▽日時 11月20日(日)10時集合
▽案内 青柳泰介学芸係長
▽集合 JR桜井線帯解駅
▽行程 JR帯解駅→ベンショ古墳→柴屋丸山古墳→八嶋陵前古墳→帯解狐塚古墳→円照寺(入場不可トイレ休憩)→大川池周辺【昼食】→五ツ塚古墳群→シズカ塚古墳→帯解黄金塚古墳→栗塚・割塚古墳→JR帯解駅
(説明分は会報より引用)
帯解(大宅)地域
「弥生時代の山町銅鐸が出土。山町銅鐸は2~3世紀の流水文銅鐸で高さは43.7cm、奈良国立博物館に所蔵されている。石上1号銅鐸と類型。
古墳時代前期には、菩提仙川沿いで古墳は栗塚・割塚古墳が築造され、古墳時代中期になり、ベンショ古墳、柴屋丸山古墳、シズカ塚古墳が現れ、後期には八嶋陵前古墳、帯解狐塚古墳、五ツ塚古墳群や円照寺山門脇古墳群、大川池塚古墳、円照寺墓山古墳群、七ツ塚古墳群、中之庄上ノ山古墳が円照寺と山町の丘陵を中心に展開しますが、いずれの時期にも集落は確認されていません。
古代になると、山町の丘陵の南斜面に終末期の帯解黄金塚古墳が、円照寺の丘陵の南裾にトドコロ廃寺、塔の杜廃寺が造営され、ようやく集落として中之庄上ノ山古墳周辺(奈良東病院付近)で上ノ口遺跡が確認できるようになります。そこでは掘立柱建物や井戸が検出され、帯解黄金塚古墳との関係も想定されています。
今回のコースでは古墳時代中期〜古代にかけての古墳を中心に見ていくことになります。」
ベンショ塚古墳
「山町の丘陵から西北へのびる微高地にある全長約70m の東西主軸の前方後円墳。前方部は工場の資材置き場となっている。東側の後円部は頂上に神社があったためよく残っています。
後円部頂の平坦面は、中期古墳らしくこぢんまりとしており、中央に社殿が位置しています。その社殿の下には3基の埋葬施設が確認されています。
第1埋葬施設は、社殿の真下に位置しているため内容は不明ですが、3基中最初に構築され、かつ最大の埋葬施設になります。副葬品も攪乱のため詳細は不明ですが、甲冑片、鉄鏃、鉄鎌、ガラス丸玉、管玉が該当する可能性があります。なお、このガラス丸玉は、5世紀末に帰属する可能性があり、ほかの副葬品とは時期的な隔たりがありますので、もう一つ埋葬施設(第4?)が存在した可能性も考えられます。
第2埋葬施設は、社殿の南側で確認された東西主軸で全長約3.5mの割竹形木棺をおさめた粘土槨です。副葬品として、革盾、甲冑、馬具、工具、針状鉄器、ガラス小玉、大型砥石が出土しました。
第3埋葬施設は、社殿の東側で確認された南北主軸で残存長1mの割竹形木棺をおさめた粘土槨です。副葬品として、針状鉄器、玉類、紡錘車形模造品、有孔円板が出土しました。
それ以外に、墳丘からは埴輪片や土器片が出土しています。その須恵器片よりTK216型式期(5世紀中頃)の年代が想定されます。
後円部頂からは北方に若草山、西方に生駒山〜二上山が見えますが、南方は山町丘陵が視界を遮断しています。」
ベンショ塚古墳墳丘(右が前方部)神社社殿の下が第1主体部
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ベンショ塚古墳南側の第2主体部
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ベンショ塚古墳西側の第3主体部
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北方に若草山が見える
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柴屋丸山古墳跡
「ベンショ塚古墳から国道へ戻り、国道を北上すると、右手に柴屋丸山古墳の残骸が見えてきます。今は円形の跡地になっていますが、かつては径32m、高さ6mの円墳が存在していました。埋葬施設の詳細は不明ですが、土取り中に木棺の痕跡を確認し、その形状から割竹形木棺が存在した可能性が想定されます。副葬品には、銅鏡片、ガラス製勾玉、銀釧片、鉄刀、短甲片、鹿角装刀子、鉄鏃、鉄鉾、鉄製鉸具などが確認されました。ベンショ塚古墳に後続する古墳時代中期(5世紀後半)の年代が考えられます。」
円形の畔が柴屋丸山古墳跡
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祟道天皇陵(八嶋陵前古墳)
「祟道天皇は桓武天皇の皇太弟早良親王で、桓武天皇の計略により非業の死をとげましたので、古代の祟り神の一人として有名です。のちに祟道天皇号を追贈されました。奈良市東南部の八嶋の地に最終的に葬られたといわれており、宮内庁は現在地を陵墓に治定しています。ちなみに、この周囲の帯解の地には、祟道天皇を祀る御霊神社が点在しています。
この天皇陵の南側の道路内には、横穴式石室の残骸と思しき石材がかたまっています。墳形や詳細は不明ですが、南側に開口する全長7m以上の規模の石室になると思われます。時期は6世紀代になると思われます。」
八嶋陵前古墳
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帯解狐塚古墳
「径6m以上の円墳で、全長約8mの横穴式石室が残存しています。石室内からは須恵器、土師器、馬具、鉄鏃、鉄釘などが出土しました。時期は6世紀後半になります。現状では奥壁が抜き取られています。」
交代で帯解狐塚古墳墳丘へ
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帯解狐塚古墳石室
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円照寺でトイレ休憩後、大川池で昼食
「円照寺の墓地の周囲に円照寺墓山古墳群が展開しています。円墳からなり、5世紀代の甲冑が出土する古墳2基(1号墳、2号墳)と6世紀代の横穴式石室墳一基(3号墳)が確認されています。特に、5世紀代の古墳は、ベンショ塚古墳に後続する古墳です。
また、その東奥には七ツ塚古墳群やドドコロ廃寺があります。七ツ塚古墳群は、かつては6、7基からなっていたようですが、現状では5基しか確認できません。いずれも横穴式石室を内包する円墳です。ドドコロ(堂所)廃寺は、前の当館の常設展示に出ていた石造相輪が出土したことで知られています。別名山村廃寺とも呼ばれています。
