案内 博物館 今尾文昭さん
近鉄奈良線西大寺駅→西大寺奥の院(叡尊墓五輪塔)→塔婆堂→伝称徳山荘→阿弥陀谷廃寺→秋篠寺→ドヨー塚→秋篠・山稜遺跡→「陵」(京北班田図坪固有名)→五社神古墳→佐紀石塚古墳→佐紀御陵山古墳→佐紀高塚古墳
近鉄西大寺駅集合で平城宮西域を見学、暑い時期にもかかわらず、225名の参加。 まず西大寺境内にて自由拝観の後東塔前にて今尾さんの塔、叡尊による復興のお話を聞き、ゆるい坂道を奥の院へ。 叡尊の五輪供養塔が一番に飛び込んでくる巨大さ、隣接しては近在の人々の墓地内に骨堂、壁板に卒塔婆を打ちつけて壁にし幾重にも旧い卒塔婆が奥に、以前は土地の人々の納骨が行われていたそうです。 鋳物師池跡にて昼食、埋め立てられて公園になっており一部が池で残る。 鎌倉時代の絵図に「奉鋳四天池」と記され、「西大寺の草創に係わりを持つ金銅四天王像が鋳造された由来を示すといわれている」と記された石碑が立つ。称徳天皇の山荘跡、住宅に挟まれた裏山の感じで残る住宅街の中を、赤田横穴、阿弥陀谷廃寺の場所を確認。敷島町公民館には一石の礎石が保存、秋篠寺の道程地蔵尊石仏、永正年間銘、秋篠寺境内に入り涼を求めてほっと一息自由散策。 東塔礎石・基壇がよく残っている金堂礎石は苔の下に自然石が見え隠れしている。 「京北班田図」の中に入ってのお話。最後、佐紀高塚古墳の場所にて解散。本当の孝謙陵はどこ。 今尾さん、暑い中でのお話有難うございました。会員の皆さんお疲れ様でした。(松永和子) | |
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![]() | 西大寺から西大寺奥の院 宝亀11年(780)につくられた「西大寺資材流記帳」によれば、西大寺の創建は仲麻呂の乱のあった764年に孝謙(称徳)が7尺の金銅四王像の造立を誓願したことに始まる。当初は三十一町分(約9万坪)の寺域があった。 |
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![]() | 平安時代後半に衰退するも、鎌倉時代の律僧叡尊により復興された。90歳で示寂した叡尊の供養塔とされる3.4mの五輪塔が奥にある。 |
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![]() | 鋳物師池跡 奥の院の南側谷に鋳物師池が存在した。今は公園と化す。西大寺建立時四天王像を鋳造したことに由来するという。東堤に鋳物屑やスサ入りの炉体が発掘され、存在が確実視。 |
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![]() | 称徳天皇山荘跡 平城京右京一条北辺四坊にあたり林間幽寂、眺望に富む。いかにも別業や離宮の選地にふさわしいところである。 |
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![]() | 秋篠寺 宝亀11年(780)に光仁天皇一代に限り封戸百戸が施入されたと記録に有り、少なくとも8世紀末の存在を認めることが出来る。 1970年に橿原考古学研究所による調査が実施されている。 |
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![]() | 秋篠・山稜遺跡 縄文晩期から近世までの複合遺跡。京北班田図のなかに、「陵」の表記があり、律令国家の陵墓の公的管理に関係している地域ではなかろうかと今尾さん。(文責 中根正喬) |