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日時 6月19日(日)午前十時
集合 JR郡山駅
案内 鈴木朋美主任研究員
行程 JR郡山駅→稗田環濠・売太神社→稗田・若槻遺跡→若槻環濠→美濃庄遺跡→平城京羅城門跡・長塚遺跡→杏(からもも)近衛1~3号墳→姫寺跡→大安寺

説明文は会報から引用

集合大和郡山駅。

佐保川と地蔵院川の合流地点付近に稗田環濠がある。

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稗田環濠

稗田環濠は今も水が流れ、広い所は9m以上も幅がある。環濠内には古い家々が並び、その歴史を感じることができる。

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賣太(めた)神社

稗田環濠の南東には天武天皇にその高い記憶力を買われ、数々の伝承を暗記し、『古事記』の編纂に携わったと言われる稗田阿礼を主斉神として祀る賣太神社があります。また、副斉神として猿女君の祖先とされる天宇受賣命を祀っている。

賣太神社から環濠を一周して下ツ道へ。

稗田・若槻遺跡

 下ツ道を南下。周辺が稗田・若槻遺跡。

 稗田・若槻遺跡では弥生時代から室町時代の遺構が見られる。中でも、特筆すべき遺構は下ツ道と交わる奈良時代の北東から南西に流れる人工河川で下ツ道と交錯する地点で四間×四間の橋脚跡が見つかった。

 橋の規模は幅12m、長さ17mと推定される。この人工河川では墨書土器、ミニチュアかまど、斎串、土馬、獣骨、銅銭などの遺物が多く出土した。遺物には完形が多く、またほとんど磨滅していないため、橋周辺が投棄場所となっていた可能性も考えられる。また、掘削・埋没の時期に関しては、河川堆積の最下層から霊亀3年(717年)銘の木簡が、最終堆積層から貨幣の饒益神宝(859年)が出土したことより、奈良時代初頭に掘削され、平安時代には機能しなくなったと考えられる。

若槻環濠

天満神社で若槻環濠の解説を聞く。

稗田環濠集落の南東にある。大乗院領若槻庄土帳(徳治2年・1307年)には村がすでに存在したこと、また『文正土帳』(文正元年・1466年)には、東西にあった居館の堀の掘削について記されている。1999年には、集落の北東で調査が行われた。その結果、18世紀前葉に環濠の再掘削が行われたこと、環濠と集落の成立が13世紀にまでさかのぼる可能性が高いことが確認された。18世紀の環濠が再掘削により3m以上に拡幅され、その際に中世の環濠は破壊されてしまったと考えられる。

中世までさかのぼる遺物は環濠の再掘削後の環濠内から出土しましたが、東の環濠に接続する溝状遺構(宅地の区画溝?)からは13世紀後葉の瓦器・土師器がまとまって見つかりました。したがって、集落の存在については、史料の通り13世紀まで遡ることができそうである。しかし、その際には防御を目的とするような環濠はまだ存在しなかった、あるいはあったとしても幅3m以下の灌漑だけを目的とするような細いものだったと考えられる。なお、環濠の南西角には人工的に造られた池である里池があるが、里池は1895年に造られたことが史料に記されており、比較的新しいもの。

稗田中央児童公園で昼食

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若槻池「往古(おうこ)池」

若槻環濠の成立時期に関して、他にヒントになりそうなのが若槻池。若槻池は、若槻環濠から北に約700mの場所にある人工のため池。若槻庄土帳土帳では「右近(うつこ)」と記されており、それから音が転じて「往古(おうこ)池」になったと考えられている。この堤の築造年代に関しては、堤を形成する土から出土した瓦器椀から、12世紀後半~13世紀後半と推定することができそう。

若槻池

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長塚遺跡

 佐保川をさかのぼる。水門あたりの川床が平城京羅城門跡。

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羅城門公園で解説を聞く。

平城京羅城門公園から南東に広がる長塚遺跡では、古墳時代~中世の遺構が見つかりました。中でも特に注目したいのが「特殊土坑」とされる8世紀初頭~前半の土坑。調査区内で6基が見つかっており、その規模は直径1.5~2.3m、深さ1.3~0.7m、断面形態はU字あるいはV字を呈する。土坑内から出土する遺物は少ないが、円座、馬骨、土師器(坏・椀・高台部分・横瓶)、桃の種子・栗、焼けた木製品などが出土している。また、興味深いことに桃の種だけはすべての土坑から出土した。土坑内の土の堆積状況から、これらの土坑は掘って間もなく埋められたと考えられる。羅城門の近接地という場所を考慮すると、京への出入りに伴う儀式的な饗宴が行われた跡ではないかと考えられている。

