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日時 5月29日(日)
案内 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 辻川哲朗氏・宮村誠二氏
   橿原考古学研究所 吉村和昭学芸課長

 2007年に大橋信弥先生、辻川先生に「近江の国の古墳時代前半の遺跡を訪ねる」と題して東近江の前期古墳を中心に案内いただいたが、この地域最古の雪野山古墳は麓から眺めただけだった。今回は雪野山を登り、雪野山古墳を実際に踏査することを目的に旅行を企画した。案内の辻川先生は今回が3回目のご案内となった。

(以下当日の辻川哲朗氏作成の資料より抜粋掲載)

雪野山周辺の古墳築造集団について

大橋信弥氏:蒲生地域、古墳時代には族長として蒲生稲寸や佐々貴山君がいた。

丸山竜平氏:湖西の各地に代々古墳を築きうる10 以上の族長がおり、これら族長のなかで一世代ごとに首長権がもちまわりされた。その族長については、在地首長の場合もあれば、中央から派遣される場合もあった。各地に点々ともちまわり的に築かれた前方後円墳の主を「政治的地域首長」とよび、単なる族長=在地首長とは区別しておきたい 

八幡社古墳群

雪野山北東麓のほぼ中央部付近にある八幡神社境内を中心に分布する古墳群であり、現状で16 基が確認されている。大半は横穴式石室を有する小円墳であるが、46 号墳は前方後円墳である。6 世紀後葉頃という時期からみて、当該地域で前方後円墳の最終例の一つになると考えられる。

46 号墳は全長約21m・後円部径約11m・高さ約3.5mの前方後円墳である。段築・葺石・埴輪等の外表施設は確認できない。後円部・くびれ部・前方部にそれぞれ横穴式石室(石室A・B・C)をもつ。

石室Aは後円部に位置する。両袖式石室で、玄室長4.2m・最大幅2.2m。

石室Bはくびれ部に位置する。左片袖式石室で、玄室長3.15m・幅1.1m。

石室Cは前方部に位置する石室で、玄室の奥壁側が南側へ突出するという特異な形態-平面L 字形を呈する。

 八幡社46号墳前で解説を聞く。

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八幡社古墳群

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八幡社46号墳。左からA,B,C石室。

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 八幡社古墳群小円墳の石室。

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 八幡神社旧社殿に向かう階段を上り雪野山山頂へ。

 登山をしない会員は千僧共古墳群へ向かう。

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雪野山古墳

蒲生郡竜王町・近江八幡市・東近江市の境界付近に北西から南東へむけて横たわる雪野山丘陵の最高地点(標高約309m)付近に位置する。

平成元年(1989)に展望台設置にかかる事前の発掘調査が八日市市教育委員会(現東近江市教育委員会)によって実施されたところ、すでに盗掘を受けているとの予想と異なり、銅鏡3 面が発見され、未盗掘の竪穴式石槨をもつ前期古墳であることが判明した。

雪野山古墳の築造時期は、副葬品の製作年代等によって、古墳時代前期前半(4世紀初頭)に位置づけられる。また、発掘調査によって墳丘・埋葬施設の構造とともに、古墳時代前期前半頃の代表的な副葬品品目をほぼ網羅していることから、当時の葬送儀礼を復元することのできる貴重な事例となっている。

出土遺物218 点が国指定重要文化財、古墳じたいも国指定史跡に指定。

第1 主体の竪穴式石槨は、天井石が一石を残して除去されていた。しかし幸いなことに、石槨内は土砂が堆積しており、それを取り除くと、埋葬時の状況がそのまま遺存していた。

竪穴式石槨は、その規模が内法で長さ6.1m・幅1.5m・高さ1.6mであった(A)。石槨内の床面には粘土棺床が築かれていて、そのうえに半環状の突起を前後に有した舟形木棺が納められていた。

棺内及び棺外からは青銅鏡5面と碧玉製石製品のほか、銅鏃・鉄鏃等の鉄製武器・鉄製農工具・有機質の靫等、多種多様な副葬品が未盗掘の状態をたもって多数出土したのである。

発掘調査により墳丘の構造が判明した。

墳丘は2段築成で、墳丘の一部に葺石が確認されたが、埴輪は確認されなかった。後円部中央付近では、南北方位に沿う2基の埋葬施設(第1 主体・第2 主体)が確認された。これらのうちで発掘調査が行われたのは東側の竪穴式石槨(第1 主体)である。

 雪野山は流紋岩の山。尾根筋には流紋岩の露頭。

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 雪野山古墳後円部で解説を聞く。

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 雪野山古墳前方部から全景。後円部は高くなっている。

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 雪野山古墳から蒲生野の東側を望む。後方は鈴鹿山脈。

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雪野山古墳から蒲生野の西側を望む。後方中央は繖(きぬがさ)山。

