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▽日時 12月18日(日)午前十時
▽案内 吉村和昭学芸課長
▽集合 石清水八幡宮参道ケーブル ケーブル八幡宮山上駅
▽解散 JR学研都市線松井山手駅
▽行程 ケーブル八幡宮山上駅→石清水八幡宮→松花堂跡→石不動古墳(遠望)→さくら近隣公園(昼食)→西車塚古墳・八角堂→東車塚古墳→ヒル塚古墳→狐谷横穴墓群→美濃山王塚古墳→女谷・荒坂横穴墓群→松井横穴墓群→JR松井山手駅(解散)

京阪岩清水八幡宮駅からケーブルで山上へ

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石清水八幡宮

平安時代初期の貞観元年(859)、奈良の大安寺の僧である行教が宇佐八幡宮に籠もって祈祷する中で神託を受け、翌二年にこの地に八幡宮を勧請して社殿が造営されたのがはじまりです。大分県の宇佐神宮、福岡の筥崎宮(あるいは鎌倉の鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮と称されます。

 祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯比売(神功皇后)・比女咩大神(ひめおおかみ)の三神です。神社造営前、この地には石清水寺がありましたが、勧請後、護国寺と名を変えて神宮寺となりました。明治初年の廃仏毀釈により、多くの堂宇は解体されました。なお、明治2年(1869)から大正7年(1918)の間、男山八幡宮と改称されていました。

八幡造の本殿、幣殿、舞殿、東門、西門、廻廊、楼門など10棟が国宝に指定され、その他、境内の多くの建物が重要文化財に指定されています。

岩清水八幡宮南門

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岩清水八幡宮本殿

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岩清水八幡宮 信長塀

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松花堂跡

 表参道に合流する手前には松花堂跡があります。これは江戸時代初期の僧で、茶人であり、画家であり、書家(「寛永の三筆」と称される)の松花堂昭乗が晩年の寛永14年(1637)に営んだ庵、松花堂の跡です。堂自体は神仏分離により、明治24年(1891)に現在、松花堂庭園・美術館の位置に移築され残されています。跡地は発掘調査がおこなわれ、松花堂の痕跡、露地庭と2棟の建物が検出されています。

岩清水八幡宮 松花堂跡

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石不動古墳

 石清水八幡宮が鎮座する男山丘陵主丘のすぐ南の支丘上(標高約90m)にNTTの大きな鉄塔がみえます。この位置に全長約75mの前方後円墳、石不動古墳があります。後円部を西、前方部を東に向けて築造されています。昭和18年(1943)に山荘工事で遺物が出土した(後述の南の粘土槨の遺物)ことから、京都大学考古学教室の小林行雄らによって調査がおこなわれました。墳丘には葺石、(間隔を開けた)円筒埴輪列があり、後円部上には墳丘主軸に沿った南北二つの粘土槨が認められました。北槨がやや大きく、位置も後円部中央にあります。

南槨からは、画文帯神獣鏡、石釧3、碧玉製管玉40、棗玉29、小玉、刀1、剣1、刀子多数、鉄斧、長方板革綴短甲などが出土しました。一方、北槨には、玉類、鉄斧、鉄鏃、刀子、鉇などがありました。

ところで、山城南部から大和北部にかけて、大正3年から5年に大規模な盗掘がおこなわれて大事件となったことは前回(令和3年5月例会)、興戸一号墳の項で触れましたが、この古墳も大正4年(1915)に盗掘被害を受けていて、奈良国立博物館には本墳出土と考えられる画文帯環状乳神獣鏡があります。築造時期は、南槨が中期初め頃、後円部中心にある北槨がそれよりややさかのぼるものとみられます。

 すでに宅地開発により破壊されていますが、石不動古墳の南南西約700mに、全長約500mの前方後方墳である八幡茶臼塚古墳があります。大正4年(1915)の発掘調査では後円部の竪穴式石室より石釧2、刀、鉄鏃が出土しています。また、石室内には阿蘇溶結凝灰岩製の舟形石棺が置かれていました。石棺は現在、京都大学総合博物館敷地に置かれています。築造時期は石不動古墳に先行する前期後半と考えられます。

鉄塔の下に石不動古墳がある。

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西車塚古墳

 西車塚古墳は後円部を南、前方部を北に置く全長115mの前方後円墳です。現在、後円部上に建つ八角堂は、もとは石清水八幡宮境内に建っていました。元禄11年(1698) に再興されたものが神仏分離にともない、明治3年(1870)に移築されました。本尊は阿弥陀如来です。古墳は明治36年(1903)、八角院の庭工事の際、竪穴式石室が露出し、中から鏡5面(三角縁唐草文帯二神二獣鏡、画文帯環状乳四神四獣鏡、盤龍鏡、方格規矩四神鏡、六獣形鏡)、勾玉(硬玉製一、滑石製三、瑪瑙製七)、碧玉製管玉122、ガラス小玉71、水晶製丸玉1、いずれも碧玉製の腕輪形石製品(鍬形石2、車輪石10、石釧3)、合子、鉄剣、鉄刀が出土しました。これらの多くは東京国立博物館に収蔵されています。

