▽日時 7月17日(日)10時集合
▽案内 伊東菜々子技師
▽集合 奈良県文化会館(近鉄奈良駅から東へ徒歩5分)
▽行程 奈良県文化会館前集合→奈良女子大学→聖武天皇陵→多聞城跡→北山十八間戸→旧奈良監獄→奈良豆比古神社→元明天皇陵→元正天皇陵→那富山墓→黒髪山稲荷神社→興福院→狭岡神社
以下会報を転載
はじめに―佐保路―
佐保路とは、東大寺転害門から一条通を西へ行く、法華寺までのエリア一帯を指します。あまりメジャーではないかもしれませんが、転害門の別称は「佐保路門」といいます。この古代の道を歩きながら、古墳や神社から近代建築に至るまでを回る盛りだくさんのコースです。なかでも、とくに例会のタイトルにもまつわる佐穂姫(第11代垂仁天皇皇后)ゆかりの地を巡ります。「さほ」に思いを馳せながら歩いてみてはいかがでしょうか。」
奈良県文化会館集合
伊東先生の初めての例会。
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奈良女子大学
奈良女子大学は明治四一年(1908)に奈良女子高等師範学校として創立されたのが始まりです。明治四二年(1909)竣工の旧本館(現在の記念館)、正門及び守衛室が創立当時のもので、国の重要文化財に指定されています。
大学の位置は奈良時代には平城京左京(外京)二条六坊五坪・十一坪・十三坪・十四坪、同二条七坊三坪・四坪・五坪・六坪にあたります。また平城京廃絶後も興福寺周縁部として継続的に発展してきたことが、発掘調査によってわかっています。中世前期においては、遺構から瓦器椀や土師器皿などが出土しており、身分の低い僧侶と彼らに関係する集団が居住していたことが推定されます。とくに、大学構内の西端、旧左京二条六坊五坪にあたる北小路町では、火災を受けて赤変した大量の瓦・壁材・土器が堆積した状態で出土しました。瓦は巴文(二つ巴)の軒丸瓦や半裁花文、花菱文の軒平瓦などで、年代は平安時代末と考えられ、当時の大伽藍に使用された標準的な軒瓦よりもやや小さいため小規模な堂宇に用いられたと考えられます。さらに、伴出した瓦器の年代から火災に遭ったのは12世紀後半とされ、治承四年(1180)の平氏による南都焼き討ちが想起されます。
江戸時代には、この土地は奈良奉行所でした。残念ながら削平により遺構は残っていませんが、「和州奈良之絵図」をはじめ地図史料から詳細を知ることができます。東西151m、南北144mの敷地で、幅11.5~17mの堀が巡り、北側の堀の発掘調査では江戸時代初頭の陶磁器類が多く出土しています。当時幕府の直轄地のうち重要な場所には遠国奉行が置かれ、その土地の政務を取り扱いました。関ヶ原合戦後、徳川家康は大久保長安を大和代官として奈良を治めさせ、慶長八年(1603)に方形の堀を巡らせた奉行所が建設され、慶長一八年(1613)に中坊秀政が奈良奉行として任じられます。
奈良女子大学正門 創立当時のもので、国の重要文化財。
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◆奈良女のシカはオスばかり?◆
女子大は奈良公園の一部といっても過言ではない…ほどに、鹿がキャンパスに入ってきます。これは私(伊東先生)が授業で聞いた話ですが、奈良女に来る鹿は男鹿どうしのたたかいに負けた「マケ鹿」だとか。鹿にはハーレムをつくる習性があり、勝ち組の男鹿から追いやられた鹿が奈良女に入ってくるという、学内での通説があります。
奈良女子大学構内の鹿。確かに小さな角がみえる若い雄。(2011年2月例会で撮影)
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聖武天皇陵
女子大正門前の道を北上すると、一条通に出たところで陵墓の参道につきあたります。正面が聖武天皇陵である佐保南陵で、参道を右手奥へ進むと光明皇后陵の佐保東陵があらわれます。『続日本紀』によると聖武天皇は天平勝宝八歳(756)崩御、光明皇后は天平宝字四年(760)崩御、藤原宮子は天平勝宝六年(754)崩御で、陵墓はすべて佐保山陵としか記されていません。宮子、さらに不比等の陵墓もこの近辺に存在する可能性が高いと考えられています。
戦国時代には松永久秀の多聞城に組み込まれ、江戸時代には眉間寺がありました。天皇陵西側に眉間寺の礎石が集められています。
聖武天皇陵参道
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聖武天皇陵西側の眉間寺の碑と礎石群(今回は見学せず)
