案内 博物館 小池香津江さん
近鉄菜畑駅→壱分遺跡群→竹林寺古墳・竹林寺(行基、忍性墓)→美忍岡萬墓→萩原遺跡→暗峠
「暗峠まで約四キロ、比高差約300メートルの急な登り(脅し?) にもかかわらず、参集した会員は100名。小池さんより、恩師の「近畿で弥生時代をやるなら、暗峠を越えないと弥生が理解できない。」との忠告がまだ実行されていないので今日初めて友史会員と一緒に登りたい。覚悟して登って欲しいとの話(やはり脅し) にもめげずに、好天の中、近鉄菜畑駅を出発。 現在、生駒谷は竹林寺付近を除いては開発が進み、旧地形もわかりにくい状況となっていて、遺跡のイメージはつかみにくい。最初の中菜畑遺跡は、弥生時代後期後半から終末期に生駒谷に人が住んでいたことが唯一確実な所。 次の往馬神社の東にあたる宮の前適跡は、古墳時代中期の、生駒谷の支配者層の居館または祭祀を行う場所ではないかと考えられる。西畑遺跡は、弥生時代中期から古墳時代、奈良時代の遺跡とバラエティに富み、生駒谷集落の中心地と考えられている。竹林寺では、埋葬施設が特殊な構造を持つ、前期後半の前方後円墳。奈良時代の僧行基と、鎌倉時代の僧忍性の墓を見学。昼食後行基入滅の地とされる往生院から、美努岡萬墓を訪ねる。ここからは待望?の暗峠に向かっての登山競走となった。全員無事登坂し峠で解散。小池さん本当にお疲れさまでした。皆様は足の筋肉痛はいかがですか。全然でない人は本当に健脚。翌日に出た人は若い人。翌々日以降に出た場合は年相応。今後の例会に少々の険路でも最低100名の参加者が期待できることがわかり、実に有意義な今回の例会でした。(吉村庄司) | |
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![]() | 菜畑駅集合 駅名は<なばたけ>でなく、<なばた>である。友史会例会は、指定駅に各自で集合する。雨が降っても中止にはならない。 会員は、東京、名古屋、四国などからも参加する。午前10時前の集合場所スナップである。この日、比高差300mの最後の難所である暗峠のアッタクに100余名が挑んだ。途中リタイアも自由である。 |
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![]() | 壱分遺跡 このあたりは、弥生時代中期から、人々の足跡を辿れるとのことである。壱分バイパス建設に伴い、弥生時代の墓域・集落の跡や古墳時代の集落跡が見つかっている。現在は、開発された住宅が立ち並び当時を偲ぶことは困難である。 |
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![]() | 竹林寺古墳 全長60mほどの前方後円墳である。古墳時代前期後半の築造と考えられる。墳丘には葺石と埴輪を持つ。 内行花文鏡破片や石釧・鉄刀などが出土している。 |
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![]() | 竹林寺忍性墓 鎌倉時代の律宗僧で(1217-1303)大和の人である。諸国を行脚し、寺、道路、橋などつくり社会事業に貢献した僧墓である。 |
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![]() | 竹林寺境内 竹林寺には著名な二人の僧の墓がある。奈良時代の行基(668-749)の墓と鎌倉時代の忍性の墓である。 行基は河内の人で、布教活動とともに溜め池などの開発を行い、東大寺大仏建立に関った。竹林寺境内での昼食のひとときである。 |
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![]() | 暗峠へ 生駒山には東西を結ぶ峠として十三峠越え、暗峠越え、清滝越えの三本の峠がある。暗峠は大阪・西国からの参宮路として栄えた。 明治初年ころには、まだ旅篭が20軒ほど残っていたとのことであるが、今はない。 (文責 中根正喬) |