日時 4月17日(日)午前十時
集合 JR・近鉄線 天理駅
案内 小栗明彦指導研究員
行程 天理駅→三島(神田)地区→豊田地区→豊井(宇久保)地区→豊井地区→布留地区→三島地区→(天理教お茶所付近で昼食・トイレ休憩)→布留(上ノ垣内・出口)地区→布留(西小路)地区→杣之内地区→杣之内(赤坂・北池)地区→杣之内(大東)地区→守目堂地区→(天理参考館前で解散)
(会報から抜粋)
布留遺跡の時期的変遷のまとめ
【弥生時代末~古墳時代前期】
布留川北北流右岸の豊田地区、布留川右岸の豊井地区から布留地区にかけて、布留川左岸の杣之内地区、杣之内(赤坂・北池)地区から杣之内(大東)地区にかけての4箇所で、集落が営まれた痕跡が認められる。布留地区では古墳の可能性が高い、埴輪を伴う遺構も造営された。
【古墳時代中期】
布留川北北流右岸の豊田地区で引き続き集落が営まれるが、中期後半になると布留遺跡全体で次のような大きな変化が見られる。
布留川北北流右岸では、豊井(宇久保)地区で祭祀行為の伴った集落が形成される。
布留川右岸では、豊井地区で鍛冶工房が営まれ、布留地区から三島地区にかけて自然流路の両岸で玉作り、鍛冶、木工などの大規模かつ複合的な工房群が営まれるようになる。渡来人の痕跡も認められる。
布留川左岸では、杣之内地区で大溝が開削されると共に、大規模な掘立柱建物群を伴った最上位階層の居住域となる。その端の祭祀場所が布留(西小路)地区。
また布留川左岸の守目堂地区や杣之内(赤坂・北池)地区では、工房経営に携わったと思われる中間階層の墓域形成が始まる。
【古墳時代後期】
中期後半に形成された工房群や最上位階層居住域などの集落構成と、墓域はそのまま引き継ぎつつ、新たな変化が見られる。
布留川北北流右岸では、豊田地区から豊井(宇久保)地区にかけて、後期後半に総柱建物倉庫を含む大型掘立柱建物が見られるようになり、上位階層の居住域が形成される。
布留川左岸では、杣之内地区で後期前半に鍛冶工房が新設されると共に、石上神宮に最も近接する布留(上ノ垣内・出口)地区へも最上位階層の居住域が拡大するようである。
【飛鳥時代以降】
古墳時代後期に上位階層の居住域となった布留川北北流右岸の豊田地区から豊井(宇久保)地区にかけてと、布留川左岸の杣之内地区では、規模は縮小されながらも集落経営が引き継がれる。布留川右岸の工房群は無くなりますが、三島地区の自然流路では土馬を使用した祭祀行為が認められる。
集合 JR・近鉄天理駅
今回で物部氏の遺跡を巡るシリーズの第3回目。 案内は小栗先生。
これまで2回は物部氏の首長墓を巡ったが、今回は物部氏の集落遺跡である布留遺跡を巡検し、その様相を探る。
三島(神田)地区
三島町と別所町の境に建つ天理教校学園高校の敷地。
この地区では、出土品に石製未製品や石材片が多いことから見て、布留川北北流南岸に古墳時代中期の玉作り工房の存在が窺われる。
----
豊田地区
豊田町集落の南側に広がる耕作地一帯で布留地区が望める、布留川北北流旧河道の北岸側に相当。
古墳時代を通して集落が営まれ、特に後期になって大型の掘立柱建物が建てられるようになった。
南側に布留遺跡中心地、布留地区を望む。
----
豊井(宇久保)地区
豊井町の丁字路交差点南西隅に建つ天理教託児所の敷地。
布留川北北流旧河道の北端が確認されている。布留川北北流右岸のこの地区では、古墳時代中期後半から祭祀行為を伴うような集落が形成され、後期後半には総柱建物倉庫を備えた上位階層の居住域となる。集落は奈良時代にも引き継がれる。
