、館長の後期古墳の風水の考え方を聞く。北に山(玄武)、南に池(朱雀)、東に河(青龍)、西に道か荒地(白虎)と見做す地形があるとのこと。
マルコ山古墳
墳丘に登り、「墓制の変化」について館長の説明を聞く。
出口山古墳(岡の左端)
土地の所有者の名をそのまま使った径10mの円墳。南側、束明神への道から登る小道があるはずだが笹に覆われ見つからず。今日は場所確認にとどめ冬にでも再訪問。
束明神古墳
東側、彼岸花が咲く田んぼで掘っ立て柱が出土。墓守の役所跡の可能性もあるとのこと。
急な階段を登り束明神に着く。
幕末、幕府が岡宮天皇(草壁皇子)の墓を探した。当時は鉄の棒で地底を突き、石室を探した。草壁皇子を祀ってきた村人が天皇陵指定による立ち退きを恐れて石室上板を隠し、鉄の棒による探査を免れた。その後の発掘でこの事実が検証された。村人は草壁皇子が石川の女郎(大名児)に贈った歌「大名児彼方野辺に刈る草のの間も吾忘れめや」にちなみ束明神(塚明神とすれば隠した事実が知れる)として祀ったとのこと。当時を偲ぶ「束明神」「嘉永四年」の銘が残る灯籠が塚に立つ。
市尾墓山古墳
これは、後期古墳ではない。
昼食を取りながら、全員が発掘中の石室を見学。数々の新しい知見があり、秋には現地説明会開催予定とのこと。降水確率50%予報にもかかわらず好天気。高温で束明神で気分を悪くされた方も出て救急車を呼ぶ事態も。市尾駅で一部の会員が帰路に着く。ご自分の体調には十分ご注意ください。
松山古墳
これも、斜面を削った、南向の風水に合った地形。
すでに開墾され墳丘が残っていないが、正面左が墳丘だったとのこと。狭い道に長く伸びた人の列で後方は館長の話が届かず。
キトラ古墳
覆屋の前でしばらく館長の説明と質疑の時間を取る。
高松塚古墳
カビのため改装工事が始まった。
中尾山古墳
3段築製の八角墓。
「以前、開口部があり人一人しゃがんで入れた」とのことであるが今は塞がっている。
墳丘の規模から改葬か火葬墓であるが、文武天皇陵なら続日本紀の記録から火葬墓。後期古墳の面白さは文献との照合が可能である点にあるとのお話。
天武・持統合葬陵
5時近くになってようやく終点に到着。
折悪しく雨。飛鳥駅に急ぐ。

(写真 説明文 伊田嘉文、下尾茂敏)
  降水確率60%の予報であったが、まずますの天候にホッとしながら近鉄飛鳥駅へ。
今回は河上館長のご案内で、飛鳥南西地域の終末期後半の古墳を歩き、館長が、永年提唱されている天武の陵園を検証することがテーマとあり、予想をはるかに越える275名が集合。見学予定に高取町が墳丘を整備中の市尾墓山古墳(26年ぶりに石室が開けられた)が、町のご好意で加えられたので、例会案内の逆回りでスタート。
 まず館長が想定される陵園の北西端越の牽牛子塚古墳で、終末期古墳の大きな特色である風水思想に基く立地について勉強。北側にある小山を玄武に見たてるなど具体的な解説と「今日は自分の目で地形を見て確かめて下さい。でなければ歩く値打ちがない」とのお言葉。その様な視点でこの古墳を見たのは初めて。真弓丘陵を南へ、汗が吹き出る。
 マルコ山古墳では終末期古墳のもう一つのキーワードの薄葬令と土葬・改葬・火葬の変遷についての勉強。
 佐田へ入り出口山古墳は館長が束明神古墳の発掘時に地元の人から聞かれ確認された古墳で、紀路と推定されている古道沿いの丘陵上にある。墳丘へは無理。束明神古墳は佐田集落の春日神社の境内地にある。広い場所での講義でやっとマイクが全員に聞こえる。古墳が山の斜面を大きく扶って築かれ、古墳の中に神社があることを確認。幕末の岡宮天皇陵の治定をめぐる佐田村の伝承「草壁さんの墓(束明神台填)の隠匿」など楽しい話を沢山。
岡宮天皇陵は通過、森カシ谷遭跡のある丘陵を西に見て南へ急ぐ。
 一時過ぎに市尾基山古墳に着き、昼食をとりながら交替して石室を見学。凝灰岩の到抜式家形石棺が置かれており、棺蓋の丸く大きな縄掛け突起が印象的で迫力があった。見学誘導のため館長の解説が聞かれずに残念。高取の町なかを抜け北へ向う。
陵園の南端の松山古墳は明治時代に海獣葡萄鏡等を出土した古墳で、終末期古墳の副葬品の解説があり、林の中の立地を確認。
 キトラ古墳では広場に坐り込んで仕上げの勉強。天武の陵園(死の都)の想定と唐の陵寝制の移入と云う考え方、そして高松塚・キトラ両古墳の壁画の見方など質問もあり話は尽きない。
 あと高松塚古墳、文武天皇陵、中尾山古墳を経て、陵園の起点である天武持続合葬陵で、振り出した雨のなか5時前に解散。万歩計で17キロ強、ハードでありましたが、美しい飛鳥の風物にひたり充実した一日でした。
河上館長ありがとうございました。会員の皆様お疲れさまでした。 (矢内良弘)