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平成30年度国内研修バス旅行『伊賀北部の古代遺跡をめぐる』
5月26日(土)
案内 :福島伸孝氏 (伊賀市教育委員会事務局文化財課)
    眞名井孝政氏(伊賀市教育委員会事務局文化財課)
    入倉徳裕副館長
見学地:辻堂古墳→鳴塚古墳→鳳凰寺(ぼうじ)跡→寺音寺(じおんじ)古墳(車窓)→大山田湖(車窓)→昼食(名阪伊賀忍者ドライブイン)→伊賀国庁跡(車窓)→勘定塚古墳→東山古墳→御旅所古墳→宮山古墳群→御墓山(みはかやま)古墳

大和八木駅

大和八木駅

満員の大型2台のバス。

名張駅で東京・名古屋からの参加者を乗せて大山田へ。

伊賀市大山田支所

伊賀市大山田支所

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伊賀市大山田支所

ご案内いただく福島先生と眞名井先生

辻堂古墳

辻堂古墳は国道163号線の北側、中村地区の服部川に向かって傾斜する段丘の裾部標高210mに所在します。墳丘は消失していますが、直径20m前後の円墳と考えられています。昭和46年(1971)農道工事中に水田の下から石室が見つかり、翌年度に大山田村教育委員会によって発掘調査がされました。今は現地に保存され、石室を見ることができます。埋葬施設は両袖式の横穴式石室です。調査時には既に天井石と側壁上半部は開墾によって失われていて、2段の石組が残存する状態でした。石室は全長9,8m、玄室は長さ約5m、幅は1,9mの長方形で、羨道の長さは4,5mを測ります。羨道部には排水溝が備えられていて、石室、羨道の床には石が敷かれています。玄室の中央奥寄りと西側袖にそれぞれ組合式石棺が据えられ、石棺に埋葬された土器の時代が2基とも同じでないことから、中央奥寄りの石棺は当初のもの、西側袖の石棺は追葬時のものと考えられています。副葬品には須恵器、土師器、鉄製品、金環、ガラス製小玉がありました。土師器類は玄室北西隅に、馬具や鉄鏃など鉄製品は奥壁や東側壁にそって多く出土していました。第一次埋葬時の土器は総数127点を数え、これらの土器は6世紀後半に位置付けられ、第二次埋葬時の土器は19点と少なく、7世紀後半に属します。伊賀国4群には玄室が5m級の横穴式石室を持つ古墳が各郡に1~2基確認されています。この古墳の被葬者は山田郡内の有力者であったことが想像されます。

辻堂古墳で解説を聞く

南西から石室

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南東から石室

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石棺2つ

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北から石室

両袖式がよくわかる

奥に見えるのは貯水槽?

石室が後の時代に灌漑農業に使われたのかも?

鳴塚古墳

鳴塚古墳がある鳳凰寺地区には76基の古墳があります。その多くは集落の東方に入りこむ山林の傾斜地や丘陵地に築造されました。鳴塚古墳は、唯一、平地に盛土をして築かれた前方部を東北東に向けた前方後円墳です。規模は全長37m、後円部径12m、前方部長16m、墳丘高2,85m、後円部高4,8mを測ります。周溝については、現在周囲が水田化されていて確認できませんが、平地築造であることや、過去に古墳西南にあった池が周溝の名残であると伝わっていることから、周溝が存在した可能性が強いとされています。石室の構造は、片袖式の横穴式石室で、南側に開口部があります。石室全長8,85m、玄室長4,45m、幅1,6mです。玄室の奥壁はほぼ垂直で持ち送りは見られませんが、側壁は緩やかな持ち送りになっていて、羨道部の天井石は1石ごとに低くなる特徴を有しています。石棺が存在したとの記録が残っていますが、現在は確認することが出来ません。出土遺物等から、6世紀前半の築造と見られ、本墳の築造を契機に横穴式石室を持った鳳凰寺古墳群が群形成していくものと想定され、服部川流域では最後に築造された前方後円墳と考えられています。出土遺物は『鳳凰寺の出土品(県指定考古資料)』の一部として鳳凰寺に伝わり、乳文鏡、須恵器(子持台付、提瓶)、玉類(硬玉製勾玉、メノウ製勾玉、碧玉製管玉)が出土しています。

鳳凰寺、鳴塚古墳へ歩く

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鳴塚古墳へ棚田の脇を歩く。

両側の丘陵には古墳群があるそうです。

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鳴塚古墳が見えてくる

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鳴塚古墳

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鳴塚古墳 集合写真拡大

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鳴塚古墳開口部

左に鳴塚と記された石碑

「天皇のご譲位がある度に塚が鳴る」という伝承から鳴塚と呼ばれている

来年は鳴るのでしょうか?

