2018年11月例会「古代豪族 秦氏の一大拠点、太秦周辺を歩く」
案内 青柳 泰介 氏
日時 11月18日(日)
集合 10時 阪急嵐山駅前
行程 阪急嵐山駅→(渡月橋)→大井神社→(渡月橋)→一の井堰→宗像神社→法輪寺→松尾大社→月読神社→松尾中学(松室遺跡)→昼食・休憩(上桂公園)→蛇塚古墳→広隆寺→大酒神社→木島神社(蚕の社)→天塚古墳→太秦天神川駅解散
阪急嵐山駅前
下尾会長あいさつ
12月24日から橿考研博物館は休館になるが、友史会は活動します。
来月(12月)例会は天理駅前に集合し「物部氏の首長墓巡検(北部編)」、2月は「飛鳥~稲淵まで甘南備を巡る」を実施。
来年度は年間スケジュールを変更し、暑い6月、7月、寒い2月は講演会にし、気候が快適な5月と10月は遺跡巡り、残暑の9月はバスを使います。「博物館休館中も友史会は活動しますので、来年度も会員登録の更新をしてください」と呼びかけ。
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青柳先生あいさつ
嵐山駅前で例会開会のあいさつなどをしていたところ、駅員から阪急電鉄管理地へ案内され、移動。青柳先生のあいさつと、例会の狙いの解説を聞きました。
青柳先生は、友史会例会の解説は初デビュー。
《青柳氏解説要旨》
奈良盆地などは例会で巡っていると聞いたので、秦氏の本拠地、嵐山、松尾、太秦を巡ろうと考えた。奈良盆地では、渡来人系集団の漢(あや)氏が大阪や奈良盆地で勢力をふるった。奈良盆地の漢氏より一代前の秦の渡来系集団「秦氏」が、この太秦周辺や伏見稲荷周辺で勢力を張っていたことが文献上明らかになっているので遺跡巡りに選んだ。
この地域は、古墳時代には開発が遅れていたが、5世紀終わりから6世紀代に秦氏が勢力を拡大した。桂川左岸の太秦は標高が高いが、桂川に井堰をつくり、田圃を作るのが困難な地域に農業用水を引き、右岸の嵐山、松尾地域にも農業用水を引き、地域を潤したことが勢力を拡大したと私は考えている。
桂川の上流、亀岡盆地の奥には、古代の杣が想定されているので、秦氏は木材を含めた丹波からの物資集積場としての利用した可能性があると考える。
「次に巡る大井神社はこの周辺にあった井堰を祀る神社といわれている。敷地が狭く観光客が多いので現地では解説はしません」などを解説。
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渡月橋の歩道は人、人、人…。写真手前、少し高い用水路は桂川左岸から太秦地域へ水を送る用水路
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桂川左岸の用水路は渡月橋の下を流れ、その先に桂川へ戻す余水吐がある。右の樋門の開閉量によって写真手前の上流から引き込んだ用水の流量を調節している。秦氏の時代にも都江堰になぞらえた、流量を調節するものが造営されていたのではないか…?
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大井神社
大井神社の鳥居をくぐる。鳥居の横には「大堰(おおい)川の守り神」と書かれていた。
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小さい社だが神社の説明板に「927年の延喜式神名帳や876年の山代大堰神、並従五位下に記録がある」「おそらくは秦氏の葛野大堰造営と密接な関係があろう」と表記。井堰を祀る社と考えられる。
商店街の狭い裏路地にあるため、阪急電鉄管理地で解説を聞き、大井神社を見学したあとは運営委員の道案内で一の井堰をめざして歩く。
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一の井堰(いちのいぜき)
桂川の上流は丹波の杣から切り出された木材などの物資がある。秦氏は葛野大堰を造営して用水を確保し、あわせて丹波からの物資集積地の役割を担わせていたのではないか?青柳先生「今は推測の域を出ませんが…」
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青柳先生「古墳時代の中期の終わりから後期に最初の治水の井堰が造営されたと考えている。もし井堰があったとすると、中国四川省で秦漢代に造営された都江堰になぞらえて杭列を斜めに何重にも打ち込み、流れを緩やかにするものではなかったかと推測する。今でも爆流なので、難事業だったと考える。将来に調査しても、何度も改修されたため、わからないだろう」
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桂川(写真左)の南の右岸には、嵐山と松尾の地域に船が通れる用水(写真左)を供給している。一の井堰の説明板は表題に「京野菜を育む」、解説には「一の井堰は、桂川の水を田畑に送るため、古くは5世紀末に設けられたという農業水利施設です」「今も地域の田畑を潤し続け、京野菜やお米をはぐくんでいます」とある。中国の都江堰も二千年にわたり、田畑を潤し続けている。
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宗像神社
宗像神社の石碑横の階段を上がり、宗像神社の鳥居をくぐる
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宗像神社境内。青柳氏「祭神は福岡県宗像市の沖の島であり、朝鮮半島との交通の要衝にある神社をここに祀るということは、秦氏が渡来系であることの関連するのではないかと考える」
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法輪寺
「法輪寺舞台入口」の看板があるところから法輪寺に向かう
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法輪寺舞台で解説を聞く会員のみなさん
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法輪寺舞台から左の奥に五山の送り火の鳥居形、その右下の大きな建物が上嵯峨仙翁寺域。