杏近衛(からももこのえ)1・2・3号墳

国道24号線杏町交差点から北東約300m、現在は住宅が立ち並ぶ区域では、6世紀前半とされる3基の埋没古墳が見つかった。墳丘部分は平城京の造営により削平されていたが、方形にめぐる周溝が残っており、その構造を平面で確認できた。一番南の1号墳は、南西側に突出部を持つ方墳で、周溝から鈴台付壺と呼ばれる珍しい器形の須恵器が出土した。透かしが入った袋状の台部に球が二つ入っており鈴のようになっている。2号墳は1号墳の北東にあり、周溝は南西の角で途切れ、陸橋となっている。3号墳は南東の角しか検出されておらず、南西と南東の周溝の一部が、1号墳と2号墳の周溝と接している。また、これら3基の方墳の北北東約200mの所でも、2基の方墳、杏尻広(からももしりひろ)1・2号墳が見つかった。こちらも同様に、平城京の造営に伴い削平されており、周溝のみが検出された。ただ、その年代は杏近衛1~3号墳より古く、5世紀後半まで遡ると考えられる。さらに、杏尻広1号墳の周溝からは埴輪が出土していますが、一般的な作り方とは異なる特徴を持った蓋形埴輪が出土した。形だけでなく製作技法も異なるため、模倣されたと考えられている。

姫寺跡

 天神社参道。

 天神社に残る礎石

姫寺跡は、文献には記されていないが、左京八条三坊十五坪のほぼ中央に位置している。現在、坪の中央には天神社(菅原神社)があり、神社の境内には金堂跡と思しき土壇が残っている。また、天神社の北側で講堂基段と考えられる遺構、僧房、寺域北限の塀、西限の塀などの遺構が見つかった。講堂の基壇には礎石などは残っておらず平面規模は不明だが、基壇の規模は南北16m東西29.5mを測る。講堂の北の僧房の建て替えであろうと思われる遺構には礎石が残っていた。また、姫寺からは創建の時期を知る手掛かりとして飛鳥時代の瓦が出土した。さらに、それらは飛鳥寺、海竜王寺、横井廃寺、興福寺と同范であることも注目すべき。奈良時代の瓦も出土していることから、姫寺が飛鳥時代に創建され、奈良時代まで存続していたことを示していると言える。

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大安寺東塔跡

 今回は通過

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八幡神社(元岩清水八幡宮)

 境内を通過して大安寺へ

大安寺と林邑僧・仏哲

姫寺から北上すると、最終目的地の大安寺がある。大安寺は、百済大寺、高市大寺、大官大寺を前身とする南都七大寺の一つであり、当時の国家を代表する寺院。

 736年に林邑(りんゆう)出身の仏哲は、インド出身の僧である菩提遷那(ボーディセーナ)とともに唐より奈良にやってきました。仏哲は752年の大仏開眼供養の際に舞を披露し、大安寺でサンスクリットを教えたと言われている。また、今も演じられる雅楽の曲目である「林邑八楽」も仏哲によってもたらされたと言われている。菩提遷那はその後、奈良市霊山寺に葬られたと言い伝えられているが、仏哲の足取りは定かない。

 仏哲の故郷とされる林邑は、現在のベトナム中部に栄えたチャンパ王国であると考えられています。クアンナム省のチャーキュウ遺跡は、林邑の最初の王都の都城と考えられている。中心地は時代を経へて徐々に南へ移り、19世紀にチャンパは滅んだ。チャンパ王国の各地にはヒンドゥーの神々の像や碑文が残っている。仏哲が生まれ育ったであろう7~8世紀のチャンパの実情はまだ不明なことが多いが、クアンナム省やトゥアティエン=フエ省の寺院遺跡では、ヒンドゥー教の図像を持つ石造物などが寺院遺跡から出土しており積極的には仏教の要素を見つけることはできない。一方で、7世紀に林邑に立ち寄ったといわれる義浄が記した『南海寄帰内法伝』にはチャンパが上座部仏教を信奉していたことをうかがわせる記述がある。また、中部南域のフーイェン省では、同じく仏坐像を描いたレリーフが発見されている。クアンナム省の南のクアンガイ省では、仏坐像を描いた奉献粘土版(Votive Tablet)が見つかっている。仏哲の故郷である林邑は、当時の東南アジアでは一国一宗教のような単純な構造ではなく、我々が思うより複雑な宗教構造をしていたのではないかと考えるのが現時点では妥当だと言えるのではなか。近年では仏哲が密教僧であり、ヒンドゥー教行者として舞を披露したのではないかという説もある。当時の奈良は、仏教を通じて我々が思う以上に海外の様々な情報に触れていたのかもしない。今後、7~8世紀の東南アジアに関する考古学研究が盛り上がれば、連鎖的反応的に仏哲の存在やインド僧・菩提遷那らに受けた影響についても考察が深まるかもしれない。謎に包まれた仏哲に目を向ければ、奈良で最先端の文化に触れた人々の驚きを感じられそうである。

大安寺到着

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本堂の北側に廻りこむ。

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大安寺歴代住職供養塔でベトナム出身の僧仏哲の解説を聞き解散。

路線バスで奈良駅へ向かう