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◆謝罪を受ける天皇陵◆
治承四年(1181)に平重衡による南都焼き討ちによって大仏殿が焼失しました。そこで寿永二年(1183)に朝廷が使者を立て、聖武天皇陵に対して大仏焼損を謝罪するとともに、再建を約束したと伝わります。
聖武天皇陵
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多聞城跡
多聞山城ともいわれるこの城は、戦国大名・三好長慶の家臣である松永久秀によって築かれました。大和の一国支配を目指し築城されたのは多聞山と呼ばれる高さ113mほどの小高い山で、北側は険しい崖、南側はゆるやかな傾斜地であり、その南を東西に流れる佐保川が濠の役割を果たしました。寺社勢力が強かった南都の地で初めての本格的な武家支配となったこの城は、興福寺や東大寺を含めた南都の町をよく見下ろすことのできる場所に建てられました。
城跡の発掘調査は昭和二三年(1948)と昭和五八年(1983)の二回行われています。一回目は奈良市立若草中学校造成に伴う調査で、城郭が造られる以前に丘陵が墓地として利用されていたことがわかりましたが、この造成工事のために城跡のほとんどが削平されてしまいました。工事前の多聞城の略測図、出土した蔵骨器や瓦類など貴重な資料が今に残っています。2回目の調査は若草中学校改築に伴う事前調査で、中学校敷地の西側部分を調査区としました。しかし、発掘区はすでに地山まで削平されており、旧校舎の基礎、それから発掘区南端で丘陵の旧南斜面を検出したのみでした。旧斜面は中学造成時に土砂で埋められ、埋土からは城以前の墓地の遺物と考えられる五輪塔空風輪、墨書銘のある土師器羽釜片、火葬骨や、城に用いられたと考えられる軒平瓦や鉄釘が出土しました。
◆城用としてつくられた最初の瓦か◆
多聞城跡からは隅軒平瓦と懸軒丸瓦が出土しています。隅軒平瓦は入母屋造または寄棟造の屋根の四隅に用いる瓦で、建物の屋根構造の理解がなければ製作できません。懸軒丸瓦は、丸瓦の凹面に桟をつくる瓦で、これを受ける水返しを持った平瓦と組み合って葺かれます。いずれの瓦も瓦当文様は多聞城築城時に製作されたグループに属しており、多聞城の瓦葺きが計画的に行われたことがうかがえます。
多聞城跡
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北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ、きたやまじゅうはっけんど)
創建に関わる確実な資料はありませんが、13世紀鎌倉時代、忍性が築いたハンセン病患者等療養施設として著名な建物で、大正一〇年(1921)に国の史跡に指定されました。はじめは般若寺の東北に建立されましたが、永禄一〇年(1567)の東大寺大仏殿の戦いにより焼失、焼失後の寛文年中(1661~1673年)に今のところに移築されました。現在の建物は鎌倉時代の遺風を受け継いだもので、間数十八、別に仏間を設けた、東西に38mある建物です。前庭に二つの古井戸があり、裏戸には北山十八間戸と縦に刻書があります。
個人管理の建物のため普段内部の見学はできません。
◆戦時中・戦後の活躍◆
明治に廃絶した後も北山十八間戸は利用されました。戦中・戦後、大阪空襲の被災者や大陸からの引き揚げ者が一時的に住んだことがあるそうです。
北山十八間戸
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北山十八間戸の五輪塔と石仏
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旧奈良監獄
明治四一年(1908)に建設されたこの監獄は、当時監獄施設の近代化を目指して設置された明治五大監獄(千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島)の一つです。江戸時代の奈良奉行所を前身として、明治四年(1871)に奈良監獄署が設立され、明治三四年(1901)に現在の場所へ奈良監獄の建築がスタートし、この起工を皮切りとし明治五大監獄の建築がなされました。一時期は当時の定員数650人を大幅に上回る900人あまりの受刑者を収監していたという記録も残っています。大正に入り、増加する少年犯罪に対応すべく大正一一年(1922)に「少年法」が公布され、同時に「奈良監獄」から「奈良刑務所」と改称、昭和二一年(1946)には「奈良刑務所」が「奈良少年刑務所」と改称されました。平成二九年(2017)に重要文化財に指定されると同時に廃庁が決定し、改修工事を経て、今後ホテルとして開業される予定です。
