2018年12月例会 「物部氏の首長墳巡検(北部編)」
案内 小栗 明彦 氏
日時 12月16日(日)
集合 JR・近鉄線 天理駅
行程 天理駅→ダンゴ塚古墳→袋塚古墳→別所鑵子塚古墳→塚山古墳→伝別所大塚古墳出土組合式石棺→別所大塚古墳→山邉御縣神社にて昼食→石上大塚古墳→ウワナリ塚古墳→岩屋大塚古墳→ハミ塚古墳→天理駅(全行程約11km)
天理駅前
下尾会長あいさつ
小栗先生あいさつ
これまで2回に分けて「暗越奈良街道」を歩いた。
「暗越奈良街道は奈良見物やお伊勢参りの道として江戸時代に整備が進みましたが、始めに設置されたのは奈良時代だとする見方もあります。しかし暗越奈良街道沿いに分布する奈良市宝来山古墳、奈良市富雄丸山古墳、生駒市竹林寺古墳と、東大阪市石切劔箭神社が保管している一括性の高い銅鏡や腕輪形石製品などの古墳副葬品目が出土したであろう未知の古墳は、4基いずれも同じ4世紀中葉に築造された古墳であって、交通の要衝に立地すること、規模が当時の倭王権を構成した有力者の墓に相当することなどから、その頃に倭王権によって暗峠越えの道路開発がなされた可能性が高いと考えました。
今回は、約3回、物部の首長、族長ともいわれる墓はだれかを考えていきたい。3回の内1回は布留遺跡をゆっくりめぐり、今日は布留遺跡の北側の首長墳を歩きたいと思います。」
ダンゴ塚古墳
明治26年に編まれた「大和古墳墓取調書」の絵図には前方部を西に向けた前方後円墳のような墳丘と、前方部前面と思われる位置に「溝田」と注記のある周濠痕跡らしき水田が描かれている。同書「取調書乙号」には西向きの前方後円墳にみえることがかかれている。
現在、墳丘は完全に削平されており、現在は民家とその東あたりと道路の地下に埋没している。
石室抜き取り痕跡の奥壁部分を墳円丘の中心として復元すると、後円部径45~50mの前方後円墳であり、出土した埴輪や須恵器からみて、築造時期は5世紀第4四半期の首長墳と考えられる。
南側から望むダンゴ塚古墳跡
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北側から望むダンゴ塚古墳跡
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ダンゴ塚古墳での解説風景。
東にみえる青いシートを被せたところは豊田トンド山古墳。直径が30m程の横穴式石室をもつ円墳で、7世紀初頭の築造。物部氏の首長墳ではないので、今回の遺跡めぐりから外した。
袋塚古墳
墳丘は削平され消滅し、現在はT字路の地下に埋没している。「大和古墳墓取調書」に絵図や、ダンゴ塚古墳の西に位置などが記されている。
山辺郡役所「明治32年 庶務の部 名勝旧蹟古墳墓」に古墳の規模や、墳丘の残存状況、「管玉勾玉等ヲ掘出セシト云フ」が記され、主体部はすでに盗掘を受けていたことが分かる。
道路工事にともなう部分的な発掘調査が行われ、前方部を南に向ける前方後円墳で、後円部径約31m、全長55~60mの前方後円墳と判明。周濠からは埴輪や須恵器、土師器が多く出土。6世紀第2四半期ごろに築造された首長墳と考えられる。
南の前方部側から撮影。T字路とその手前の地下に袋塚古墳が埋没している。T字路に面した背後の別所鑵子塚古墳。
別所鑵子塚古墳
天理市別所町に所在。前方部を北に向ける前方後円墳。後円部南側と前方部東側が大きく削られ、全体的に墳丘裾も削られ、周濠部分は前方部前面を除いてアスファルト舗装の駐車場になっている。
墳丘規模は現状で、全長約57m、後円部径約31m、前方部幅約44m、前方部前面での周濠幅11m。墳丘は2段築成で、後円部と前方部の双方に埋葬施設が確認されている。後円部の埋葬施設は、盗掘坑の形状からすれば、南東方向に開口する横穴式石室の可能性が高い。前方部の埋葬施設は竪穴系埋葬施設が考えられる。
2013年、後円部南側隣接地の駐車場工事の際に円筒埴輪が数本出土し、それらの埴輪には、6世紀第1四半期の特徴が認められる。したがって別所鑵子塚古墳はダンゴ塚古墳の次世代、袋塚古墳の一世代前の首長墳と考えられる。
東側から墳丘。右が前方部。
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西側から墳丘
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南から後円部。
塚山古墳
墳丘は完全に削平され、現在は天理市立山の辺小学校の校舎と運動場の地下に埋没している。
「大和古墳墓取調書」には「東南北ト三面池濠ヲ繞ラシ三段ニ築造シアルモ…」とある。「山辺郡誌」には、大正2年までは全長約49m、後円部径36m程度の墳丘が残存していたことが記されている。明治初年ごろの開墾の際には550kg程度の石が13個掘り出されたとの伝聞の記述は、巨石ではなく数量が少ないことから石室施設、石棺のいずれかが掘り出されたと考えられる。
1990年に山の辺小学校敷地内の小規模な発掘調査が行われ、周濠の一部が確認されて、前方部を北西に向ける主軸方向が確定したほか、円筒埴輪の破片が少量出土した。Bb種ヨコハケという外面調整痕がみられることなどから、築造時期は、5世紀第3四半期と考えられる。
