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案内 博物館 千賀 久さん

 近鉄上ノ太子駅→御嶺山古墳→叡福寺→叡福寺北(上城)古墳→松井塚古墳の石棺→春日向山古墳→仏陀寺古墳→山田高塚古墳→二子塚古墳→石塚古墳→越前塚(葉室塚)古墳→太子西山古墳

紅葉が野山を染め抜いて秋深き快晴の朝、近鉄上ノ太子駅に集合。天理のマバカ古墳の現地説明会などと重なったが140名の参加となった。千賀さんのご案内で王陵の谷と呼ばれる磯長谷の主要な古墳のほとんどをまわる約8キロのコース。
 飛鳥川を渡り最初の御領山古墳はブドウ山の中に築かれていた。棚の下を低頭前進して横口式石槨内を小さな盗掘孔から1人20秒の見学。「御領山」は「御陵山」の転訛と。葬られた貴人は誰。聖徳太子廟では西側へまわり墳丘を初めて拝観した。北側丘陵を切断して築かれており、二列の桔界右があった。
 昼食後、境内東隅の松井塚古墳右榔を見学、大化の薄葬令の王以上の規模と。続いて磯長小学校裏の巨大な家形石棺の蓋石を見る。磯長谷のどのような古墳に納められていたのだろうか、そして棺身は今どこに。
 天皇陵としては最初の方形墳の用明陵を経て仏陀寺古墳へ。天井石が露出した家形刳抜石槨は蘇我倉山田石川麻呂の墓との伝承がある。松井塚古墳のあった松井氏宅はすぐ西にあった。用明、推古陵を見おろせる丘陵の上の両古填はやはり蘇我氏の中枢の人物の墓と思うと先生から。
 推古陵は丘陵の南でもっとも目立つところにあり、御陵の緑樹が西日に映え、本当に美しかった。東南の二子塚では北丘の蒲鉾形刳抜家形石棺を見学、地元ではこの古墳が本当の推古陵とする言い伝えもある。一須賀古填群の入り口の葉室石塚、かまど塚、越前塚を見る。いずれも天皇陵クラスの大古墳。
 秋の日はつるべ落とし。太井川を渡り、上り坂を西へと急ぐ。敏達陵は、葉室から北にのびる尾根上にある太子町で唯一の前方後円墳で、前方部を北に向ける。東側の磯長谷にまだ古墳のなかった頃、西側を意識して作られたのか。陵前で先生のお話のあと、解散。
 随所で終末期古填の型式の変化や、現存治定され梅鉢御陵と総称されている陵墓それぞれに、大き×はないとしても、?があるところなど教えていただき、楽しく充実した一日でした。
千賀さん、ありがとうございました。(矢内良弘)

近鉄上ノ太子駅
御嶺山古墳
 径30mほどの円墳で横口式石郭を持つ。黒漆塗木棺の破片や金銅製金具、副葬品に琥珀の棗玉とガラス玉など出土している。
叡福寺
 寺伝によると、推古天皇が聖徳太子の墓を守護し、冥福を祈るため建立し、さらに聖武天皇の勅願により伽藍が整備された。現在の建物は豊臣秀頼の再興のもの。
叡福寺北古墳
 聖徳太子の墓といわれ、上城古墳とも呼ばれている。横穴式石室には三棺あり、奥棺は太子の母の穴穂部間人皇女、西棺は太子の妃の膳部臣菩岐岐美郎女、東棺は太子の棺と伝えられている。
松井塚古墳
 墳丘は削平されて分からないが、方墳の可能性が高い。外形は刳抜き式家型石棺の形,石棺は叡福寺に移築されている。
 一般的な横穴式石室の中に家型石棺を置く埋葬施設とは基本的に異なる古墳である。
春日向山古墳
 用明天皇陵とされている。東西65m、南北60mの三段築成の大方墳で、幅7mほどの空掘がめぐっている。
 用明天皇は587年に没し、「磐余池上陵」に葬られ、593年に「河内磯長陵」に改葬されている。
仏陀寺古墳
蘇我倉山田石川麻呂の墓の伝承が残る。
巨大な凝灰岩横口式石槨が覗ける。
山田高塚古墳
 推古天皇陵とされている。東西59m、南北55mの三段築成の大型方墳。推古天皇は、628年に亡くなり竹田皇子の墓に合葬され、その後、「磯長山田陵に改葬されている。植山古墳が竹田皇子との最初の合葬墓ではないかと注目されたのは記憶に新しい。

二子塚古墳
 二つの方墳が連結しているような古墳で、長辺60m、短辺25m。北丘と南丘のそれぞれに横穴式石室があり、家型石棺を納めている。
葉室古墳群

●石塚古墳
 一辺30m、高さ約4mの方墳で、横穴式石室と家型石棺が見つかっている。
●かまど塚古墳
 径45mの円墳で、横穴式石室があったようである。
●越前(葉室塚)古墳
 東西75m、南北約55mの2段築成の大型長方形墳である。天皇陵に指定された方墳より大きな規模をもっていることから敏達陵ではないかとの意見もある。
(文責 中根正喬)