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▽日時 3月20日(日)午前十時
▽集合 JR万葉まほろば線櫟本駅 集合解散
▽案内 青柳泰介 学芸係長
▽行程 JR櫟本駅→櫟本墓山古墳→柿本寺跡・和爾下神社古墳→赤土山古墳→東大寺山古墳→櫟本高塚遺跡→和爾坐赤阪比古神社(昼食)、和爾・森本遺跡(積水展示)→和珥坂下伝承地→和爾遺跡・和爾古墳群→JR櫟本駅解散

櫟本駅集合

 参加者は132名。コロナが落ち着いたためか参加者が増えてきた。

今回は、青柳先生が発掘を担当された、奈良盆地東北部の地域集団(ワニ氏)の本拠地である和爾地域の遺跡をめぐる。(以下説明は会報から引用)

5世紀代は葛城氏、6世紀代は蘇我氏が后妃を多数輩出しており、ワニ氏はその間をつなぐ形で后妃を輩出したが、実在した可能性の高い人物はほとんどいない。春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣など16の同族があり、欽明朝にはワニ氏は春日氏に氏族名を変えて、事実上消滅する。春日和珥臣、春日小野臣、春日粟田臣などの複姓集団が多数存在することも特徴の一つ。国内征討伝承に痕跡をとどめるなど、王権内部で隠然たる影響力を行使した集団でもある。

 名称は、文献により様々な表記方法がり、便宜的に「ワニ」とカタカナ表記にする。加藤謙吉さんや和田萃先生(和田1988)は、サメの古代表記がワニということなどを含めて、海人集団にちなむと考えている。

 本拠地について岸先生は奈良盆地東北部、加藤さんは京都府南部と奈良盆地東北部に本拠地を想定。青柳先生は天理市和爾町での調査経験から、奈良盆地東北部に想定されている。

和爾地域の本拠地は、南側の高瀬川(名阪国道北側)と北側の菩提仙川にはさまれた東大寺山丘陵(南側)と和爾丘陵(北側)から成り、特に、4世紀後半~5世紀前半に前者の丘陵は墓域、後者の丘陵は集落域として機能した。

 青柳先生は、和爾・森本遺跡での調査成果と、周辺地域の調査成果を総合し、木材の生産と流通の掌握を想定された(青柳2009)。琵琶湖西岸や山科、さらに飛騨や三河など古代の木材生産地から奈良盆地へのルート沿いに、ワニ氏の同族やワニ部が濃密に分布する状況とも整合する。

古事記にワニ氏に関わる伝承が多数みられるのは、稗田阿礼がワニ氏の勢力圏内出身だったからかと思われる。

ワニ氏の首長墓は東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳の順に築かれるが、赤土山を初代とする意見もある。

櫟本墓山古墳

駅から東へまっすぐ行くと、左手に後世の墓石が多数のった墳丘が見えてくる。全長約64mの中型の前方後円墳。後円部が南東、前方部が北西を向く。発掘調査は行われてないが、北側にあるため池から6世紀前半代の埴輪片が出土している。

東大寺山丘陵に造営された大型前方後円墳3基の約100年後に造営された古墳。

櫟本墓山古墳墳丘図

柿本寺

墓山古墳を通りすぎ、国道につきあたり、右手(南)に少し行くと、左手(東)に和爾下神社の鳥居がみえる。

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歌塚は、柿本人麻呂像、カエルの群像などが置かれている。周囲には礎石が点在しており、この周辺から和爾下神社古墳にかけて、かつて柿本寺(奈良時代創建か)があったようである。

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柿本寺跡の礎石

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凝灰岩製の大型の石材は、和爾下神社古墳に伴う石室の天井石(内側が上を向く)の可能性があるが、詳細は不明。長辺の縁がかすかに高くなっている。