校舎手前が後円部。
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伝別所大塚古墳出土組合式石棺
別所大塚古墳の石棺で道路の橋に使われていたものが、昭和初期に撤去されて、現在の地蔵堂の場所に移されたそうである。地蔵堂の南と東に組合式石棺材が置かれ、いずれ竜山石製。竜山石は、古墳時代中期から終わりにかけて大王、首長の石棺として使われた。
地蔵堂の南におかれた石材は東西119cm、南北195cm、厚さは東端で31cm、西端で41cmと、西側に向かって厚くなっている。上面東側の角は面取りが施され、西側は割られている。棺蓋と推定されているが、大きさからすれば棺長側の石材の可能性がある。
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地蔵堂北東の石材は上部だけ露出するかたちで埋まっており、側面の観察はできない。平面は平坦、東西227cm、南北110cm。棺底の石材と考えられる。
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塚山古墳(山の辺小学校)を背に別所大塚古墳へむかう。
塚山古墳、別所鑵子塚古墳と大塚古墳は近くに立地。
別所大塚古墳
前方部を北東に向ける前方後円墳。全長約125m、後円部径約75m、前方部幅約105m。墳丘は2段築成で、周囲には周濠と外堤がめぐっている。特に北西側では周濠の痕跡が良く残り、周濠幅は前方部前面では6m。後円部中央に大規模な盗掘口がみられる以外は、形状を比較的よくとどめている。1957年に行われた墳丘測量調査の際には埴輪片が散見されたという。
大正2年刊行の「山辺郡誌」には「厳然タル石棺ニシテ凡二間四方ノ人造石ヲ以テ之ヲ造レリ」とあり、石棺の大きさ3.6m四方には誇張があるとしても「厳然たる」と形容される超大型の石棺であったと思われる。
別所大塚古墳の築造時期の判断は難しいが、①巨大な横穴式石室 ②埴輪をもつ ③金銅製空玉と石製の玉類の両者が出土している ④別所大塚古墳出土といわれる組合式石棺材が竜山石製であることなどから、築造時期は6世紀中頃を前後とする首長墳と思われる。6世紀中頃前後だとすると、全国で2番目に大きい古墳である。
墳丘に近づく。
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周濠の痕跡が良く残る前方部の北西側めざす
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前方部の西外堤で解説を聞く。低い畑は周濠。痕跡がよく残っている。
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昼食・休憩
山邉御縣神社境内で昼食・休憩。
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石上大塚古墳へ向かう。
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道脇に、姫丸(平尾)稲荷神社。仁賢天皇と父市辺押磐皇子の石上廣高宮の伝承地碑が建っている。
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「石上銅鐸出土地」の石碑。明治16年と17年に石碑の奥から2個の銅鐸が発見された。2010年4月例会北井先生の案内「銅鐸出土地をめぐるⅠ」で訪れている。
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竹林の中のクヌギの木が石上大塚古墳墳丘への入り口。
石上大塚古墳
前方部を北に向ける前方後円墳で、後円部南側の形状は崩れているが、その他の部分は本来の形状をよく留めている。墳丘規模は、全長107m、後円部径67m、前方部幅82m。墳丘は二段築成で、西側くびれ部には造り出しが付き、墳丘の周囲には周濠と外堤がめぐっている。周濠の幅は前方部前面で6m。後円部中央には南に開口する横穴式石室が造られている。
1959年の部分的な発掘調査では、玄室長6.3m、玄室幅2.8m、羨道幅1.7mの大型の片袖式石室などが確認された。
石室の形状からみて、6世紀中頃の築造。同時期に別所大塚古墳があり、石上大塚古墳の規模が少し小さいので、首長の次席の古墳、あるいは首長を輩出する氏族が変わったと思われる。6世紀中頃の古墳では別所大塚古墳が全国2番目の大きさであり、石上大塚古墳が3番目。
手前の四角い石材の手前は羨道、奥は玄室。羨道から玄室に入ると、右側が広くなっている左片袖式石室。
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石室を囲んで解説を聞く。
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ウワナリ塚古墳