旧河道北岸近くで古墳時代中期後半の土器溜まりが見つかり、そこから土師器高杯68個、須恵器のほか、勾玉1点、管玉2点、剣形石製品1点、有孔円板4点、臼玉789点などの滑石製品や、鉄鍬2点、鉄鎌1点、鉄鏃1点などの金属製模造品が出土している。北岸上で祭祀が行われ、祭具が川に投棄された模様。
豊井地区
豊井町の住宅地の中。
布留川右岸のこの地区では、弥生時代末~古墳時代初頭に集落が営まれているが、見つかった地床炉や、鉄片、鞴羽口などの存在を考えると、古墳時代中~後期に鍛冶工房が存在した可能性がある。
布留地区
布留町、三島町、豊田町の境に建つ天理教別席場や東駐車場の敷地。
布留川右岸のこの地区では、豊井地区と一連の集落と見られる弥生時代~古墳時代前期に集落が営まれ、古墳時代前期には、埴輪をもつ古墳が築かれた。中~後期にも集落が形成され、滑石製模造品や碧玉片、坩堝、鞴羽口、鉄滓などが出土しており、自然流路の周りの玉作りや鍛冶の工房群であったと見られる。
鉄釘、鉄滓が出土
----
滑石製模造品や碧玉片、坩堝、鞴羽口、鉄滓などが出土した玉作、鍛冶工房跡
----
三島地区
三島町に建つ天理教教会本部の敷地。
布留川右岸のこの地区は、布留地区の古墳時代中~後期と一連の遺構と考えられる。自然流路に遺棄された多種多様な遺物から見て、特に古墳時代中期以降、玉作り、鍛冶、木工など大規模かつ複合的な工房が、付近で営まれたと見られる。工房は流路の北岸にあった可能性が高く、朝鮮半島からの渡来人の痕跡も窺える。また奈良時代には流路での祭祀行為が認められる。
----
布留川に沿って歩く。
川沿いは八重桜が満開。
----
布留(上ノ垣内・出口)地区
石上神宮の西側、布留町と杣之内町の境にある砂利敷駐車場の敷地。
古墳時代後期の焼土層の下に整地土層が確認されており、一辺70㎝を超える大型柱穴1基や大型土坑1基も見つかっている。
布留川左岸のこの地区は、石上神宮に隣接し、布留遺跡全体を一望できる良好な高台。古墳時代後期と思われる整地土層と大型柱穴の存在は、その時期の最上位階層の居住地であった可能性を示している。
布留(西小路)地区
布留町に建つ天理教語学院の建物と駐車場の敷地。
布留川左岸のこの地区は、次の杣之内地区で見つかった集落の端にあたり、古墳時代中期後半に川岸で祭祀を行っていた場所と見られる。
杣之内地区
杣之内町の天理大学の砂利敷き駐車場の敷地。
弥生時代末の溝が見つかり、古墳時代中期後半に弥生時代末の溝と並行するように、幅15mの大溝が開削されている。大溝は中世まで使われ続ける。その北側にも幅9mの大溝があり、古墳時代後期前半~奈良時代の土師器、須恵器、滑石製紡錘車二点、有孔円板一点、土製紡錘車2点、ガラス小玉、鞴羽口、小鉄片、焼土、馬歯骨、塼などが出土している。
大溝の周辺には多数の柱穴があり、古墳時代中期~奈良時代の掘立柱建物群が見つかっています。掘立柱建物は大型で、総柱建物が四棟、側柱建物が15棟あります。中には棟持柱を有する2間×4間の建物もある。
布留川左岸のこの地区では、古墳時代中期後半の大溝開削を契機に建物が密集するようになる。石敷や棟持柱を有する建物もあり、最上位階層の居住域と考えて良い。後期前半には鍛冶工房も備えるようになり、最上位階層の建物は、布留(上ノ垣内・出口)地区へと広がっていくようである。