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和爾下神社古墳

全長約105mの大型前方後円墳。東大寺山丘陵の西端に位置し、前方部を北に向ける南北主軸の古墳。後円部上に和爾下神社の社殿がのる。本殿の防災工事の際に埴輪が出土し、4世紀末~5世紀初頭に位置付けられ、東大寺山丘陵の大型古墳では3番目に築造された。

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和爾下神社

 墳頂の神社(本殿は国指定重要文化財)の、左手のゲートから外(北)、スロープの向こうに低い前方部が見える。

赤土山古墳

赤土山古墳墳丘。墳丘の右端と家付近が2号墳。

東大寺山丘陵の南端に位置する前方部が西を向く東西主軸の全長約106.5mの大型前方後円墳。史跡整備に伴う発掘調査で多数の埴輪が出土し、4世紀後葉の年代が想定される。東大寺山丘陵の大型古墳では2番目に築造された。

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赤土山古墳墳丘図

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後円部の東端で陸橋が東側へ伸びていく付け根部分の南側に細かな張り出しがいくつかあり、その上面に家形埴輪群が配置され、その張り出し部にはさまれた谷部に囲形埴輪の中に家形埴輪を入れた導水施設を表現したと思われる埴輪が配置されている。家形埴輪群の配置が分かる数少ない貴重な事例。

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墳丘の南側の眺望が開け、遠くに葛城・金剛の山並みが見え、目を凝らすと南郷遺跡群も見える。葛城地域の人とワニ地域の人は互いに視認できる関係にあった。

高瀬川(名阪国道北側)南側の丘陵で物部氏の本拠地布留遺跡は見えない。

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赤土山古墳 後円部から前方部

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赤土山古墳 前方部から後円部

 墳丘斜面がやや直線的に見えないでしょうか。そこが地滑りの痕跡。

以前は、この古墳は前方後方墳だと考えられていたが、それはこの地すべりの結果だということが発掘の結果わかった。

円筒埴輪列がその亀裂にすっぽりはまっていましたので、ほぼ完全な状態で出土したことも特筆される。また、この地滑りで後円部頂の粘土槨も破壊されたようで、発掘調査の時に鍬形石、石釧、刀子形石製品、勾玉、管玉などが出土した。

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東大寺山古墳

天理教教会建物の左手(東)に東大寺山古墳の説明板と上り口がある。

青柳先生の解説を聞く。

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階段を上っていくと、後円部頂に達する。

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後円部は竹藪のため周囲の視界はきかない。

後円部頂は一部崩れており、写真右側の窪みと崖面周辺で粘土槨が確認されました。

現状は竹藪に阻まれて全容が分かりにくい。粘土槨の南半部しか残存していなかったが、豊富な副葬品が出土した。

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東大寺山古墳墳丘図

この古墳は全長約130mで、東大寺山丘陵で最古最大の前方後円墳。まさにワニ氏初代の墓にふさわしい規模。

出土物は、腕輪形石製品、坩形石製品、環頭大刀などで、後漢の中平年(西暦184年~190年)銘の金象嵌のある大刀や、家形の青銅製環頭などが特筆される。

金象嵌のある大刀は奈良県内の古墳で確認される最古の中国の年号で、その入手背景は??

青銅製環頭の家形の造形については、奈良盆地西部にある馬見古墳群中の佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡の鏡背の文様に類似している。

同時期に奈良盆地の西と東で似たような造形が存在する背景は??

共通するのは竪穴建物の表現で、掘立柱建物ではない。豪族(首長)の居住空間を象徴しているのか??