石上大塚古墳東の狭い谷地形を挟んで、主軸が並行するように築かれている前方後円墳。墳丘規模は、現状で全長110m、後円部径68m、前方部幅80m。墳丘は二段築成、前方部前面に残存する平坦部の状況から、墳丘の周囲には周濠はなく、前方部前面に平坦部が残存する状況から、周濠に相当する平坦部が形成されていると考えられる。
羨道の天井石のほとんどが持ち去られているものの、玄室は完存しており、玄室長6.85m、玄室幅2.9m、羨道幅2.0mの大型の両袖式石室で、側壁は4段、奥壁は3段に積まれ、天井には3枚の大石が架構されている。
「大和古墳墓取調書」の絵図にはウワナリ塚古墳付近の道端に長さ210㎝、幅75cm、高さ75cm、厚さ21cmの刳抜式石棺が放置された状況が描かれ、「山ノ半腹ヨリ三重ノ石棺ヲ堀出シ、山下迄運ビ来リ」とある。「三重ノ石棺」の意は不明。
築造時期は、石室の形状からみて6世紀第3四半期と考えられる。同時期の古墳の大きさでは、全国で2~3番目
柵を越えて石室に向かう
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石室入り口には柵があり狭く30人くらいにわけて1人ずつ順番に入る。
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石室へ入ると狭い急坂。綱を頼りに出入りする。
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石室内で解説を聞く。側壁は4段、奥壁は3段に積まれ、天井には3枚の大石。
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北側から墳丘。ぶどう畑頂が前方部。頂の奥の森が後円部。
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岩屋大塚古墳
前方部を東に向ける前方後円墳だが、名阪国道によって、墳丘の南半分が失われた。墳丘規模は全長76m、後円部径60mとされている。1964年、名阪国道の建設にともなう部分的な発掘調査で、後円部中央の調査区では、南に開口する大型横穴式石室の側壁裏込め土が確認された。後円部墳丘西側斜面の調査区では葺石が確認され、その状況から三段築成の墳丘とされる。前方部の調査区では、南に開口する横穴式石室の羨道側壁基底石列や、玄室床面の敷石と排水溝が確認されるとともに、凝灰岩製組合式石棺の破片や、羨門付近の羨道側壁際から須恵器や子持器台破片と土師器高杯破片などが出土した。
前方部石室の規模は全長16.8m以上、羨道幅1.5m、玄室幅3.6m以上で、かなり大型である。前方部前面の調査区では周濠と考えられる溝が確認された。
しかし、後円部径を60mとすると、前方部が短すぎ、石室の位置が不自然。後円部石室の盗掘口の中心から墳丘西の墳裾まで約25mであることから、後円部径50mと考えると、前方部石室の位置は不自然ではなくなる
須恵器子持器台の後円部に付着するはそう(扁球型の胴部に小孔のある壺の名称)の型式がTK209型式前後で6世紀末を前後するものであることを参考に、築造時期を6世紀第4四半期の首長墳と考えられる。
南側から墳丘。
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ハミ塚古墳
岩屋大塚古墳の600m東、高瀬川北岸に立地している。1995年から1998年にかけて名阪国道側道拡幅工事と下水道工事にともない発掘調査が行われた。墳丘は東西47m、南北44mの二段築成の大型方墳、葺石をもち、埴輪はない。主体部は南に開口する横穴式石室で、羨道の長さは不明だが全長12m以上、玄室の長さ5.7m、幅3.4m、玄室には二上山産凝灰岩製の刳抜式家形石棺が1基置かれていた。石棺は破片となっていたが、復原すると棺蓋は長さ270cm、幅138cm、高さ58cmで、棺身は長さ258cm、幅133cm、高さ93cm。
築造時期は、出土須恵器がTK209型式であること、石室の形状が石舞台古墳に似ることからみて、7世紀初頭の首長墳と考えられる。
守屋の墓との説があるが、この場所は高瀬川北岸で和邇氏の領域となるので、岩屋大塚古墳の方が守屋の墓の可能性が高い??
高瀬川南岸からハミ塚古墳を望む。
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古墳の下に石室石材が覗ける。
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今回廻った物部氏の首長墓を築造順に並べると、塚山古墳(5世紀第3四半期)→ダンゴ塚古墳(5世紀第4半期)→別所鑵子塚古墳(6世紀第1四半期)→袋塚古墳(6世紀第2四半期)→別所大塚古墳(6世紀中頃)→石上大塚古墳(6世紀中頃)→ウワナベ古墳(6世紀第3四半期)→岩屋大塚古墳(6世紀第4四半期)→ハミ塚古墳(6世紀第4四半期~7世紀初め)
色々異論があるとは思いますが、今回の例会の想定被葬者は、別所大塚古墳が武烈~継体朝の大連物部麁鹿火、石上大塚古墳が安閑・欽明朝の大連物部尾輿、そして蘇我馬子と争った物部守屋の墓は岩屋大塚古墳・・というお話でした。
次回の小栗先生の例会は、物部氏の首長墳巡検(南部編)の予定。乞うご期待。