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JR東寝屋川駅→寝屋川市立埋蔵文化財資料館→石宝殿古墳→寝屋古墳→太秦高塚古墳→高宮廃寺→忍岡古墳→奈良井遺跡→墓ノ堂古墳→四条畷市立歴史民族資料館→四条畷駅

前日までの強い冬形の気圧配置で天候が心配されたが、北摂の山々には雪が残るものの朝から穏やかな日和に恵まれた。太秦高塚古墳からの出土品が展示されている駅東側にある寝屋川市立埋蔵文化財資料館には早朝から押し寄せた会員で黒山の人だかり。参加者は155人を数えた。今日は、寝屋川市から四条畷市にまたがり5世紀中ごろから河内湖畔を利用して営まれた牧と、これに伴って移り住んだ渡来人の遺跡を、博物館主幹の千賀先生のご案内で見てまわった。河上館長も30年ぶりに石宝殿古墳を見たいとのことで特別参加、さらに忍岡古墳からは 四条畷市立歴史民族資料館主任学芸委員野島稔先生も参加され豪華キャストの例会となった。
JR東寝屋川駅から、古い家並みが続く坂道を登り、東側岡の上にある、花崗岩の巨石をくり抜いた石槨と列石が並ぶ石宝殿古墳へ向かう。ここでは、河上館長から、横穴式石室から横口式石槨への変遷について説明を受けたあと、千賀先生からは、最初から盛り土がなかったとの説があるが列石の北側の大規模な造成から見ると盛り土があったほうが自然、また東側の広い造成から、火葬墓と2基墳墓が並んでいた可能性があるとの説明を受ける。
続いて、かつては多数の古墳が営まれ打上八十塚と呼ばれた打上古墳群のうち、残存する寝屋川公園内の寝屋古墳へ向かう。広い芝生の敷地内にぽつんと残る横穴式石室が開口している後期古墳のまわりで昼食を取る。
午後は打上川に沿って西に向かい、浄水場の入り口に立つ5世紀後半の太秦高塚古墳へ。きれいに整備された造り出しを持つ円墳で一段目と墳頂に埴輪列がある。墳頂には、木棺直葬施設の跡が示されており、寝屋川市街が見渡せる。
続いて南側の住宅地を抜け、大杜御祖神社境内の高宮廃寺へ向かう。薬師寺式伽藍配置と見られ、東塔後には礎石が残る。周辺には神社遺構、豪族の居館跡や住民の住居跡があり、居住空間と氏神、氏寺が一体となった遺跡とのことで畑や林の中をしばらく自由散策。さらに南に進み、四条畷の遺跡に向かう。
大正寺の山門から階段を上って鐘楼を抜け忍陵神社へ。この鐘楼が忍岡古墳の前方部とのこと。後円部に立つ神社では、野島先生のお出迎えを受け説明をバトンタッチ。室戸台風で社殿が壊れた折の復旧工事で板石積み石室が見つけられた。今度の震災で石室の覆屋が再び壊れ、修復済のきれいな覆屋のなかを順番に覗き込む。
馬の祭祀跡で知られる奈良井遺跡は、170号線の真下。五世紀後半の前方後円墳、墓の堂古墳は後円部が共同墓地として残る。戦前の米軍航空写真でその存在がわかったとのことで、四条畷市立歴史民族資料館でその写真を見ることができた。中央に成仏を願う鎌倉時代の十三仏板碑があり、考古学者は成仏に時間がかかるとの野島先生の説明に館長、千賀先生苦笑。最後に四条畷市立歴史民族資料館で学芸員の方の手作り資料をいただき、展示物それぞれの詳しい説明を受けて解散。三々五々、夕日を受け四条畷駅へ向かった。寒い中、説明いただいた3先生と四条畷市立歴史民族資料館学芸員の方々に感謝。
最後に、愛煙家の会員の皆様へ
落ち葉の多い古墳周辺で喫煙される方があり、副会長から注意があったが、その後も路上への煙草ポイ捨てが見られた。愛煙家は、喫煙場所の注意と携帯灰皿をお忘れなく。(下尾茂敏)
.寝屋川市立埋蔵文化財資料館
  
今回の研修時間を有効に活用するため、東寝屋川駅前にあるこの資料館を各自10時集合までに見学しおくことになった。高塚古墳出土品などが展示されているところである。さほど広くないスペースなので、一度に50名以上も入ってしまうと身動きが 取れなくなる。それにしても、高塚古墳の出土品はすばらしく、この古墳の被葬者は、この地域のかなりの勢力者であったことが分かる。
東寝屋川駅 集合風景
  今回、ご案内してくださるのは千賀久さん。古代の馬文化の研究第一人者と言われる人である。研修コースは、かって古墳時代に馬の牧が営まれていたところで、多くの渡来人が日本古代馬文化に足跡を残した遺跡に注目して勉強してみようと言うことである。
石宝殿古墳

