▽案内 北井利幸指導研究員
(台風にため延期して2023年1月21日に再開催)
▽集合 JR岡山駅東口桃太郎像前10:20
▽行程 JR岡山駅→岡山県古代吉備文化財センター展示施設見学(神明銅鐸見学)→高塚銅鐸出土地・高塚遺跡→神明銅鐸出土地・神明遺跡→吉備真備公園(トイレ休憩)→妹銅鐸出土地→黒宮大塚墳丘墓→宮山墳墓群(時間がなくパス)→鯉喰神社墳丘墓→楯築墳丘墓→矢藤治山墳丘墓(車窓見学)→JR岡山駅解散
9月開催の例会が台風のため延期して、1月に開催することになった。バスで岡山県の銅鐸の出土地と弥生の遺跡を巡る。
今回は岡山県内で最後に使用、埋納されたと考えられる突線鈕式2式銅鐸の高塚銅鐸と妹銅鐸(呉妹銅鐸)の出土地に加え、近年の発掘調査で出土した神明銅鐸の出土地を巡ります。そして、銅鐸埋納後に起きた社会の変化について楯築墳丘墓、黒宮大塚墳丘墓、鯉喰神社墳丘墓、矢藤治山古墳、宮山古墳から検討する。(以下説明文は会報から引用)
岡山県古代吉備文化財センター
3グループに分かれて展示施設見学。
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弥生時代吉備で祭祀に使われた特殊器台は古墳時代に埴輪に変化する。
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神明銅鐸
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高塚遺跡
高塚遺跡は岡山市高塚、現在の足守川と砂川の合流地点の北側に所在する弥生時代後期前半を中心とした集落遺跡。
竪穴建物、掘立柱建物、銅鐸埋納坑、袋状土坑、方形土坑などが見つかった。弥生時代後期初頭に集落が形成され、後期中葉になると竪穴建物の数が減少する。集落が楯築遺跡周辺に移動したと思われる。後期後半にかけて徐々に竪穴建物の数は増える。古墳時代初頭に衰退し古墳時代中期に再び竪穴建物が増加し、集落が拡大する。
銅鐸は高速道路工事の、フロヤ調査区から、高塚銅鐸(全高58㎝ 、重さ6.4㎏を測る突線鈕式2式の迷路派流水文銅鐸)と、角田調査区から高塚角田銅鐸(突線鈕式2式から3式の鐸身部の破片)1点が出土。
このほか棒状銅製品(インゴットか)や銅の材料として使われたと思われる貨泉ある。
矢喰公園で北井先生の解説を聞く。
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銅鐸は南側の高速道路建設時に出土した。
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矢喰公園は吉備津彦命の射た矢と鬼ノ城にいた鬼の温羅が投げた岩がぶつかり、ともに喰らい合い落ちたといわれる伝承がある矢喰宮がある。境内には、大小4つの矢喰岩がある。
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北には鬼ノ城が望める。鬼ノ城は大和朝廷によって築かれたとされる古代山城。
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神明遺跡・神明銅鐸
弥生時代中期から後期にかけて集落が形成され、微高地を中心に竪穴建物などの遺構が集中。神明銅鐸は全高31.6㎝、重さ1.9㎏(内面に付着した土を含む)を測る扁平鈕式古段階の四区袈裟襷文銅鐸。鈕部に流水文が描かれています。鈕に流水文を描く銅鐸は外縁付鈕1式流水文銅鐸の大阪府神於銅鐸、兵庫県桜ヶ丘2号銅鐸、突線鈕式2式の大阪府長柄銅鐸の2組3点しかないが、本鐸はこれらの銅鐸と直接的な系譜関係がないと指摘されている。
埋納坑は南から北へ張り出した微高地の先端に位置し、居住域の一角に位置し、後期前半に埋没した竪穴建物の埋土を掘り込んで鰭を上下にした状態で埋納されていた。
遺跡西側で解説を聞く。
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前方緑の屋根の付近が出土地。
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吉備真備公園
吉備真備の像が建つ。 ここからバスは東へUターン。
公園の西1kmの斜面で1699(元禄12)年、石櫃から銅製骨蔵器が発見された。骨蔵器は、身の口径12cm、高さ15.8cm、蓋の径24.7cm、高さ8.8cm。蓋の銘文から、下道朝臣圀勝・圀依が708年(和銅1)に母を火葬して納骨したことが判明した。下道朝臣圀勝は、吉備真備の父で、圀依は真備の叔父、被葬者は真備の祖母にあたる。骨蔵器が出土した墳墓は下道氏の墓であることが判明し、「下道氏墓」として1923年(大正12)に国の史跡に指定された。骨蔵器は圀勝寺の寺宝として保管され、国の重要文化財に指定されている。
ちなみに、真備の母、楊貴氏墓誌は奈良県五條市で見つかっている。
妹銅鐸(呉妹銅鐸)
全高48.3㎝ 、重さ4.681㎏を測る突線鈕式2式の迷路派流水文銅鐸。鐸身部は突線で6つに区切られる。
銅鐸が発見された場所は、小田川に北から流れ込む大武谷川が形成した扇状地に立地する蓮池尻遺跡で、本鐸の発見場所は集落想定範囲の北端。埋納坑は不明。
車窓から出土地を遠望。出土地は前方奥の竹林付近。
黒宮大塚墳丘墓