◆イギリス積みれんが◆
れんがは長手だけの段、小口だけの段、というように一段おきに積むイギリス式です。施工が容易で強度があることや、設計者の山下哲治郎がイギリス人建築家コンドルに師事したことからイギリス式が採用されました。明治初期まで監獄建築は木造、灯火はランプでしたが、受刑者による放火事故が多発し、防火のためにれんが造りとする動きがおこりました。
旧奈良監獄の正門
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旧奈良監獄本館
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奈良豆比古神社(ならづひこじんじゃ)
奈良豆比古神社は延喜式内社の一つです。平城京外京の京極大路である東七坊大路は北に延び「奈良坂越」と呼ばれ、京都と奈良を結ぶ重要な街道として存続しました。神社はこの坂の頂部に位置します。光仁天皇が宝亀二年(771)に奈良山春日離宮に父・施基皇子の御霊を祀ったのがはじまりとされます。祭神は平城津彦神・施基親王・春日王で芸能の神様として知られます。
神社所蔵の能面や10月8日の宵宮にて奉納される翁舞はほかに例がなく、県の無形民俗文化財に指定されています。本殿の南西には、樹齢千年以上と伝わる樟(クスノキ)があり、県指定文化財となっています。
奈良豆比古神社
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奈良豆比古神社樟
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元明天皇陵・元正天皇陵
奈良豆比古神社から西へ行くと、奈良と京都を繋ぐ南北の道路を挟んで、奈良に都を置いた女帝・元明天皇とその娘・元正天皇の陵墓があります。
元明天皇は世を去る前に「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山(さほやま)雍良岑(よらのみね)に竈(かまど)を造り火葬し、他処に改むるなかれ」(『続日本紀』)として火葬の場所を指示しています。さらに墳墓の掘削はせずに、棘を刈り樹を植え刻字の碑を立てればよいと、葬儀の簡素化を命じています。この奈保山東陵もその遺言に沿ったかのように、地形が改変されているようには見えない自然な小山に葬られています。また、元正天皇は天平二〇年(748)に佐保山陵で火葬され、天平勝宝二年(750)に奈保山陵に改葬されたことが、『続日本紀』に記されています。
元明天皇陵
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元正天皇陵
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◆陵墓の間を走った鉄道◆
ふたつの天皇陵に挟まれる南北の広い道には、かつて大仏鉄道の奈良線(大仏駅―加茂駅)が通っていました。操業期間がたったの9年であったため「幻の鉄道」と呼ばれますが、現在もトンネル跡などの遺構が残っています。
那富山墓(大黒ヶ芝古墳)
那富山墓(なほやまぼ、なほやまのはか)は聖武天皇皇太子の墓とされます。わずか一歳で亡くなったため名前は伝わっていません。墳丘は裾が明瞭に直線をなし南辺10m、北辺9.6m、東辺5.7m、西辺5.3mを測ります。墳丘表面には稜線は走らず、高さ1.2mのなだらかな方錐状となっています。
この墓には隼人石と呼ばれる石があります。墳丘の北西、北東、南西、南東の四隅に置かれていて、確認されるのは4石ですがもとは12石あったと考えられます。4石は高さ69~127㎝とサイズにばらつきがありますが、図像がそれぞれ子、丑、卯、戌の獣頭人身の線刻で、子の上には「北」の字が刻まれることから十二支が配されていたとする説です。ただし江戸時代の伝承の多くに「元明陵の隼人石」とあることなどから、持ち込まれた可能性、定位置でない可能性があります。褌を着け、顔は側面のみが描かれている、かなりかわいらしいタッチの不思議な石です。
那富山墓参道
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那富山墓
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隼人石(子)今回は確認できなかったが、2006年9月例会では垣根の間に見えた。
