yushikai.jpg

近鉄南大阪線当麻寺駅→當麻寺蹴速五輪塔→當麻北墓五輪塔→傘堂→山口神社→鳥谷口古墳→岩屋→石切場跡→鹿谷寺→山田上ノ山古墳→金剛バス六枚橋バス停(解散)

 2月例会だより
 心配された天候も、スタートは天気に恵まれ、今尾先生のご案内(二上山・岩屋越え)で当麻寺駅を参加者130名(うち女性30名)で出発。まず当麻寺に向かう参道の横にある相撲の開祖当麻蹴速の墓と伝承される五輪塔へ。この塔は鎌倉時代後期の作といわれるが、当初のままのものでなく、後で五輪を組み合わせたものとのこと。次に薬師堂を経て、惣墓の当麻北墓に向かう。なかでも悠然と立する当麻北墓五輪塔はすぐ判る。平安時代後期の造立で大和最古である。
 続いて当麻山口神社横の珍しい建築遺構傘堂に至る。棟札や吊り下げられていた梵鐘などにより、江戸時代の独特の君臣関係が建立の理由であったことが推測されるとのこと。
 少し上った処に終末期古墳鳥谷口古墳が置する。手前の大池の整備の為山側の土取り作業中に発掘される。7世紀後半の土器の副葬があり大津皇子の墓との説もある。四月に開催される春季特別展「天武・持統朝 その時代と人々」が関連して今から楽しみである。
 いよいよ此処から山越え約50分で峠越えるが、途端に冷たい西風がきつく、寒さが体にしみる。
 岩屋前にて震えながら昼食をとる。休み時間を利用して、今尾先生から柳本黒塚古墳の名前の由来について「玄武(北)」の考え方の説明があり興味深くきく。
 午後は下る途中で凝石灰の石切場跡を見ながら鹿谷寺へ向かう。このような不便な場所で十三重塔や石窟、及び岩壁には線刻された如来座像等が残っており、古代寺院造営の困難さと、立派さが偲ばれる。
 次いで岩屋道と竹内街道の分岐点から車の往来の激しい国道166号線(竹内衛道)を全員一列縦隊で道の駅へ。
 しばらく休憩後「竹内街道歴史資料館」へ到着。入場者123名、上野館長から短い時間であったが熱心な説明を受ける。
 最後の山田上ノ山古墳(現孝徳陵)では、先生から孝徳陵の比定に対しては疑問であり、場所、時代などから叡福寺北古墳(現聖徳太子墓)がふさわしいと説明をうけ解散。
 今尾先生には忙しい毎日を過ごされているにもかかわらず、疲れを見せず詳しく、判りやすくお話しいただきどうもありがとうございました。会員の皆様には整然と行動していただきどうもお疲れさまでした。(片岡 昭)

