近鉄信貴山線 服部川駅→心合寺古墳→向山古墳→愛宕塚古墳→八尾歴史民俗資料館→俊徳丸鏡塚→来迎寺北古墳(割愛)→二室塚古墳→高安千塚
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9月21日、台風15号接近で予報は大雨、雨具と着替えを背に近鉄信貴山線服部川駅へ。 今回は河上館長と友史会員から初めての西森忠幸さんのご案内で、生駒山西麓部の楽音寺・大竹古墳群と高安千塚群集墳を中心に訪ねるコース。案じていた参加者数は、館長初のご出馬とあり150名を超えた。西森さんは地元八尾市の在住。学生時代に竜王山古墳群の発掘調査に参加し、館長のご指導を受けられたとのこと。集合場所の公園には八尾市立歴史民俗資料館の米田先生のお出迎えがあり恐縮。西森さんが先導と解説の前座、あと館長は一言だけにすると言うことで、コース北端の楽音寺・大竹古墳群へ出発。 心合寺山古墳から西へ、東高野街道沿いの鏡塚古填の上で、古墳群の全体像と両古墳について西森さんから郷土愛あふれる解説、あと館長は早くも一言では済まない。やはりこう来なくては。 墳上から見る心合寺山古墳は、整備のシート掛けであるが、悠然と美しい姿を横たえていた。 西側には古墳はないとのことなので、さぞ遠くまで西日を受けた葺石が光り輝き、大和川水系の河川を行交う船に権力の存在を誇示したことだろう。墳丘の西と南側には葺石を復元するとのこと。大竹廃寺跡を通り、東山麓にある向山古墳へ向う。向山瓦窯のあった菱池の堤上で「古墳群中最古の古墳とされているが、古墳とするのも疑問とするところがある」と西森さん。すぐ南の神立の愛宕塚は古墳、大和の竜田へ通じる十三峠越えの上り口にある。西麓最大の巨石墳。その過去に例がないとの玄室の三石二段積の側壁を見学。 天理とこの八尾は欽明朝に最盛期を迎える物部氏の本拠地。埋葬されたのは物部本宗家のトップと考えたいなど、お二人から楽しい解説。 歴史民俗資料棺で昼食のあと、米田先生のご案内で展示の見学。囲み形家型埴輪に三年ぶりの対面。愛宕塚古墳の南にある芝塚古填の石棺の展示があったが、両古墳の石棺材は同じ加西市の高室右と。石室形状もどちらも両柚式。愛宕塚古墳の馬具、大竹廃寺の瓦は収蔵庫。じっくり見たいが時間切れで、降り出した雨のなか出発。 俊徳丸鐘塚は石室定員が2名とて、はとんどが残念ながらパス。 高安千塚古墳群へ急勾配の坂道を上る。息切れ激しく列は伸びきったが、めげずに来迎寺に着く。 このあたりが古墳群中北部の大窪支群と。抜塚と言う名の奥壁を失った巨大な横穴石石室が入口になっているのにはびっくり。くぐり抜けると寺では彼岸会、粗品をいただく。予定した来迎寺北古墳は、本降りとなって来た雨と一人ずつの見学となるので割愛し、南の服部川支群へ移動。途中数基の古墳を覗き見しながら二室塚古墳へ到着。丈なす草むらのなかに入口があった。10名ずつの見学で、西森さんは古墳内で十数組に解説、大変でした。複式構造の石室と角柱状の巨石を立てた棚状の台は見ごたえがあった。南にある二室交互塚古墳にも是非訪れたいもの。神光寺墓地で基地内の古填を見学してから、締めくくりの講義があり質問も活発、あと3時半に解散。有意義で楽しい一日でした。河上館長、西森さんありがとうございました。また参加の皆さん雨のなかの登り降りの道に、全員無事が何よりのこと。お疲れさまでした。(矢内良和) | |
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![]() | 挨拶風景 今回は西森忠幸氏が講師を担当、河上館長はお目付役というところか。ともかく豪華スタッフと150名を越える参加会員でスタート。本日の見所、研修のポイント、注 意事項など説明を受ける。台風15号が近づいて来ており、雨にならなければよいが。 |
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![]() | 心合寺古墳 生駒山西麓部には2,000基以上の古墳があるとのこと。この古墳が全長160mと最大 である。副葬品も冑・短甲・太刀・鏡など権力者を示す豪華なものが多いが、注目されるものとして「水の祭祀場を現した囲み形家型埴輪」 がある。三野県主の墓との説 もあるが、河内平野の首長墓であることは間違いあるまい。現在整備中らしく、近づ いて見ることはできなかった。雨がポツポツ降り始めた。 |