山頂近くに六角佐々木氏の観音山城が築かれた。居館は手前麓。

城跡の隣に観音正寺がある。

午後から向かう瓢箪山古墳は左側麓にある。

後方右が赤神山(太郎坊山)。中腹の太郎坊宮は天忍穂耳神と天狗の太郎坊を祭る。

手前の赤神山の手前の丘、船岡山には万葉の森公園がある。

天智7年(668)、蒲生野での薬猟のときに詠まれた額田王と大海人皇子の歌がある。

「茜さす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」

「紫の にほへる妹を憎くあらば 人妻故に我れ恋ひめやも」

千僧供(せんぞく)古墳群

近江八幡市の南西部に位置する古墳群である。少なくとも古墳時代中期には築造が始まっており、後期にかけて瓶割山西麓一帯に連綿と営まれた大小10 数基の古墳から構成される。ただ残念なことに、これらの多くは後世の削平により地表に痕跡をとどめておらず、供養塚古墳・住蓮坊古墳・トギス塚古墳・岩塚古墳が一部なりとも墳丘をとどめていたり、石室の一部が遺存している。県指定史跡。

供養塚古墳

中期中葉築造の千僧供古墳群を構成する一古墳である 。江戸時代の地誌である『近江輿地志略』には、寛文年間に後円部が発掘され、「石櫃」から鏡等が出土したことを伝える。昭和8 年(1933) には、土砂採取中に小石室が発見され、短甲や刀剣等が出土した。昭和57 年度(1982)に圃場整備に伴い発掘調査が実施された結果、全長約50mの前方部の短小な前方後円墳と判明した。墳丘の大半は失われていたが、周濠からは埴輪群が出土した。埴輪群は当該期の近江地域でもっとも豊かな組成を有し、円筒埴輪の製作技法も当該期の最新技術によるものであった。埴輪は原位置をとどめていなかったが、出土位置の検討により、形象埴輪の一部が造出し対面の周溝外に配置された状況を復元でき、中期首長墓の埴輪配置の様相を示す事例となった。また、供養塚古墳の墳丘平面形態は、中期の大王墓周辺の中小古墳(藤井寺市蕃上山古墳等)と同一規格であり、両者は共通した設計図のもとに築造されたことがわかる。このように、墳丘の形態に加えて、埴輪の作り方・形態・配置方式も政権中枢における最新の情報を受容していたわけである。このことは、供養塚古墳に葬られた首長が当該期の政権中枢と密接な関係を持っていたことを物語っている。 

供養塚古墳墳丘の痕跡

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供養塚古墳石材(前回訪問時撮影)

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住蓮坊古墳

中期後葉築造の墳丘径約53mに復元される円墳である。昭和57 年度の圃場整備に伴う調査で周溝が確認されている。周溝内から初期須恵器が出土した。これらは供養塚古墳出土須恵器に先行する可能性が高く、両者の時期差を示す。

住連坊古墳墳丘

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墳丘に住連坊と安楽坊の墓がたつ。住蓮は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての法然の弟子、浄土宗の僧。美しい声でお経を読み、法然の専修念仏を広めることに尽力した。

旧仏教勢力からの浄土教に対する弾圧も強まり、建永元年(1206年)12月、安楽房遵西とともに後鳥羽上皇の女房たちと密通をはたらいたとの嫌疑をかけられ、翌建永2年・承元元年(1207年)には近江国馬淵荘で弟子の僧と共に斬首の刑に処せられた。法然は讃岐への流罪、親鸞は越後への流罪となった。

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千僧供地域歴史資料館で古墳群の出土物を見学。

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安土城博物館

 屋外で昼食後博物館を見学

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瓢箪山古墳

繖(きぬがさ)山の支尾根先端部に位置する全長約134m をはかる雪野山古墳に後続する前期の大型前方後円墳である。1935 年の箱式石棺の発見を契機として、翌年に後円部の埋葬施設を中心に発掘調査が実施された。その結果、後円部で竪穴式石槨3 基、前方部で箱式石棺2 基が検出され、多種多様な副葬品が出土した。

学史的に竪穴式石槨の構造を明らかにしえた事例であるとともに,近江地域を代表する前期古墳である。

前方部では2 基の箱式石棺が検出された(北東側が1号棺,南西側が2 号棺)。主軸は東西方向で墳丘主軸とほぼ平行する。この点で後円部の竪穴式石槨と異なる。

ちなみに,箱式石棺は,近江地域に類例がないわけではないが,一般的とはいえない。

福永伸哉氏は,この時期に類似形態の箱式石棺が日本海(丹後・伯耆・因幡等)に多いことから,こうした地域の首長層との間に婚姻関係を含めた相互交流が行われたことを指摘している。

