2018年9月例会「銅鐸出土地を巡るⅦ」
9月16日(日)
案内 北井利幸氏
行程 JR新大阪駅→淡路サービスエリア→南あわじ市滝川記念美術館玉青館→古津路銅剣出土地→慶野中ノ御堂銅鐸出土地→洲本市立淡路文化史料館→五斗長垣内遺跡→JR新大阪駅
銅鐸を出土地から検討するシリーズで、今回は第7弾。今回は淡路島で銅鐸の始まりについて見学する。
新大阪駅からバス3台で出発。2台の予定が好評で1段増便、補助席も埋まった。
ご案内いただくのは北井先生。停車地ごとにバスを乗り換えて海員の質問に答えていただく。
淡路島で確認されている銅鐸は最大26口。伝承品などをのぞくと、その多くは銅鐸の最も古い型式に位置付けられる菱環鈕式1式からその次の型式である外縁付鈕式。出土・発見地点は三原平野に集中する。特に松帆地区からは慶野中ノ御堂銅鐸8口、慶野銅鐸1口、松帆銅鐸7口と多くの銅鐸が見つかっている。この地区からは銅鐸だけでなく、銅剣も14本出土しています。松帆地区で出土・発見された銅鐸はいずれも播磨灘に面した砂堆に埋納されていた。この砂堆は北から南にむかってのびており、古津路銅剣はこの砂堆の南端近くに埋納されていた。
淡路島の銅鐸はその多くが古い型式で、埋納場所は海に面した砂堆上。銅鐸は丘陵上、谷の奥などに埋納されることの多いが、埋納場所・目的などを再考する必要がある。
五色塚古墳・舞子浜遺跡
最初の見学地は淡路サービスエリア。
観覧車が目印の淡路サービスエリアに到着
3連休の中日で、観光客であふれる。
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展望台で五色塚古墳と舞子浜遺跡の説明を聞く。
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展望台から五色塚古墳を望む。肉眼ではなかなか識別できないが望遠レンズでは見える。
五色塚古墳は古墳時代前期に築造された兵庫県最大の前方後円墳。 全長194mで三段築成、周囲に周濠を巡らす。下段は地山を前方後円形に掘り残し、中段及び上段は盛土。葺石は下段に小さい石を、中段及び上段に大きい石を使用している。西側に直径70mの小壺古墳が隣接して築造されている。こちらは兵庫県で二番目に大きい円墳。
明石海峡に面した場所に立地し、海上交通の要衝を占めている。このことから海上交通と関わりの深い有力者の墓と考えられている。
舞子浜遺跡は五色塚古墳より西へ約1㎞に位置し、円筒棺が19基検出。使用された埴輪には五色塚古墳出土の埴輪と類似したヘラ記号が認められ、両遺跡の関係性が指摘されている。
塩壺西遺跡
淡路サービスエリアも遺跡である。塩壺西遺跡は鳴門方面本線に出る手前あたり。
皆さん気がつかれたかどうか??
弥生時代後期後半から終末期にかけての高地性集落跡。竪穴建物や焼土坑などと現存長13.6㎝、最大幅3.3㎝、重量24.78gの弥生代後期最大級の鉄鏃がみつかっている。
明石海峡を望む丘陵上に立地することから弥生時代後期後半の緊張した社会状況を示している。
南あわじ市滝川記念美術館玉青館
バスは巧みなハンドルさばきで狭い道をぬけて南あわじ市滝川記念美術館玉青館で到着。
松帆銅鐸のパネル展示と中川原銅鐸、慶野銅鐸、中の御堂銅鐸のレプリカが展示されている。
松帆銅鐸は平成27年4月8日、南あわじ市内の石材製造販売会社の砂利置場で銅鐸が2口見つかり、砂利の中からさらに5口の銅鐸が見つかった。この砂の採集地が松帆地区であったことから「松帆銅鐸」と名付けられた。実際の出土地は不明。
大小の銅鐸が一組となって入れ子状で発見されたことから少なくとも2個一組で埋納されていたことは明ら。また各銅鐸に舌が伴う。銅鐸と舌が一緒に発見された事例は鳥取県泊銅鐸、南あわじ市の慶野中ノ御堂銅鐸しかなく、特殊な埋納例。さらにこの舌には銅鐸と結び付けたと考えられる紐が確認された。舌は大形品が4点、小形品は3点で銅鐸は大きいものが3口、小さいものが4口であるので銅鐸は8口あった可能性が考えられる。
放射性炭素年代測定により、紀元前4世紀から紀元前2世紀に埋納されたことが特定された。
松帆銅鐸2・4号銅鐸と慶野中ノ御堂銅鐸が、3号銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸が、5号銅鐸と荒神谷6号銅鐸が同笵関係にあるが、同笵関係にあるからと言って出土地域に関係があるとは言えない。
3班に分けて解説を聞く。
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展示品を見る。
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銅鐸は吊るして鐘のように使った。