西車塚古墳墳丘(南から)

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西車塚古墳後円部にある六角堂前で説明を聞く

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東車塚古墳

 東高野街道を挟んで東にある東車塚古墳は主軸を西車塚古墳とほぼ同じくする前方後円墳です。墳丘は大きく崩れ、原形を留めていませんが、全長は約94mと推定されます。現在は松花堂庭園・美術館の敷地内で、後円部は庭園の築山となっています(大正年間、個人の別荘の庭であった段階から)。

 大正年間、現地を観察した人物の証言によれば、墳丘には葺石、一重の円筒埴輪列があり、後円部・前方部にそれぞれ埋葬主体があったとのことです。後円部主体部は粘土槨と見られ、中からは鏡三面(長宜子孫内行花文鏡、六神獣鏡、 龍鏡)、硬玉製勾玉2、素環頭大刀3、直刀、剣、鉄鏃、甲冑(革綴短甲)、斧が出土しています。一方、前方部主体部は木棺直葬とみられ、三角縁尚方作二神二獣鏡が含まれていました。築造時期は西車塚古墳が先行し、東車塚古墳がこれに続き、前期末〜中期初頭と考えられます。

東車塚古墳墳丘

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築山となっている東車塚古墳後円部

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ヒル塚古墳

 松花堂庭園・美術館前をまず東へ進みます。男山丘陵の東斜面から低地部に降ります。さらに右折して府道735号線を南東に進むと国道一号線と交差します。ヒル塚古墳はその手前左隅の位置にありました(消滅)。古墳は男山丘陵端部の台地上に位置します。平成元年(1989)に発掘調査がおこなわれました。

 一辺52m、高さ7.5mの三段築成の方墳で、葺石があり、各段に鰭付きを含む円筒埴輪がたてられていました。中心主体部である第一主体部は、長辺12m、深さ3.5mの墓壙をもつ粘土槨で、推定の長さ7m、径80㎝の割竹形木棺が置かれていました。大きく盗掘を蒙っていましたが、副葬品は槍、刀、剣、朝鮮半島東南部起源の渦巻飾付鉄柄剣、鉄鏃、工

具(針)で、すべて棺外粘土床からの出土です。

 第二主体部は、長さ8m、幅4.5mの墓壙をもつ粘土槨で、長さ約5m、外径60㎝の割竹形木棺が内蔵されていました。盗掘を受けていません。副葬品はすべて両小口外側におかれ、北側(頭側)では、鏡(方格規矩鳥文鏡、鏡片)、剣、短剣が、南側では 短剣、鉇、鉄斧、直刃鎌、鋤・鍬刃先、蕨手刀子が置かれていました。また、ほかに埴輪円筒棺2基がありました。前期末の築造です。

ヒル塚古墳跡

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狐谷横穴墓群

 石清水八幡宮などが位置する男山丘陵は、広義で生駒山系から北へ続く、丘陵地の一部をなしていますが、本日のコースにある古墳、横穴墓は基本的にみなその丘陵部に立地し

ています。

 狐谷横穴墓群は現在までに11基の存在が知られています。京都府立八幡南高等学校(現在は府立八幡高校と合併し、京都府立京都八幡高校南キャンパスとなっています)の建設にともない調査されています。丘陵南斜面で9基の横穴墓が検出され、そのうち2号〜9号墓の8基が調査されました

調査後、これらは保存されました。今回は敷地外南西の里道から眺めますが、グランドの一角の削られずに周りを石垣で囲った高まりがその場所です。

 4・6・9号墓が完存していました。基本的に方形(長台形)、無袖の玄室に墓道が取り付く構造をもちます。玄室長は5・6号墓が5m台、その他は3m台です。墓道の長さは5m弱〜6m台ですが、8号墓では8mを超えます。副葬品は、土器類が2〜8号墓から出土しており、二号墓からは加えて金環一、鉄刀、鉄小刀が、四号墓からは金環二、鉄鏃二が出土しています。なお、9号墓には土器類がなく、金環1、鉄刀1のみです。築造時期は2・6号墓が6世紀後葉、それ以外が6世紀末〜7世紀初めです。

狐谷横穴群

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美濃山王塚古墳

 宝寿院の裏手に美濃山王塚古墳があります。長く、径60m程の円墳とみられていましたが、平成20年の調査により、80mにおよぶ帆立貝式前方後円墳であることが判明しました。大正4年(1915)の調査では、粘土槨より、長方板・三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑、頸甲などの武具、鉄鏃、農工具などが出土しています。中期前葉の築造と考えられます。