近鉄當麻寺駅集合
前日の春うららの日とうって変わり、今日は風の吹く、遺跡研修にとっては厳しく寒い一日になりそうである。
別に高槻では今城塚古墳の現説が行われているということであり、参加者が案じられたが、130人を超える予想外の会員が當麻駅に参集した。そういえば、本日の講師は今尾さんである。
當麻蹴速五輪塔
日本書紀の「當麻徑」、古事記の「當岐麻道」、壬申の乱にでる「石手道」などいずれも現在の竹内街道のことと考えられているが、今回はこの道は通らない。今回研修する岩屋越えの道もその有力候補らしく、古くから河内ー大和ルートとして多くの旅人が通り、従って、さまざまな事故もあったに違いない。書紀の垂仁天皇のときに、野見宿弥と當麻蹴速の相撲の話が出てくるが、鎌倉時代の終わり頃になって、この五輪塔がこれまでの全ての迷える魂を供養する道しるべとしたのかもしれない。
2.44mの大き過ぎる五輪塔である。
當麻北墓五輪塔
高さ2.4mのこれも立派な五輪塔で、重要文化財に指定されている。平安時代後期の作とのこと。大和には、こうした五輪塔がたくさん残されているが、これらは各村毎に墓をまとめた総供養塔としての役割を果たしていたとのことである。
二上山を背景に聳え立つこの五輪塔は、当時の當麻村の経済力を誇示しているようである。
傘堂
1674年に郡山藩主の本多正勝の供養のため家臣の吉弘統家らにより建立された。平成の世には無くなってしまった上下の心情であるが、江戸時代前半の主君と家臣の心の関係を示すものとして注目されているものである。
當麻瓊山口神社
江戸時代はもと當麻村ほか16ヶ村の村社で熊野権現社であったが、現在は大山祇命・木花佐久夜比売命・天津彦火火瓊々杵命の三代にわたる神武天皇の先祖が祭られている。それにしても父親の「ウガヤフキアエズ命」が抜けているのは何故なのだろう。
鳥谷口古墳
丘陵の南斜面を平らにして造られた見晴らしのすばらしい処にある終末期古墳の一つである。 未完成と思われる家形石棺を見ることができるが、鉄柵とコンクリートが近づくことを拒絶しているようである。解説では葺石の存在や版築造法が採用されており、この地域の当時の高位高官の墓であったことを覗わせる。
大津皇子の陵は二上山雄岳山頂にあるが、この鳥谷口古墳を真陵とする説もある。
博物館の春の特別展では彼らが生きた時代を取り上げるそうである。
岩屋峠へ
いよいよ岩屋峠へと入る。本日のテーマ「歩きながら考える、考えながら歩く」今尾さんの企画構想の世界へと進む。
1688年には俳人芭蕉が籠でここを通り、歌も残しているとのことである。現在は急坂でとても籠などかついで通れる感じはしないが、当時はもっとゆるやかな曲がり道があったと思われるとのこである。
岩屋 
なんの記録も,縁起もない石窟寺院ということである。謎めいた雰囲気をもつが、合掌して祈りを誘う遺跡である。
奈良時代には作られていたらしいが、きっと数え切れない旅人の無事安全を護り続けてきた石塔に違いない。
岩盤から直接削り出された2.1mの多層塔がある。
向かって左側の壁には3体の仏像が浮き彫りされていると見られる。
竹内峠か岩屋峠か
峠越えの旅人を相手に生計を立てている人が沢山いたらしい。二本の道があれば、商売人にとっては旅人がどちらの道を通ってくれるのか死活問題になる。竹内峠と岩屋峠は相互の村にとりライバルの関係にあったとのことである。
鹿谷寺跡
縁起も記録も無い古代寺院跡ということになると勝手に想像するよりない。どうしてこんな不便なところに寺院を造ったのだろうか。
調査では、奈良時代の須恵器・土師器や中国唐の開通元宝をモデルにしたといわれている和銅開珎など出土しているらしく、中国石窟寺院の知識をもった人が修行のためか,旅人の安全を願って造ったのか、なんの目的で造ったのかよくわからない寺院跡である。
5.7mの十三重の塔の東側岩壁には石窟が穿かれ、如来坐像三体が線刻されている。注意深く見ないと識別できない。
西側岩壁にも仏立像が浮き彫りされているとのことだが、残念ながら岩のくぼみにそれらしいものがうかがえる程度。
鹿谷寺を下ったところの竹内街道と岩屋道の分岐点に行き先を示す道標がなく、1km以上、大阪寄りの「道の駅」裏側に「これより13丁東」と右上に追記された「左 第9番たへま奥院」の石標が立つ。竹内峠を越える本道-竹内街道の大和側集落である竹内村と間道-岩屋道による當麻村との間で旅人の争奪があったとの寛永年間の古文書が残っており、それが原因で道標が移転されたらしい。
竹内街道歴史資料館
河内-大和ルートとして,江戸時代には23道がリストアップされていたとのことである。古代からの様様な役割を果たしてきた幹道であった竹内街道が、明治27年の関西線の開通,昭和に入っての南大阪線の開通により、すっかり変貌して、今往時の面影を覗うことはできない。ここは竹内街道などの情報が全て集められている貴重な資料館である。
自動車道は一列行進
遺跡見学には、どうしても交通の激しい道を利用しなければならないことがある。交通事故が一番心配である。現在の竹内街道の表情である。この道を通る時は一列行進を原則としたい。
山田上ノ山古墳
西暦645年亡くなった孝徳天皇の陵に指定されている。考古学的には,山田上ノ山古墳と命名されており,終末期の円墳である。
すっかりガードされていて,近づきがたく、正面からは拝むことはできない。
(写真 文責 中根正喬、下尾茂敏)