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 今年度の遺跡旅行は5月27日、三重県亀山市と鈴鹿市を目的地とし、橿考博学芸課長・吉村和昭先生の同行と三重県埋蔵文化財センター・穂積裕昌先生の現地案内で実施されました。

 コースは亀山市歴史博物館→能褒野王塚古墳→井田川茶臼山古墳跡(車窓)→白鳥塚1号墳→鈴鹿市考古博物館→寺田山1号墳→富士山1号墳(車窓)→保子里古墳群→王塚古墳・西ノ野古墳群の予定。寺田山1号墳は大型バス進入不可等の理由により見学を省略。

 亀山市歴史博物館ではヤマトタケル終焉部分を開いた古事記写本や井田川茶臼山古墳の横穴式石室の実物大模型の展示がありました。穂積先生の説明では、井田川茶臼山古墳が6世紀の前方後円墳であり、昭和四七年に亀山歴博の発掘調査中に破壊の被害にあい、

墳丘と石室が失われました。

 次は、宮内庁からヤマトタケル陵墓に治定された能褒野王塚古墳です。この古墳と周囲の円墳群は十数年前に私が訪れた際にはなかった柵が設けられて、藪と雑木の繁茂が当時よりも著しく、穂積先生は辛うじて周堤が見える後円部側での説明でした。

 能褒野王塚古墳は墳丘長90m、奈良市内の佐紀陵山古墳を祖型とする陵山形前方後円墳です。陵山形古墳は関東から九州まで広範囲に分布し、古墳時代前期後半に編年されます。穂積先生作成資料末尾掲載の五色塚古墳も陵山形古墳なので、能褒野王塚古墳の墳形理解の参考にしてください。   

ヤマトタケルは元より実在の人物ではなく、古墳時代前期にヤマト政権の版図拡大の過程で、時期と地域の異なる複数の武人を一人の人格に具現化した伝説的存在との見方が大方の理解です。陵山形古墳の分布が前期後半の祭政上のヤマト化の拡大に対応するとの考えもまた大方の理解です。

 今回、省かれた寺田山1号墳は柄鏡形前方後円墳であり、陵山形古墳に先行する古墳時代前期中頃に編年されます。この時期には別のヤマトタケルが居たかも知れませんね。

 白鳥塚1号墳は鈴鹿川中流左岸の白鳥塚古墳群の主墳です。江戸時代後期の国学者達がヤマトタケルの陵墓説を唱えたとのこと。円墳とされていた墳形が穂積先生の説明では、平成16~17年の鈴鹿市考古博物館の調査で、墳丘長78mの帆立貝形古墳であることが判明したとのこと。

鈴鹿市考古博物館は伊勢国分寺跡の南側、考古学専門の博物館です。敷地内で昼食の後、常設展示を自由見学。同博物館が発掘調査した富士山1号墳(墳丘長約50m)を車窓見学。

 保小里古墳群は鈴鹿川右岸の河岸段丘上に約6基が現存。1号墳と2号墳が鈴鹿回生病院の駐車場南側に現存します。1号墳は極めて珍しい双円墳です。円墳2基ではないかとの質問には穂積先生から、二つの円丘が下層段を共有する双円墳との説明でした。

 鈴鹿川右岸に西ノ野古墳群が現存します。1号墳(王塚古墳)は盾形周溝を持つ墳丘長63mの後期の前方後円墳です。国史跡ですが、野放図な雑草が見苦しい。1号墳の南、林中に小規模な前方後円墳・5号墳を中心に5基の円墳が陪塚状に並んでいます。

 穂積先生の熱心なご説明と吉村先生の適切なご助言に感謝いたします。

    奈良県橿原市 原口憲次郎

亀山駅ヤマトタケル像

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能褒野王塚古墳

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能褒野王塚古墳陪塚

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能褒野神社

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白鳥津塚古墳

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鈴鹿考古館

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鈴鹿考古館にて集合写真

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保古里古墳

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