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黒髪山稲荷神社
冒頭で紹介した、垂仁天皇皇后である狭穂姫にまつわるスポットです。『古事記』に記された「狭穂姫伝説」の悲劇をご紹介します。
開化天皇の孫に、狭穂彦と狭穂姫という兄妹がいました。天皇の位を狙っていた狭穂彦は、妹に垂仁天皇を殺すようにそそのかしますが、天皇を愛していた狭穂姫は殺すことができず、計画を天皇に打ち明けてしまいます。天皇は狭穂彦討伐の軍を起こし、姫は身ごもりながらも兄の軍の元へ行きました。そして火の中で子を産み、誉津別命(ほむつわけのみこと)と名付けて天皇方に渡し、自分は追っ手から逃れるために黒髪を切って山に埋め、古い衣をまとって逃げ去りました。皇后が黒髪を埋めたところから、この山が黒髪山と呼ばれ、稲城の古事から、五穀の神「保食の神」を招請し、転じて稲荷になったと伝えられます。(増尾正子2003『奈良の昔話』)
また境内には磐座が複数あり、左側の祠の白瀧神社では白瀧明神をまつるなど水に関わる信仰がみられます。
黒髪山稲荷神社
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興福院(こんぶいん)
奈良時代に創建された浄土宗知恩院派の尼寺です。宝亀一年(770)藤原百川、あるいは藤原良継による創建といわれています。平安時代には、興福寺や済恩院などとともに藤原氏四門の氏寺と称されました。江戸時代(1665年あたり)までは現在の尼ヶ辻駅付近にありましたが、将軍徳川家綱の時代に現在の地に尼寺として再興され、参道は徳川家綱が作らせたものといわれます。
小堀遠州作庭と伝わる客殿(重要文化財)の庭園は、春日山や三笠山を借景にした風情のあるものです。同じく遠州作の茶室もあります。
◆庭園見学は要予約◆
内部の公開は予約制で、さらに平日の9時から11時の間に限定されています。今回はこの時間に訪問できないため門の外から眺めるのみですが、興味のある方はぜひご予約の上で小堀遠州の庭園を見学してみてください。
草深い興福院参道
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興福院山門
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狭岡神社(さおかじんじゃ)
霊亀二年(715)、藤原不比等が国家鎮護、藤原氏繁栄のため自らの邸宅「佐保殿」の丘上に天神八座を祀ったことが始まりとされます。一説では、「佐保の丘」という語の「ホ」が欠落して「サオカ」になったともいわれます。
ここにも佐穂姫ゆかりの地として「鏡池」が伝わります。『古事記』『日本書紀』に伝わるその池は、鳥居をくぐり階段を上り始めるとすぐ左にあります。佐穂姫と垂仁天皇のロマンスが生まれた場所、姫がその身を映した池として伝承しています。それ以上はわかりませんが、悲劇がおきる前の平穏な暮らしが思い偲ばれる地といえましょうか。
狭岡神社へ到着
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狭岡神社鳥居をくぐる
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狭岡神社で説明を聞く
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狭岡神社鏡の池
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さいごに
今回歩くコースは、古代より続く道を中心に辿りながら、奈良時代の天皇陵や神社をはじめ、鎌倉の慈善事業施設や近代建築に至るまでを見て歩きます。いろんな時代をいったりきたり…になりますが、奈良には古代だけでなく、それ以降の歴史もひとつの地域・ひとつの道に混在して残っているということを体感できるはずです。そして狭穂姫の伝説や「狭穂」という名前は各地に残り、昔と変わらず流れる佐保川のように、これからもひとびとに語り継がれていくことでしょう。
今回訪れる場所以外にも、佐保路には歴史的なスポットが多くあります。不退寺・法華寺・海龍王寺のご本尊は「佐保路三観音」と呼ばれます。また法華寺からさらに西へ、西大寺へ向かうエリアを「佐紀路」といいますが、こちらも佐紀古墳群をはじめ深い歴史を感じられる道となっていますので、歩いてみてはいかがでしょうか。