後円部で検出された3 基の竪穴式石槨のうち、中央石槨はその位置からみても当古墳の中心的な埋葬施設とみて大過ない。さらに、後世の攪乱を被ることなく遺存したため,副葬品の配置状況等,埋葬当時の状況をとどめていた。くわえて、多種多様な副葬品が出土し、当該期の標識的な様相を示している。

後円部で説明を聞く。

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後円部石室石材。

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前方部。

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雨宮古墳

竜王町岡屋に所在する全長82mの中期前葉築造の前方後円墳である。前方部が短く,帆立貝形古墳と呼ぶこともある。

墳丘はきわめて良好に遺存している。墳丘の各所で礫が確認できるので,葺石を有することがわかる。少なくとも後円部にはテラスが確認されるから,二段築成とみて大過ない。いままで本格的な発掘調査が実施されていないので,埋葬施設等の具体的な内容は不明である。わずかに墳丘から埴輪の破片と滑石製勾玉1 点が採集されている。採集された埴輪は,その特徴から中期前葉頃に位置づけられる。

雨宮古墳では後円部で埴輪の破片が採集されており,現在竜王町教育委員会で所蔵されている。これらはわずか5 片であるけれども,雨宮古墳の時期をしるうえで大切な資料である。1 ~ 3 は円筒埴輪の破片。4・5 は不明ながら,家形埴輪の破片となる可能性がある。

3 の破片の色合いが他の破片よりも暗いことに注目。埴輪を焼いたさいの焼きムラ(黒斑)であり,窯焼きでは生じにくいことから,これらの埴輪が野焼きによって焼かれたことをしめす証拠であり,時期をしる手がかりとなる。

前方部から後円部を望む。

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後円部墳丘

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天神山古墳群

雪野山丘陵の西麓にある竜王寺周辺には、後期群集墳である天神山古墳群・竜王寺北古墳群が展開する。古墳群が位置する斜面の南側には白鳳寺院-雪野寺址がある。

天神社東側の丘陵斜面に天神山古墳群(15 基)が、竜王寺の西側斜面には、竜王寺北古墳群(11 基)が展開する。

これらの中には、比較的大型の横穴式石室が開口しており、はやくから注目されてきた。至近にある雪野寺址との関係からみても、日野川右岸下流域の有力層の墓域であったと考えられる。

天神山4号墳

円墳( 径約15m)で、石室は玄室長3.95m・奥壁側の玄室幅2.4m・玄門部側の玄室幅1.86mをはかる。玄室奥壁側が西側へ突出し、平面形態がL 字形を呈する点が本石室の特徴であろう。この平面形態は八幡社46 号墳の石室C とも類似している

順番に石室を見学

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天神山5号墳

4 号墳の北側に隣接する円墳で、石室は玄室長4.95m、玄室幅2.05m・玄門部側の玄室幅2.14mをはかる。奥壁は大型石材一石を立てた「鏡石」となる。

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梅ノ木石棺

天神山古墳群南側の水田中で発見された花崗岩製家形石棺蓋。古墳群がさらに南側へ広がる可能性を示す。

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木村古墳群

東近江市木村にある古墳群である。かつては七つ塚といわれ,多くの古墳が存在していた。しかし、その多くが消滅し,現在は久保田山古墳と天乞山古墳の2 基がのこるだけである

この2 基は史跡整備が実施され、古墳公園として築造当初の姿が復元されている。

天乞山古墳

中期前葉築造の二辺に造り出しを有する方墳。一辺約65m、二段築成で周溝をめぐらす。墳丘斜面には葺石を施し、テラス面に埴輪を配置していた。

墳頂部にあった主体部は盗掘を被り、ほとんど全壊といってよい状況であった。天井石とみられる大型の石材が3 点遺存し、また割石も多数散乱していたことから、東西方向に主軸をとる竪穴式石槨であったと推定された。

天乞山古墳墳丘

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天乞山古墳石室

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久保田山古墳

中期後葉築造の二方向に造り出しを有する円墳。直径約57m、二段築成で周溝をめぐらす。墳丘斜面には葺石を施し、テラス面に埴輪を配置していた。

かつてはこれ以外にケンサイ塚古墳・石塚古墳等の古墳が存在していた。伝承によれば、他にも古墳の存在が推定されていた。昭和35 年(1960)、名神高速道路建設に関連した土地区画整理事業で、高速道路用地の代替耕作地用地として、ケンサイ塚古墳・石塚古墳等が充当された。ケンサイ塚古墳にたいしては、破壊に先立ち発掘調査が実施されたが、石塚古墳については調査されることもなく破壊されてしまった。

その後、一帯で圃場整備が計画され、それに伴って発掘調査が実施された。その結果、破壊された古墳の痕跡が確認され、形態・規模等が明らかになっている。

天乞山古墳から久保田山古墳を望む。後方が雪野山。

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天乞山古墳から削平された古墳群を望む。

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草津サービスエリアで休憩後京都駅で解散。