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![]() | 鏡塚古墳 心合寺古墳の西方250mに位置する径28m、高さ5mの円墳状の古墳で火葬墓としての 痕跡が確認されている。心合寺古墳の陪塚と見られている。ここの土をいじると腹痛を起こすといわれており、そのせいかあまり調査が行われていないらしく実態は よく分からない。 |
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![]() | 愛宕塚古墳 生駒山西麓部の横穴式石室(内部は両袖石室)をもつ最大の帆立貝式古墳といわれている。標高70mの見晴らしの良い場所にある。石棺片に二上山の白色凝灰岩と 播磨系の石材の二種類が使用されていたことが確認されているとのことであるが、 どのような歴史的ストーリーが想定できるのだろうか。 |
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![]() | 高安千塚古墳群(神光寺周辺) 総数640基ほどあったらしい。多くは大阪城の石垣築造のため、壊されてしまったらしいが、その後の分布調査では185基の古墳が報告されている。『河内名所図絵』(1801年)に高安千塚乱掘の図がわざわざ掲載されているところを 見るとこれらの古墳群はよほどひどい目にあった歴史をもっているらしい。 |
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![]() | 総括質問 西森氏は友史会の会員であるが、同時に考古学の専門家でもある。今回の研修コー スは彼の研究ゾーンでもあり、その蘊蓄を傾けていただいた。そんなこともあり、 見学して来た古墳などについてあえて質問時間を作っていただいた。河上館長がそばにいたのできっとやりにくかったに違いない。これも勉強の一つであると思ってほしい。 |
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![]() | 群集墳の一つ 散会して、帰り道に出会った古墳である。何という古墳か分からないが、なにしろ大小含めて2,000基以上あるということだから不思議なことではない。別の機会にゆっくり見たいものである。取り敢えずシャッターを切ったものである。 |
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![]() | 二室塚古墳 この古墳は他に例のない復室構造をもつ古墳である。なぜこのような構造の古墳を つくったのか想像するより仕方がないが、追葬するために建増したのか、最初から の構造であるとすれば、二室に埋葬するものを分けるためのものか、あるいは後の ことを考えて余裕スペースとして予め残しておいたのか、いずれにしても比較する ものがないと理解しにくいものである。気になる古墳である。 |
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反省事項 大降りではないが雨が断続した一日であった。山裾に散在する古墳なのでアップダ ウンの移動を繰り返した。途中岐路も多く、行動ペースも乱れ、間隔が広がり、道に迷ったグループも出た。 結果、来迎寺北古墳見学は割愛することになった。 “円滑な運営を図るため、会員は会の事業に参加するときは各自が自覚と責任をもっ て行動する”という会則ルールを尊重し、どなたが参加し、どなたが途中リタイアさ れたのかあまり目を光らせずに運営して来たが、これからはいざというときのため に、参加者の名前ぐらいは事前に確認する必要があろうし、途中リタイアされる方 は必ず運営委員に報告していただくことが必要でもある。 また岐路の多いコース の場合の対応にも方向指示用の小道具の使用など工夫も必要であろう。お互いに、事故をおこして他人に迷惑はかけたくないものである。(文責 中根正喬) | |
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