丘陵を少し登り、奥に進むと突然、日当たりに良い南斜面にゆうに300人以上が入れるスペースが現れる。そこに封土のない立派な石棺式の石室がむきだしになっている。そして、中心を輪郭づけるようにところどころ、人為的な石の配置が見られる。終末期の古墳で、一人一回限りの埋葬形式をとっていること、周辺の列石の位置やその北側の造成から、最初からこのような状態で造られたとは考えにくいとのことである。封土はあったと理解しておこう。ここは 国史跡となっている。
石宝殿古墳 東側面
石宝殿古墳 北側列石
石宝殿古墳 横口式石槨
寝屋古墳

周濠をもつ美しい円墳で、後期古墳に属する。近づくと幅2.5mの間口の広い横穴石室を直接見ることができる。幅の広い石室を造るにはより高度の造成技術が必要らしく、考古学的価値の大きい古墳とのことである。この古墳もまた素晴らしい景色の見えるところにあった。高い見晴らしの良い処に古墳を造るのは、神に少しでも近づきたいことの現れであろうか。
太秦高塚古墳 (トノ山古墳)

この古墳は寝屋川市の東丘陵上の秦・太秦という標高45mの最も高い地域にある。古墳頂上からは、360度のパノラマ風景が望まれ、ここもきっと見晴らしの良い場所を探し求めた結果に違いない。古墳の規模は、径37mの造り出しを持った円墳で 円筒埴輪や形象埴輪が数多く出土している。剣・短甲・鏃・斧・鐙なども見つかっており、解説ではこれらの出土物の性格から、 この地域で活躍した渡来系の騎馬術を先駆けて取り入れた武人の墓と推定できるとのことである。五世紀後半に築成された古墳で、市の第1号指定史跡である。
高宮廃寺

白鳳期の東西に塔をもつ薬師寺式伽藍配置のお寺である。東西90m、南北60mの広さで、西塔のあったと思われるところが今は大杜御祖神社が建っていてその存在が確認できていない。このお寺の西側に11棟以上の掘立て柱建物が検出されており、創建期の神社・ 仏閣に関った豪族達の居館跡として注目されている遺跡ということである。
忍岡古墳

ここからは、四条畷歴史民俗資料館の野沢稔氏に加わっていただき特別解説を頂くことになった。4月例会で「馬と生きる」の講演をして頂いた方である。
忍岡古墳は全長87mの前方後円墳で竪穴式石室を持つ。盗掘されており、僅かに碧玉製の鍬形石・石釧・紡錘車と小札(冑の一部)と鉄斧・刀子などがみつかっている。時期的には古墳時代前期後半の築造らしい。
忍岡古墳

現在その石室は、100年間は十分もつとおもわれる立派な桧材を使った覆屋に整備保存されようとしている。機会を見つけ改めて訪れることにしよう.。
忍陵神社 説明版
奈良井遺跡
今は市の総合センターになってしまって、全くその面影はないが、写真の集まって説明を受けているところが名高い牧の祭場遺跡である。五世紀後半から六世紀中頃までの土器が出土しており、長期にわたって牧の祭りが行われていたとのことである。この遺跡から、馬の骨が多く見つかっており、頭部を切り落としたものや、人形と馬形の土製品などもあって祭りの変化も窺い知ることが出来る古代馬文化を推し量る貴重な遺跡である。
墓ノ堂古墳
中野区の共同墓地になっているとろが墓ノ堂古墳の後円部にあたるとのことであるがうまく想像できない。墓地を囲む道路の僅かなカーブがそのことを示しているのかもしれない。埴輪を伴い、周濠を持つ、全長62mの中期古墳である。牧の開始時期に重なり、その経営に関った首長の墓との解説があり、このあたりの遺跡は馬文化に関るものが多い
四条畷市立歴史民俗資料館
 昭和60年に開設された資料館で、市の40余の遺跡の遺物や明治時代の土蔵を改築し、農具を中心とした日常用具が展示されている。イラストによって当時の生活状況を分かりやすく理解する工夫がこらされているが、文字情報と違い,絵の情報で伝えようとすると、なかなかむつかしいことも多いことだろう。
(写真 文責 中根正喬)