また、円照寺東方の丘陵南斜面には天神山古墳とよばれる石棺が出土した場所があります。」
ドドコロ廃寺は、かつて例会で訪問したことがあるが、現在は鉄条網で覆われ、笹が生い茂っていた。
円照寺の紅葉(トイレ休憩)
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大川池の中の大川池塚古墳
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大川池塚古墳と東南方の竹藪内は山町銅鐸が出土地
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五ツ塚古墳群
円照寺と同じ丘陵の南裾に並んだ5基の古墳群です。円墳3基とその間に挟まれた方墳2基から成ります。
西側から1号墳、2号墳、3号墳、4号墳、5号墳になります。1、5号墳以外は、横穴式石室が良好な状態で見学できましたが、阪神淡路大震災の時に危険だと判断されて、現在は内部の見学できません。
石室形態から1、3、5号墳(円墳)→2、4号墳(方墳)の変遷が想定され、時期は6世紀後半〜7世紀と想定されています。
五ツ塚古墳群1号墳
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五ツ塚古墳群2、3号墳
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五ツ塚古墳群4、5号墳
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御霊神社
五ツ塚古墳群から谷筋を西へ下っていくと、右手に御霊神社が見えてきます。現在、その境内にある石碑周辺では礎石が積み上げられており、このあたりが塔ノ宮廃寺になります。「大宅寺」の有力な候補地です。
御霊神社の社叢
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シズカ塚古墳
「段築をもつ径約20mの円墳になる可能性が、ベンショ塚古墳の発掘調査報告書で指摘されています。なお、同書ではその段築にはかつて埴輪列がめぐっていたようで、円筒埴輪や朝顔形埴輪などが表採されています。それらの埴輪を観察すると、柴屋丸山古墳同様、
ベンショ塚古墳に後続する5世紀後半と想定されています。」
シズカ塚古墳墳丘(南から)
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帯解黄金塚古墳
「宮内庁が管理する陵墓参考地です。一辺約30mの三段築成の方墳で、埋葬施設は全長12.5m以上の複室構造の横穴式磚室になります。石材には榛原石を用いています。そのような磚室は桜井市の舞谷古墳群などでみられますが、この周辺ではみられない特殊な埋葬施設です。
また、周囲にはコの字形の外堤がめぐります。東西約120m、南北約65m の範囲で、幅約15〜20m、高さ約4mの規模であったと想定されますが、現状では分断されています。
なお、墳丘の周囲には裾に石列と石敷がめぐるようです。
墳丘裾で出土した須恵器杯蓋片から、築造時期は、7世紀中頃と想定されます。
また、東側の外堤上には墳形不明の田中古墳があります。安山岩製の組み合わせ式石棺が出土しています。」
帯解黄金塚古墳墳丘
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帯解黄金塚古墳外堤で説明を聞く
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田中古墳
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「少し戻って丘陵上を東へ進み、病院のあるところで南側の谷筋へ下っていきます。
その途中の南斜面には中之庄上ノ山古墳をはじめ、古墳時代後期の小規模な古墳が点在するようです。特に、中之庄上ノ山古墳は大部分を削平されていますが、全長34m以上の前方後円墳になるようです。須恵器や埴輪が多数出土し、年代のわかる貴重な事例になります。山町丘陵を下りると、正面の丘陵がワニ氏の本拠地の和爾丘陵、その奥が東大寺山丘陵になります。進路を左にとると、谷の奥に見えている山なみの向こう側が田原地域になります。その谷奥に向かってしばらく行くと、右手に栗塚古墳・割塚古墳が見えてきます。」
割塚古墳と栗塚古墳
割塚古墳は30mの円墳、栗塚古墳は全長約100mの前方後円墳。
「いずれも4世紀代になると想定されていますが、確たる根拠はないようです。これらの古墳は、帯解地域の古墳というよりも和爾地域に属すると考えます。」
割塚古墳
すぐ南に菩提仙川が流れ、前回の青柳先生の例会で訪問した、大型建物跡が望める。
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栗塚古墳(右が前方部)
奥の山の北をたどれば正暦寺から田原へ至る。
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「ワニ氏は木材生産と流通を掌握しようと目論んだと考えましたが、前回と今回の例会を通じて、ワニ氏は河内(生駒山)―田原(木材生産地)を結ぶ交通路(菩提仙川沿い)を重視し、集落域と墓域を配置したことがわかったのではないでしょうか?特に、菩提仙川流域から南を望むと、手前に和爾丘陵(集落域)、その奥に東大寺山丘陵(墓域)が望めますので、河内―田原を行き交った人たちは、本拠地の状況を立体的に把握できたと思います。大型建物の存在は象徴的であり、このルート以外ではそれらを視認できません。
なお、今回歩いた帯解(大宅)地域は、ワニ氏の本拠地である和爾地域の北側に隣接しますが、山町丘陵に遮断されて視認できません。一方、北方の春日地域はよく見渡せますので、東・南紀寺遺跡〜大安寺古墳群は視認できる関係にあります。」