杣之内(赤坂・北池)地区
杣之内町の池を埋めて造成された北池グラウンドの敷地。
古墳時代中期末~後期後半の径4.5~13m程度の円墳や方墳19基が、密集して築造されているのが見つかった。土器、刀子、鉄鏃、鉄釘、鉄製品、鉄滓、耳環、勾玉、管玉、臼玉、土玉などが出土しており、中間階層の鍛冶関係者の墓域と見られる。
北側の調査区で古墳時代後期前半の全長約30mの前方後円墳(赤坂20号墳)1基と、奈良時代の土坑墓1基が見つかった。南側の調査区では、弥生時代末の土坑1基、溝、古墳時代前期の流路一条、竪穴建物1棟、柱穴約50基が見つかっている。
布留川左岸のこの地区では、弥生時代末~古墳時代前期に集落が営まれているが、古墳時代中期末頃から布留遺跡の南限として、中間階層の鍛冶関係者の墓域となるようである。
杣之内(大東)地区
杣之内町に建つ集合住宅の敷地。
弥生時代末~古墳時代前期の溝一条、足場遺構、自然流路一条が見つかった。杣之内(赤坂・北池)地区の南側調査区の遺構と一連の集落と考えられる。
----
西山古墳を通過。
----
天理参考館が見えてくる。
----
守目堂地区
守目堂町の天理参考館の建物や駐車場の敷地など。
布留川左岸のこの地区は、杣之内(赤坂・北池)地区と同様に、古墳時代中期後半頃から布留遺跡の西限として、中間階層の墓域となったようである。
古墳時代中期末の円墳5基、溝二条、小石室、埴輪棺、土器棺や、後期~終末期の掘立柱建物5棟が見つかった。溝から土器、勾玉、鞴羽口、鉄滓が出土しており、周辺で鍛冶が行われていたようである。
古墳時代中期後半~後期後半の土師器、須恵器、埴輪、鉄釘、鉄滓、砥石が出土しています。小規模な古墳が幾つか存在していた可能性が高い。
----
ここで解散。三々五々天理駅へ向かう。
物部氏の首長墓巡検のおさらい。
布留遺跡周縁の首長墓造営約200年間続く。
期間の前半は、西暦470年前後の塚山古墳に始まる別所・豊田系譜と、490年前後の西乗鞍古墳に始まる杣之内南部系譜の2系譜が併存。
後半に入ると、新たに560年前後の石上大塚古墳に始まる石上・岩屋系譜が続くが、前半以来の別所・豊田系譜、杣之内南部系譜の二系譜は次第に途切れる。最後に、須恵器飛鳥Ⅰ期中段階620年前後の塚穴山古墳に始まる杣之内北部系譜が加わって、再び二系譜が併存して終わる。
歴代の大首長墓は、塚山古墳→西乗鞍古墳→小墓古墳→別所大塚古墳→石上大塚古墳→ウワナリ塚古墳→岩屋大塚古墳→塚穴山古墳→峯塚古墳の順となる。歴代の大首長権は、同じ集団の首長に固定されている訳ではなく、時期によって4系譜の首長の間を移動していることになる。
別所・豊田系譜、石上・岩屋系譜、杣之内南部系譜は、物部氏を構成していた集団の首長墓であって、これら3系譜の中に含まれる大首長墓は、物部氏の族長の墓と言える。
しかし、620年前後に塚穴山古墳が築造されることで始まる杣之内北部系譜のみは物部氏の首長墓ではなく、物部守屋が丁未の乱(587年)で蘇我馬子・厩戸皇子らの連合軍と交戦して敗北した後に、布留遺跡に居住する複数集団の大首長権を物部氏から奪取した集団の首長の墓と考えられる。そして物部氏の族長は、布留遺跡居住集団全体を統べる大首長ではなくなり、ひとつの集団の首長へと成り下がり、その首長墓(物部氏の族長墓)は、石上・岩屋系譜のまま塚平古墳まで続いたと考えられる。