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レプリカ展示品
中ノ御堂銅鐸は南あわじ市松帆慶野中ノ御堂から発見された銅製の舌を伴う銅鐸。松帆2号・4号銅鐸と同笵関係にある。外縁付鈕1式四区袈裟襷文銅鐸で、高さは22.5㎝。この銅鐸には伝来を示す「宝鐸御届写」が添えられ貞享3年(1686)5月20日の大水の際に露出し、同時に8口見つかったとある。現在確認できるのは1口だけ。日光寺が所蔵。
慶野銅鐸は、南あわじ市松帆慶野北原から江戸時代末から明治時代初期にかけて中ノ御堂を開墾中に発見された。外縁付鈕1式の四区袈裟襷文銅鐸で、高さは33㎝。横帯と縦帯がお互いに貫いて交差する、縦横帯の幅が狭く斜格子文が粗い等の特徴をもつ。この型式の銅鐸は大阪府東大阪市の鬼虎川遺跡から鋳型が出土しており、中河内に拠点を置く工人集団が製作したものと考えられる。慶野組が所蔵し、洲本市立淡路文化史料館に展示。
中川原銅鐸は洲本市中川原から出土。「淡路草」には津名郡中川原村大字清水で、元禄年間に発見されたと記載されている。大阪湾側先山山地東麓の段丘面東端に位置する。菱環鈕1式で、高さは24.2㎝。鈕には鋸歯文を飾り、鐸身部には二区横帯文を施す。鰭の幅は狭く、文様ない。隆泉寺が所蔵。
古津路銅剣出土地
南あわじ市大字松帆字古津路で昭和41年水田用水路の工事中に13本発見された。発見地点は海岸の砂堆上で、現在の慶野松原の西南端。播磨灘に面する砂丘上。昭和44年に新たに1本見つかった。
慶野中ノ御堂銅鐸
銅鐸の出土地を見学する。海を見下ろす微高地で意外と地面は湿気の多い。
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海が見渡せる。
洲本市立淡路文化史料館
慶野銅鐸の実物を見学(撮影禁止なので掲載せず)
史料館玄関、元旅館だったとのことで雰囲気が残る。
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背後に洲本城(昭和3年築)が望める。
室町以降、淡路島の中心は播磨灘側の三原平野から大阪湾側の洲本平野に移る。
江戸時代、洲本は蜂須賀家筆頭家老稲田氏の城下町。
五斗長垣内遺跡
道が狭くバスが近づけないので手前から坂道を登る。
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玉ねぎを干す小屋がある。玉ねぎは淡路の名産。
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遺跡が見えてくる
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遺跡に到着
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解説を聞く。
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おもいおもいに見学。住居跡が再現されている。
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住居の天井
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遺跡全景
播磨灘が望める。
五斗長遺跡は弥生時代後期の集落遺跡。海岸から約3㎞、標高約200mの丘陵上に位置する。集落の範囲は東西約500m、南北約50m。竪穴建物が23棟、掘立柱建物4棟、溝、土坑などが検出された。竪穴建物23棟のうち12棟で鍛冶作業に関わる炉跡が確認され竪穴建物302からは19点もの鉄器が出土。板状鉄斧や鉄鏃、板状鉄片、棒状鉄片などの鉄器127点、鉄器生産に用いる砥石や敲石も出土。鉄器には鉄鏃や工具が多く、農具は認められない。板状鉄斧は朝鮮半島製の可能性が指摘されている。朝鮮から物々交換で集落を巡って淡路まで来たのではとのこと。
鍛冶に関わる遺構は、大型の建物が1~2棟と小型の建物が何棟か組み合わさる形で各時期に存在し、これらの作業場が少しずつ場所を移動しながら一定のエリアで継続し、弥生時代後期前半に始まった鍛冶作業は本遺跡が終焉を迎える弥生時代後期末まで続いた。
五斗長垣内遺跡では淡路島で2例目となるベンガラの付着した敲石が出土。もう1例の洲本市の二ツ石戎ノ前遺跡は弥生時代後期前半の集落遺跡で、赤色顔料関連遺物が多数出土。遺跡の近くから出土した中川原銅鐸の表面に赤色顔料が認められている。
五斗長垣内遺跡の北東約6㎞の舟木遺跡から弥生時代後期の鍛冶関連遺物が多数出土した。ほぼ同時期の遺跡だが明確な武器類がない。五斗長垣内遺跡と製品が異なっていた。
遺跡の説明文は会報から引用