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鳴塚古墳石室

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鳳凰寺廃寺(現薬師寺)

鳳凰寺廃寺は三田廃寺(伊賀市三田)、才良廃寺(伊賀市才良)、夏見廃寺(名張市夏見)と共に伊賀地方に造られた白鳳期の官寺です。寺域一帯から白鳳様式を持つ古瓦が出土していて、礎石が残る現薬師寺本堂がある場所に鳳凰寺があったとされています。庭前の7個の石は鳳凰寺の礎石として見ることができます。

薬師寺

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鳳凰寺廃寺礎石と顕彰碑

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鳳凰寺廃寺礎石

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鳳凰寺廃寺礎石

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寺音寺古墳(車窓より)

寺音寺古墳は山田盆地の四方から見渡せる位置に、単独で造られた前方後円墳です。

現在は、後円部のほぼ中心部と考えられる部分だけが残っているだけですが、過去の地形などから前方後円墳であることが判明しています。現在の古墳の形状は、東西が約13m、南北約9mを測りますが、その周辺と前方部の大半は、水田内に畑の状態で微高地となっているのみです。しかし、当時の里道や水田畦畔の状況によって、周囲に盾形の周溝が完周していたことを窺いしることができます。これによって復元される古墳の規模は全長55m、後円部の直径は約35mで、周溝幅は18m~22mと周溝も含めた全長は約90mになります。

現状の後円丘の高さは約4m内外となり、少し高い墳丘を持つ古墳であると推定されます。

墳丘から「野焼き」の埴輪とは異なる「窖窯焼成」の円筒埴輪が見つかっており、5世紀後半以降の築造と考えられています。出土遺物については、鉄錐、刀子、佳甲小札、用途不明金具等があったようです。

寺音寺古墳遠景 右の林。

車窓から「どれ?、どれ?」と

大型バスは現地に行けないのが残念!

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寺音寺古墳墳丘(下見時撮影)

古琵琶湖(大山田湖)

今から400万年前、伊賀盆地周辺に初期の琵琶湖である「大山田湖(古琵琶湖)」が誕生しました。古琵琶湖は長い年月をかけて北上し、50万年~40万年前に現在の琵琶湖になったと考えられています。1933年9月9日、台風14号による河床掘削によって、服部川から象や鰐の足跡が発見されました。この服部川河床からは鰐の歯の化石や植物の葉の化石などは多く見つかっていましたが、足跡の化石の発見は初めてでした。象の足跡化石は最大径が約60cmで、算出年代からステゴドンの仲間で「シンシュゾウ」の足跡と見られています。鰐の足跡化石は数頭分一定方向に進んだ痕跡がありました。また、尾ずりらしき跡も残っていて、足跡からクロコダイルの仲間ではないかと?これらの化石から当時の気候が今よりも暖かい亜熱帯の気候であったと考えらます。

服部川の泥岩層

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服部川河畔に復元された象の足跡化石(下見時撮影)

400万年前の伊賀にタイムスリップ

昼食(名阪伊賀忍者ドライブイン)

昼食は『伊賀膳』

勘定塚古墳

勘定塚古墳は外山地区の北東端に位置する古墳で、墳丘封土の大半は失われていますが、横穴式石室の玄室の奥壁と側壁の一部が残存しています。墳丘は丘陵裾を馬蹄上に掘り込み封土を積み上げて構築したと考えられますが、残存状態が良好でなく、墳形・規模とも不明と言わざるを得ない状況です。石室は南に開口しており、残存部の長さは4,6m、幅3,6m、高さ2mを測ります。石室の特徴としては巨石を用いた一辺4m天井石です。またこの時期の玄室の規模としては珍しく、横幅を大きくとっています。側壁の石材は東壁と西壁と違いがあり、西壁は丸みを持った石、東壁は角張った大きな石を使用しています。側壁の積み方には若干の持ち送りが見られます。勘定塚古墳は背後にある外山・鷺棚古墳群から離れていることや、巨大な横穴式石室を有することから7世紀前半に築造された首長墓ではないかと考えられています。

佐那具駅から徒歩で勘定塚古墳へ向かう。

左の石垣上が勘定塚古墳

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わずかに残る墳丘

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勘定塚古墳石室 南東から

何度も地震にあったはずなのに、大きな一枚岩を支えている

先人の匠の技に又もや脱帽!