 神田孝平による張込帳「東堂雑集二」には、「天保六乙未四月城州八幡みの山掘出古鏡」として12面の鏡と銅鏃が掲載されているとのことで、同地に王塚古墳に以外に該当する古墳が認められないことから、これらも本墳から出土したものと考えられています。

美濃山王塚古墳墳丘

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美濃山王塚古墳墳丘

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女坂・荒坂横穴墓群

 もと来た坂を下り、さらに南西に向かいます。目の前に第二京阪道路が見えてきます。まさにこの位置で、女坂・荒坂横穴墓群が調査されました。

当初、女坂と荒坂それぞれ別の群と考えられてきましたが、現在では一つの横穴墓群であると認識され、その総数は300基に及ぶことがあきらかにされています。この横穴墓群については、荒坂において数基開口していることが大正年間に早くも紹介され、実測図も呈示されています(梅原1920)。平成12年〜14年( 2000〜2002)には第2京阪道路の建設にともない大規模な調査がおこなわれ、52基の横穴墓が検出され、さらにその後も五次にわたり調査がおこなわれました(10〜14次調査)。

 その分布は、女谷でA〜D群の四群、荒坂でA〜Cの三群の支群に分かれます。造墓はまず6世紀後葉に荒坂B支群ではじまります。そのほかの支群では6世紀末〜7世紀初頭に築造がはじまります。ほとんどの横穴墓は7世紀後葉までに築造されます。玄室の形状は大半が方形を呈します。袖は無いもの、緩く両袖をもつものが認められます。天井形態は、わかるものではアーチ形が多く認められます。埋葬施設を持たないものが大半を占めますが、なかには組合式石棺をもつももの、釘の存在から木棺の使用が想定されるもの、礫床を持つものもみられます。ただし、時期的な偏在は認められません。

 副葬品の多くは土器類ですが、階層性の上位は刀や鉄鏃の武器類です。なお、女谷B支群

18号墓では胡籙が、同D支群3号墓では馬具とみられる金属製品が出土しています。

女坂・荒坂横穴墓群跡で説明を聞く

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松井横穴墓群

松井横穴墓群はこの地域の横穴墓で最初に存在があきらかとなったものです。大正元年(1912)には、4群(甲〜丁)20基の分布が認められることが報告されています。今回訪れるのは、来迎寺西側の丘陵斜面に分布する一群(乙の5基)です。ここまで記したように、この地域には多くの横穴墓が存在しますが、実際に開口している状態を見学できるところはこの場所以外ほとんどありません。

 一方、大正の分布調査の丙・丁群にあたる区域は新名神高速道路の建設にともなって2012〜2015年まで調査がおこなわれました。81基の分布が確認され、70基の調査がおこなわれました。群全体では300〜400基の存在が予想されています。

 この調査ではA〜Dの四群の支群(墓域)が認められます。6世紀後葉にその造営が開始され、6世紀末〜7世紀初頭がその最盛期で、7世紀中葉まで造墓が続いています。6世紀後葉に造墓が始まるのは墓群の中央域(C群)で、67・71・72号墓がそれにあたります。

 玄室の平面形態はいずれもほぼ方形で、袖は無いもの、両袖(多くは緩い袖)のものがあり、天井形態のわかるものの大半はアーチ状を呈します。埋葬施設を持たないものが大半ですが、陶棺と木棺をもつもの一基、木棺3基、礫床を持つもの8基が認められます。副葬品は土器類が主体ですが、その階層性は武器類が上位であり、鉄刀・鉄剣をもつもの、次いで鉄鏃をもつものです。

 さて、この地域に築造される横穴墓の被葬者について、南九州から移配された隼人であるとの説がかつては盛んに唱えられました。その根拠は、室町時代、隼人正であった中原康富の日記『康富記』の記述に、山城国大住郷(現在の京田辺市大住付近)が隼人司領であることが記され、これによりこの地が古代において、南九州の隼人が移配された土地であることがわかるからであり、また、『正倉院文書』には、八六名の隼人の名が記された計帳の断簡、いわゆる「隼人計帳」があり、永らく国郡未詳とされてきましたが、西田直二郎によって、山城国大住郷のものであることが確定しました(『洛南大住村史』)。この成果を踏まえて、この地に集中する横穴墓と隼人の関連が説かれるようになり、この地域の横穴墓の中に、羨道が緩く下降するものがあることが傍証とされ、さらに京田辺市堀切七号墳の直弧文の刺青をした人物埴輪も同じ文脈で語られることがありました。しかしながら、隼人の畿内への移配は天武朝(7世紀後葉)以降のことで、横穴墓の築造年代までさかのぼることはできず、その被葬者が隼人であるとの根拠とはなりません。

松井横穴墓群へ

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松井横穴墓群

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松井横穴墓群

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