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近鉄郡山駅→殖槻寺→観世音寺→羅生門跡→平城京右京8条1坊13,14坪(九条公園)→西市跡→七条廃寺→済恩寺→禅院寺→弘文院

梅雨空のあいま、近場のコース設定、初登場の大西さんへの期待で185名が近鉄郡山駅に集合。
 近くの公園で、友史会から速報展「大和を掘21」等の案内、大西さんよりコース概要、見どころの説明を受け、いざ元気に出発。
 郡山城で本丸の石垣に五尊仏や羅城門の礎石等が使われていることを見て、神仏を恐れぬ人間の傲慢さを痛感。そして、本丸に登り薬師寺、唐招提寺等を遠望清涼感に浸る。階段を下りる途中、郷土史家某先生により石垣の中程に上向きの二尊仏があるとの話で、石垣によじ登り発見。合掌…!
 殖槻寺・観世音寺跡では、出土した瓦は奈良時代以前のものがあり、当地に古くから寺院があったのか、それとも遷都によって他所からの移転によるものか?
 そして、佐保川堤では河川敷に埋没している羅城門は朱雀門より一回り大きく、京正面が如何に重要視していたことを窺い知る。
 その後、清掃センターで坩堝、羽口等が出土していることから鋳造・漆工房があったようで、あの富本銭も出土したようである。
 その後、昼食で一息つく。その折に美形のご婦人?より中華ちまきの差入れがあり至福のひと時。
 昼食後、色々と遺跡を回り大西さんから説明を受けたが、蒸し暑いことと日頃の運動不足で、殆ど記憶に残っていない。・・ごめんなさい。
 尼ケ辻駅で一応解散。大西さんのご好意で一部の方は、菅原東遺跡で復元された埴輪窯鉢を見学。幾つになってもオマケは嬉しいものである。
 西大寺駅で喉を潤し帰路につく。楽しいHAPPYな一日を過ごさせていただいた、大西さんに感謝・感激!!有難うございました。  (森田 勝)
郡山駅前
事前に友史会報で次回の予定研修コース案内をしているが、今回は6kmといつもより少なめの行程である。しかし、実際には10km近くになり、平坦なコースとはいえ、暑さもあって聊か体力を消耗した研修であった。集合したときは皆今日は楽勝と思っていたに違いない。
郡山城
スタート前に講師の紹介や団体行動の注意事項など挨拶に盛り込むが、参加者が100名以上にもなると挨拶する場所がない。まずは挨拶する場所を求めて郡山城へ急ぐ。
郡山城壁
郡山城は天正八年(1580)に筒井順慶が築いた。大和国内の各地から石材が集められ、礎石、石塔、石仏などが石垣に転用されている。写真は羅城門礎石の一つである。
羅城門跡
1969-1972年の調査で羅城門の基壇規模が東西約41m、南北約16mの大きさと分かった。現在は,佐保川の河川敷下に埋まっている。案内板があるだけである。想像力を駆り立てなければならない。
右京八条一坊十三・十四坪
十四坪では奈良時代前半の鋳造・漆工の工房とその関連施設が検出されている。
また十三坪では工房の管理施設と思われる建物群が検出されたとのこと。現在は九条公園として整備されている。
西市跡(近鉄九条駅南東すぐ)
平城京では東西に市があった。東市は左京八条三坊に確定しているが、西市はこれと対称と考えると丘陵地にかかりどうも対称的位置にはなかったらしい。一応、右京八条二坊五・六・十一・十二坪に比定されているが異論もある。
七条廃寺
現在の三松寺は近世以降に移転してきたとされる。この周辺から北東の天武神社の西側にかけて瓦が散乱。中に法隆寺式軒平瓦があり、明らかに奈良時代以前のものである。
済恩寺(垂仁陵から天神社を望む)
垂仁陵東方、天神社付近に藤原清河の家を寺としたと言う伝承のある済恩寺があったと考えられている。奈良時代の瓦が採取されているが寺の実体は不明。
弘文寺(興福院
藤原良継、百川の創建と伝える弘文寺(興福院)は現在の興福院町付近にあったと考えられている。江戸時代に法蓮町に移転し現在も興福院という尼寺がある。興福院町には現在、阿弥陀石仏(説明板は地蔵菩薩)がまつられており鎌倉時代のものとされるが古い様式も残し時代は不明確。弘文寺を知る上で重要な石仏。
菅原東遺跡
近鉄尼ヶ辻駅で一応解散した。が余力のある人は、ここから2km先の菅原東遺跡(埴輪窯跡)まで頑張ろうということになった。ほとんどの参加者が暑さにも負けないで足をのばすことになった。
(文責 中根正喬 下尾茂敏)