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写真左、三角形の峰が比叡山、その手前の三つコブが双ヶ岡(ならびがおか)、三つコブの左に大きな横穴式石室があり、その頂上からはこちらがよく見える。青柳先生「双ヶ岡を巡ると完璧だが20kmを超えるので、今回は断念した。機会があればぜひ訪れてください」。双ヶ岡の右手に大きいマンションがあって見えないが、マンションの後ろが太秦の中心地。
さらに右手に京都タワー。京都タワーから双ヶ岡のふもと辺りは平安京の京域。
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双ヶ岡からの鳥瞰(2018年10月9日、下見時に撮影)。写真下中央のクリーム色の建物は東映太秦映画村
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法輪寺階段を降りる大勢の会員さんたち。
松尾大社
青柳氏「松尾大社は秦氏の氏神として崇められており、重要な場所です。秦酒公になぞらえたお酒の資料館や背後の松尾山の麓には群集墳、頂上には磐座があります。また、宝物館には平安時代の等身大の神像があります。時間があるときに訪れてご覧ください」
法輪寺から一の井堰から導水された用水路に沿って、松尾大社へ向かう。10月初旬の下見時には、清流に咲く梅花藻の白い花が咲いていた。例会時もわずかに花が残っていた。
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松尾大社に到着。松尾大社はトイレ休憩が終われば出発。七五三と行楽シーズンが重なり、参拝客がたくさん訪れていた。
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室町時代の本殿(写真奥の建物)。祭神は出雲系の神様が含まれる。重要文化財
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秦酒公になぞらえたお酒の資料館
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出発時間間近。集合場所の鳥居辺りは、参拝客と七五三詣での人たちと会員さんたちで混雑。
月読神社
月読神社に到着。鳥居をくぐる
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解説を聞く。月読神社は壱岐の神様を祀っており、朝鮮半島への水上交通路上に祀られている神様なので、渡来系集団の秦氏を考えるうえで示唆的な神社といえる。
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本殿右にある月延石。置かれている白い石は壱岐と関係があるらしい。
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月読神社を出て、松室遺跡に向かう
松尾中学(松室遺跡)
松尾中学校の校庭の下から、葛野大堰からの導水路ではないかという六世紀代の水路が見つかった。現状では秦氏が関わったと想定されている葛野大堰を推測させる。
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松尾中学校の門扉左の塀の後ろにある「此附近弥生遺跡跡」の石柱をのぞき込む。松室遺跡の水路は、塀の後ろ辺りが下流、校庭側が上流。先ほど訪れた松尾大社辺りからこの場所に流れていたと考えられる。
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松室遺跡出土水路(中略)(財)京都市埋蔵文化財研究所1985より。図の方位は上が北で上流。網掛け部分が6世紀代の水路跡。
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「此附近弥生遺跡跡」の石柱
写真の左が校門門扉左の塀、写真右が北。
松尾中学校(松室遺跡)をみたあと、昼食・休憩地の上桂公園へ向う
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上桂公園にある現代の土地整理記念碑。紅葉の中で昼食。
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蛇塚古墳
蛇塚古墳の形態は諸説あるが、大勢を占めるのが前方後円墳。全長は75m、石室のある後円部の直径は45m、石舞台と同じく石室が露出しており、両袖式。6世紀終わりから7世紀の初めごろといわれるが、一部に7世紀初めごろとする二説がある。前方後円墳の最後の時期の古墳という見解は一致している。横穴式石室の全長は18m、玄室の長さは6.7m、羨道の長さは11.5m。中に入ると空が見えるので、石舞台古墳よりも大きいと感じる石室です。
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昼食、休憩したあと上桂公園で次に巡る蛇塚古墳の解説や注意など。
蛇塚古墳の周辺は住宅地内にあり大勢では行けないので、ここで解説。「2班に分けて見学します。あとの班は蛇塚古墳手前の公園で待機してください」
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京都市の解説板抜粋「上空(西)から見た蛇塚古墳」
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西から撮影した蛇塚古墳。石室は露出し、道路と住宅に囲まれている。
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石室内部、羨道側から玄室側を撮影。会員さんは「石舞台より大きい」「どこの石なのかな?」
などと観察
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石室内部、玄室側から羨道側を撮影
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広隆寺
蛇塚古墳と広隆寺だけで秦氏の栄華を物語れるぐらいメジャーなスポット。霊宝殿には国宝第一号の百済系弥勒菩薩像などの仏像群があるが、この例会では見学しない。また、太秦殿内に、かつて秦河勝夫妻像が祀られていた