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櫟本高塚遺跡

東大寺山丘陵の北側斜面に位置し、和爾丘陵や若草山、生駒山などの眺望がきく場所に、平坦面を造成し、韓半島系建物である大壁建物が確認された。時期は、東大寺山古墳よりも200年ぐらい後の6世紀後半。韓半島の事例によく似ており、その背景が気になる。

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和爾坐赤阪比古神社

 現在の社殿は、室町時代以降に移ってきた。和爾古墳群を構成する円墳の一つが本殿の下にありますので、由緒ある。かつては横穴式石室に入れたらしいが、現在は見ることができない。

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和珥坂下伝承地

日本書紀神武紀に「和珥の坂下の巨勢祝とう者あり」、古事記応神天皇の長歌に「櫟井の和爾坂」とある。ワニ氏にとって重要な場所らしいが、正確な場所は不明。

正面(西側)に生駒山が見える。

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和爾遺跡

和爾遺跡の変遷

・3世紀~4世紀前半代に菩提仙川沿いの丘陵縁辺部に集落が形成される。

・東大寺山丘陵に大型古墳が築かれる。

・4世紀後半代は、丘陵中央付近に上殿古墳や小規模な古墳が築かれる。

・5世紀代になると、現代の墓地周辺に竪穴住居群が、菩提仙川沿いの丘陵縁辺部にワニ氏の居館とみられる四面庇付掘立柱建物が建てられる。規模や構造が葛城地域の南鄕遺跡群例に似ている奈良盆地屈指の大型建物。

・5紀後葉~6世紀代になると、丘陵全体が小型の円墳を主体とする600基の群集墳(和爾古墳群)で埋め尽くされる。室町時代以降に大部分が削平され、今は神社周辺、墓地周辺、野田古墳などにわずかに痕跡をとどめる。

・古代になると、願興寺がその群集墳のそば(東側)に建立される。ワニ氏の末裔の小野氏が造営に関わったと推定されているが、古墳を破壊しないように造営されているので、群集墳、寺ともにワニ氏に関係する可能性がある。

・鎌倉時代も群集墳は墳丘を削られつつも残存していたが、室町時代になると一斉に削平され、大部分は農地になる。

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和爾古墳群

現在の墓地が小円墳の残骸の上に建てられている。

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寺山寺跡

奈良時代の寺山寺跡とされるが実態は不明。跡地に立っている石仏は、写真家の入江泰吉氏が撮影したことで有名。

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和爾遺跡 竪穴式住居跡

 寺山寺跡の北側墓地が竪穴式住居跡

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野田古墳

高圧鉄塔のそばに、後円部を鉄塔に削平された、全長70mの未調査の中型前方後円墳、野田古墳が見える。6世紀代に和爾丘陵を覆った群集墳を構成する古墳の一つと考えられる。

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和爾遺跡 大型建物跡

発掘時の大型建物跡

野田古墳を横目に見て、菩提仙川沿いを東へ進むと、川沿いの竹藪の手前が、大型建物があった場所。一辺13mの方形の建物で、2重の柱列から成るす。この建物は菩提仙川を意識した位置に建てられたと思われる。今までに川の浸食で一部崩落した。

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菩提仙川に沿って田原へ続く道

大型建物跡から東を望むと山並みの向うに田原地区が望める。ワニ氏は木材生産と流通を掌握しようと目論み、河内(生駒山)―田原(木材生産地)を結ぶ交通路(菩提仙川沿い)を重視し、墓域と集落域を周囲から隔絶するように配置した?

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上殿古墳跡

南を望むと鉄塔のそばに上殿古墳跡とその奥に東大寺山丘陵を望む。

西を望むと生駒山が見えますが、北を望んでも丘陵が邪魔して帯解地域がまったく見えない。

 上殿古墳は現在完全に削平されている。径30mの円墳で、粘土槨周辺から鉄柄付手斧、方形板革綴短甲、腕輪形石製品などが出土し、小型古墳の割に豊富な副葬品が出土して注目された。時期は、東大寺山古墳に近い年代が考えられる。

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願興寺跡

ビニールハウスの左(北)が不自然に盛り上がっているのが願興寺跡。発掘調査では、塔跡と周辺の雑舎群を確認しています。群集墳を破壊せずに造営されていることが注目されます。墓守のような位置づけができるでしょうか。

 見学を終えて三々五々櫟本駅へ向かう。