南に向かって延びる丘陵先端に所在。墳頂部に神社が建てられています。全長60mの前方後方墳と捉える説もあるが、一辺30m程度の方墳と考えられる。
墳頂部の北西よりの竪穴式石槨からは勾玉、管玉が、墳丘からは特殊器台、特殊壺、台付直口壺、高坏などが出土した。土器類は80個体以上見つかっています。連続文様が描かれていないことから立坂型の中でも古い一群。
バスを降りて熊野神社の長い石段を登る。
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熊野神社社殿の隣、八幡神社の階段を上る。
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八幡神社社殿の横に覆い屋の下に竪穴式石槨がある。
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鯉喰神社へ向かう。
作山古墳を通過。
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車窓から備中国分寺塔を望む。
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造山古墳を通過。
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鯉喰神社墳丘墓
楯築墳丘墓から北西約700m 。東西約40m、南北約32m、高さ約4m強の長方形を呈する墳丘墓。現在、墳頂部、鯉喰神社の1916(大正5)年の拝殿の改築の際に南北に長い竪穴式石槨が2基並んで認められたと言われる。発掘未調査。
測量調査などの際に向木見型特殊器台、特殊壺、高坏、台付直口壺、甕などが採集された。楯築墳丘墓の2点しか知られていない、当地域の首長のシンボルの一つ弧帯文石の破片が発見され本墳丘墓が楯築墳丘墓の次の首長墓である可能性が高くなった。
吉備津彦に敗れた温羅は川へ鯉となって逃れ、吉備津彦は鵜となり、この鯉を捕食した。という伝説を祭るため鯉喰神社を建立したという。大正6年に楯築神社を合祀した。
鯉喰神社墳丘(北東から)
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鯉喰神社墳丘(南東から)
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鯉喰神社から楯築遺跡を望む。
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楯築墳丘墓
足守川右岸、西山丘陵の楯築山の頂部に所在。発掘調査前は楯築神社が建てられていた。直径49mの円丘部の両端に突出部を設ける双方中円形で、推定全長83m。墳丘の斜面には二重の列石が巡り、その間には円礫が敷かれる。墳頂部には円礫が敷かれ、6基の立石と大柱遺構、木柱、建物が設けられ、中心の埋葬施設は木槨木棺で玉類、鉄剣を副葬。
中心の埋葬施設上に形成された円礫堆から弧帯文石や土製玉類、人形土製品、特殊器台をはじめとする多量の土器など葬送祭祀に用いられた遺物が出土。
特殊器台は1m を超える大型品で、縦分割文様が描かれている。
弧帯文石は2点あり、一点は円礫堆から破片化して出土したもので長さ56.9㎝ 、幅32.4㎝ 、高さ17.7㎝。弧帯文石は接合され、全体が復元されている。
もう一点は楯築神社のご神体として伝世したもので、長さ89.3㎝、幅91.9㎝、高さ36.2㎝。全体に帯状の文様が表現され、側面に人物の顔と思われる表現がり人を緊縛した表現と考えられます。出土弧帯石は円礫堆から出土したことから特殊器台や各種土器類、人形土製品、土製玉類などとともに葬送祭祀の中で使用されたものと考えられます。
楯築遺跡北東側突出部
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列石の間で解説を聞く。
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鯉喰神社方面を望む。
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楯築神社のご神体として伝世した弧帯文石。
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楯築遺跡の南側は王墓山向山古墳群。
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今回見学した埋納状況の明らかな銅鐸はいずれも集落・居住域に隣接する場所に埋納されていました。これまで見学してきた銅鐸出土地の多くは丘陵の中腹や川辺、海辺など集落・居住域から少し離れたところでした。やや異なる傾向を示しています。岡山県南部の地域的特徴と考えられます。
銅鐸の埋納後、楯築墳丘墓が造営されるまでの間、つまり弥生時代後期前半から後半にかけて足守川下流域において集落の再編が行われた可能性が指摘されている。
弥生時代後期中葉を境に竪穴建物が激減する集落と激増する集落があり、いくつかの集落が改編・統合されたと考えられ、この動向と楯築墳丘墓の成立が連動していると指摘されている。高塚銅鐸はこうした動向の中で不要と判断され、埋納された可能性がある。銅鐸祭祀の終焉は特殊器台、特殊壺などを用いた祭祀の成立と密接に関係していると考えられる。