広隆寺に到着。南大門(仁王門)から入る
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広隆寺南大門(仁王門)右横の「広隆寺」石碑の台座は、広隆寺にあった塔の心礎が使われている。
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薬師堂の前で青柳先生の解説を聞く
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写真中央屋根上部だけ僅かに見える建物は太子堂。その奥にある霊宝殿には国宝第一号の百済系弥勒菩薩像などの仏像群があるが、例会では入館しない。右の建物=講堂は台風の被害を受けて今は見学できなくなっている。講堂の奥には、かつて秦河勝夫妻像が祀られていた太秦殿がある。秦河勝夫妻像は、今は霊宝殿に移されている。
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広隆寺「太秦殿」(2018年10月9日、下見時に撮影)
大酒神社
社名は酒にまつわるとか、大きく避けるとか、大きく割くという説がある。かつては広隆寺の桂宮院(国宝)のなかにあり、鎮守の役割を果たしていたが、神仏分離令により明治時代以降に広隆寺の外へ遷された。
大酒神社鳥居前にある由緒書を読む会員のみなさん
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「社殿は移されたものですので、見終えたらすぐに戻って下さい」の説明があり。社殿を見終えるとUターン
木島(このしま)神社(蚕の社)
木島神社は、養蚕で財を為したといわれる秦氏が関係したというイメージが強いが、それは本殿の脇にある蚕の社の存在があるからだと思われる。境内地では、古墳時代中期の韓式系土器などが出土している。太秦地域では、秦氏が入ってくる前から渡来系集団が活動していたようだ。
境内地北東隅の調査では、湧水施設が確認されている。境内地西部にある特殊な石製三角鳥居は三面鳥居、三柱鳥居ともいわれ、古墳時代の湧水祭祀施設として著名な城之越遺跡例のような構造の祭祀施設の可能性がある。
青柳氏「渡来系の水のまつりをしていた集落経営がされていたところに秦氏が入り込んできたのかもしれない」
木島神社に到着
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神社に入ってすぐの所に「かいこのやしろ」の石碑
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拝所前で青柳先生の解説を聞く。拝所の奥、本殿の右に蚕(こ)養(かい)神社(東本殿)があり「蚕の社」はそれにちなんだ社名。21号台風の被害を受け、木島神社の各所は立入禁止のコーンや張り紙があり、拝所や本殿の屋根にはブルーシートが被せられ、痛々しい
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三角鳥居
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三角鳥居辺りに湧水があり、湧水が写真上の鳥居手前(南)の楕円形の池状の石組みから、写真下の楕円形の池状の石組みに流れる構造の湧水祭祀施設ではないか。
(上写真は、下写真奥の竹柵越しに撮影)
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都名所図絵には湧水が描かれている。
清水山古墳跡
天塚古墳を見学するために待機する千石荘公園とその西側にかつてあった全長60mの前方後円墳。出土した埴輪からこれから見学する天塚古墳に近い時期と思われる。かつてはこの付近に同じ時代に二つの大きい古墳がつくられた。
現在は駐車場の北側に石碑だけが残る。
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「清水山古墳跡」石碑
天塚古墳
千石荘公園から40人ずつ古墳に向かう。見学は、①後円部にある無袖式石室に入って見学 ②墳丘テラスを歩き、前方後円墳の形を確認 ③後円部墳頂と東側のくびれ部を確認 ④西側くびれ部にある左片袖式石室に入って見学。
見学が終わると公園に戻り、京都市営地下鉄の太秦天神川駅をめざして自由解散。会員さん全ての見学が終わったときには、陽がおち薄暗くなった。
千石荘公園で、清水山古墳と天塚古墳の解説のあと、天塚古墳を見学
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後円墳部の石室方向へ向かう
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天塚古墳後円部にある無袖石室。石室の長さ8.1m、羨道の長さは計測不可。石材は小さく天井は低い。石室は狭いので5人ずつ見学。剥落が激しく、各所に支え棒が施されている。ふだんは施錠され、石室内部には入れない
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くびれ部。写真右の竹製手すりを上がると後円部墳頂
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後円部墳頂
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西側くびれ部の石室も狭いため5人ずつ見学。順番待ちの列。順番が来ると運営委員さんがライトを貸してくれた
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西側くびれ部にある石室入口と順番待ちの先頭。
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西側くびれ部石室内部。玄室から羨道側を撮影。こちらは左片袖式であり、一つの前方後円墳に二種類の石室がある。玄室の長さ4.7m、羨道の長さ3m。後円部の石室と同様に石材が小さく、天井が低い。剥落が激しく、石材の支え棒などが施されている。
青柳先生、ご案内ありがとうございました。
(撮影)小田 正