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南海高野線大阪狭山市→狭山池博物館→西除川→余部遺跡→日置荘遺跡→土塔→土師ニサンザイ→百舌鳥八幡宮→百舌鳥御廟山古墳→大山古墳

 昔、狭山遊園駅であった大阪狭山市駅に210名集合、講師の今尾さんおすすめの狭山池博物館へ向け出発。駐車無用の札が今もかかるペンガラ格子の末永先生宅前を通り高い土手を登る。狭山池である。北堤で学芸員の芝野さんより、平成の改修で洪水を防ぐ治水ダムになり堤は標高85m、古市、百舌鳥古項群、晴れた日には大阪城も遠望でき、安藤忠雄氏設計の館へは堤がアプローチの始まりであることなど説明を受ける。水庭脇、ダムをイメージした水の落ちる回廊を経て入館。高さ15mの堤がある。改修時、北堤中樋付近よりブロックに切り分けポリエチレングリコール液で保存処理し移築したもので、土のう積みと敷き葉工法の古代土木技術が目の当たりだ。江戸時代の取水郎、続く東樋、重源改修時に転用された石棺など見る物がいっばい。昼食後、西除川「吐」より中世重源の改修により発展した地域にある余部遺跡に向かう。野田橋で西除川に出会い一時間余りで到着。河内鋳物師の里はツチの音ならぬカラオケの響く現大阪府美原南余部住宅。集村化の始まりを示す屋敷跡を残す日置荘遺跡は近畿道脇。その高架沿いに西に進む。奈良時代、狭山池改修にかかわった行基がこれも民衆と共に建立した大野寺土塔。寺伽藍は確認できないが土塔出土瓦より行基年譜と一致する727年の建立。現土塔山大野寺西を北へ。交通量多く心配されていたが、無事土師ニサンザイ古墳に到着し、土手で一休み。前方部幅が後円部より長い形から六世紀に近い築造で、ハゼと読むが佐紀盾列、古市古墳群と共に土師氏、菅原氏の古墳築造の関わりを聞く。濠への西除川入り口を探すが見つからず北側堤から百舌鳥八幡宮へ向かう。
 拝殿脇に樹齢700年の大橋。河川灌漑で台地に水が満たされていく様子を見ていたのかとのお話に人々の営みの一途さを想う。百舌鳥御廟山古墳も陵墓参考地。百舌鳥駅を過ぎ大山陵へは4時30分着。三重の濠越しに前方部が小山のように見える。明治5年、掃除と称して前方部が発掘され、眉庇付胃、金銅製短甲などが出土。現在の整った三重の凄を持つ形になったのは、明治政府の意向であり、狭山池からの引水には要望書提出より百年の歳月がかかり明治8年に実現したことなどのお話を聞き解散。雨の予報を覆されたハレ男今尾さん、古墳と池の協力の大きなテーマに沿って各所の詳細なお話しありがとうございました。皆様お疲れ様でした。(桂田克美)

狭山池
  この池は奈良時代の行基の改修・鎌倉時代の重源の改修・江戸時代の片桐旦元の改修と大きく3回行われている。
  日本書紀などの文献記録から古墳時代に築造年代が求められ、かつ、この池の水が約10km離れている和泉の仁徳・履中陵の濠にそそがれていたと解釈されてきたが、調査の結果、7世紀初めと判明している。
土塔
  一辺60m、高さ9mの方形の土壇である。行基60歳(727年)のとき、大野寺と尼寺建立しているが、土塔はこの大野寺の木造の塔に代わるものであったとみなされている。
  多くの人名をヘラ書きした古瓦が出土することで知られている。
土師ニサンザイ
  墳長290mの古墳時代中期後葉の前方後円墳、宮内庁は東百舌鳥陵墓参考地としている。
  規模から見て,河内政権の大王墓の可能性が考慮される。
百舌鳥八幡宮
  祭神は誉田別命(応神天皇)であり、この神社の奥の院が墳丘内にあり、陵墓と思われていたことがある。
百舌鳥御廟山古墳
  墳長190mの古墳時代中期後葉以降の前方後円墳である。楯形の周濠を持つ。
大山古墳
  墳長486mの古墳時代中期中葉の三重の濠を持つ前方後円墳である。周囲には15基前後の陪塚がある。
  当初の形態は今なお検討課題であるが、狭山池と大山古墳の周濠との歴史的な関りは興味深いものがある。
(文責:中根正喬)