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勘定塚古墳石室 南から

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勘定塚古墳室 西から

小さな祠が祀られている。

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ここでバスは東山古墳を先に回る車と、宮山古墳(御旅所古墳)を先に回る車に分かれ御墓山古墳で合流。

東山古墳

東山古墳は伊賀市円徳院東山の丘陵先端に築造された古墳で、水田面との比高差は約25mと眼下を一望できる高所に位置します。中世城館の一部として利用されていたので墳形については判りませんが、長径21m、短径17mと南北に長い楕円形を呈する円墳と考えらます。墳丘に葺石や埴輪は認められませんでしたが、1986年に実施された発掘調査によると、墓壙は長さ6,9m、幅2.3mで割竹形木棺が納められていました。棺底には朱が敷かれ、四獣鏡1、銅鏃3、鉄鏃1、鉄剣1、小型高杯、小型器台1、砥石1が棺内から出土しています。副葬品の土器の形状や調整から、庄内式末から布留式初頭の土器であることがわかり、3世紀末から4世紀初めに築造された古墳ではないかと考えられています。

県道すれすれに登り口がある東山古墳

信号機も横断歩道もない県道を車が途絶えた間に猛ダッシュ!

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急な坂が続く。

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坂の上の平坦地が東山古墳跡。墳丘は残っていない。

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墳丘跡で解説を聞く。

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東山古墳から御墓山古墳方向を望む

御旅所古墳

御旅所古墳は陽夫(やぶ)多(た)神社の南側に位置する横穴式石室を有する古墳です。陽夫多神社の祭礼の際、神輿のお旅所がここにあるため、御旅所古墳と呼ばれています。石室を覆っていた土砂が失われ、巨大な天井石が露出していますが、南に開口する両袖式の石室を持つ古墳です。玄室部の長さ5m、幅2,6m、高さ2,2m以上を測り、古墳時代後期6世紀末に築造された古墳とされています。

御旅所古墳墳丘

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御旅所古墳で解説を聞く

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御旅所古墳石室

まるで石舞台!

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御旅所古墳南側開口部

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御旅所古墳北側開口部

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宮山古墳群

陽夫多神社の背後にある古墳群。

陽夫多神社で宮山古墳の解説を聞く

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宮山古墳地図

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陽夫多神社本殿から裏山の古墳群へ

宮山2号墳墳丘

横穴式石室を持つ円墳

墳丘の大きさは径20m、高さ2,5m

丘陵の先端手前を断ち切り、削った土を先端に盛り上げる省エネ工法。

宮山2号墳 石室開口部

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宮山2号墳 順に石室開口部を覗き込む

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宮山1号墳 後円部石室の石

全長42mの前方後円墳

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宮山1号墳 墳丘くびれ部

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宮山1号墳 墳丘上

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伊賀市阿山支所

伊賀市阿山支所で駐車場とトイレをお借りしました。

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御墓山古墳

御墓山古墳は墳丘全長が約188mに及び、東海地域最大の規模を誇る前方後円墳です。

大正10年(1921)に墳丘部が国の史跡となり、昭和45年(1970)に墳丘周辺が追加指定されました。上野盆地北部の南側丘陵の先端に築造されていますが、この場所は旧東海道のルート上にあることから、交通の要衝を強く意識して築造された古墳と考えられます。後円部を山側の南西に、前方部を平地側の北東に向けて配置し、全体に葺石が施され、段築は基本的に2段構成ですが、特に前方部では墳丘裾よりも下方に葺石が確認され、街道を行く人から3段築成に見えるように造られたことが特徴的です。後円部墳頂部と平地部の比高差が約8mあり、後円部の背面丘陵側には丘尾切断による馬蹄形周溝が認められています。後円部は直径約110m、前方部は全面幅約90mとなり、墳丘の高さも後円部が前方部に比べ4,5mほど高くなっています。前方部頂部には長さ約21m、幅約25mの方形壇状部があり、西側の造り出しは2段部に明瞭に認められます。墳丘は基盤層の削り出しに盛土で整形したとみられ、良好なかたちで残っています。後円部頂部には盗掘坑と思われる大きな穴が認められますが、発掘調査がされていないため、埋葬施設の構造や副葬品等は判りません。測量時の所見として埴輪の埋設が指摘されていますが、埴輪は形象埴輪(蓋形)と黒斑入りの円筒埴輪片が僅かに採集されたのみで、墳丘の形状や埴輪等の遺物の特徴から5世紀初頭に近い時期に築造されたのではないかと考えられています。

御墓山古墳墳丘

前方部から墳丘に登る

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前方部裾を巡る

自然に道が出来ている

後円部裾を巡る

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くびれ部から墳丘へ

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作り出しで解説を聞く

2段目に築造されたことが判る

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前方部から後円部に登る

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後円部墳頂で解説を聞く

皆さんの質問に先生も熱がこもる

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後円部裾で全員写真 後方は前方部

100人で集合写真

古墳の大きさが一目瞭然 集合写真拡大

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順に墳丘を下る

お疲れ様でした

福島先生、眞名井先生長い時間有難うございました

※解説文は当日配布の資料を基に作成しています