日時:2021年12月19日(日)10:00~
集合:橿原神宮前駅中央口10時 あすか夢の楽市 10時20分
案内:髙橋幸治 学芸課指導研究員
行程:入鹿の首塚・飛鳥寺西方遺跡→飛鳥寺北面大垣→竹田遺跡・竹田道・東山カワバリ遺跡→八釣・東山古墳群→高家一ッ橋古墳→高家ヒラノ2号墳・高家古墳群→春日神社境内古墳→一乗寺境内地付近(昼食) → 梶山古墳群→赤坂天王山古墳→近鉄大和朝倉駅
橿原神宮駅中央口
橿原神宮駅中央口で集合して、9:40(チャータ便)、9:51(路線バス)、10:10(チャータ便)のバスに分乗して、あすか夢の楽市へ向かう。
あすか夢の楽市
今日の案内は髙橋幸治学芸課指導研究員。明日香村教育委員会から出向され、飛鳥は熟知しておられる。今までの例会では訪問していなかった飛鳥の遺跡を案内いただく。
寒い朝で、時々みぞれ混じりのにわか雨がふるあいにくの天気だが参加者は100名を超えた。
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飛鳥寺西方遺跡・入鹿の首塚へ向かう。
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入鹿の首塚
645年、乙巳の変で入鹿が「斬首」されたシーンは桜井市談山神社にある『多武峰縁起絵巻』に描かれている。平安時代以降にこのようなイメージがつくられた可能性がある。「首塚」とされる石塔は鎌倉時代後期から南北朝期の五輪塔と考えられている。
地元には、中世頃の尼さんのお墓との伝承や、五輪塔が2つあったとの言い伝えもある。水輪部分は、据わりが良いため、天地が逆転しているとの指摘もある。
後ろの田圃が大型の土坑出土地。奥の緑色の倉庫が掘立柱建物出土地。
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飛鳥寺西方遺跡
乙巳の変発端の蹴鞠会は槻木の広場と行われた。
飛鳥寺の西側の遺跡の小字は、「土木(どぎ)」と呼ばれる。槻の木(つきのき)が土の木(つちのき)に転訛し、最終的には土木(どぎ)に変化したとする説もある。
五輪塔のちょうど西側2mくらいの位置で大型の土坑が検出され、槻の木があった可能性を指摘されているが、木根は残っていない。
倉庫や管理棟のような掘立柱建物が4棟検出されている。
入鹿の首塚の前で、説明を聞く。
手前の田圃が大型の土坑出土地。
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西側、甘樫の丘を望む。
手前の田圃が大型の土坑出土地。奥の緑色の倉庫が掘立柱建物出土地。
甘樫の丘に西で現在発掘中。
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飛鳥寺北面大垣
飛鳥寺と石神遺跡との境でもある道では、飛鳥寺の北側を限る東西方向の一本柱列が検出され、飛鳥寺北面大垣の可能性が指摘されている。
一本柱列が検出地から東、竹田道へ進む。
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少し進むと南北方向の道路がまじわる交差点の道路脇には水路は、斉明天皇によって穿られたとされた「狂心の渠」の推定地。
「狂心の渠」は、酒船石遺跡で多数出土している天理砂岩(凝灰岩質細粒砂岩)を運ぶために穿たれた。酒船石遺跡では砂岩切石で石垣を作っており、湧水・導水施設で祭祀が執り行われていた。『日本書紀』には、作っている傍から壊れてしまった石垣の情景が描かれる。飛鳥苑池から出土している砂岩は、崩れた石垣の石材を再利用する形で、転用されている可能性がある。
竹田遺跡・竹田道・東山カワバリ遺跡
竹田道を進む。
道の北側(右)が竹田遺跡。南側(左)が東山カワバリ遺跡。
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竹田遺跡は飛鳥寺北面大垣を踏襲した現在の道路(竹田道)を、東へ行った北側の遺跡。古代から中世にかけての掘立柱建物が23棟確認されている。この中で最も大きな建物では、柱を支える礎板石として、砂岩切石が使用されていた。酒船石遺跡の石垣が崩れて機能しなくなってから、転用が始まるまでの時間差は、さほど開きがないものといえる。また酒船石遺跡に多くの砂岩が使用されていたにもかかわらず、これらの石材を転用して何かに使っているという痕跡が、他の遺跡ではほとんど確認できない。砂岩が多く見られるのは、飛鳥宮跡、飛鳥京跡苑池、竹田遺跡くらいで、勝手に使用されていた石材を持ち運んだり、転用したりすることはできなかったと思われる。牽牛子塚古墳で一点のみ砂岩が出土している。
竹田遺跡からは、埴輪や古墳に副葬されたような須恵器、生活に使われている土器類、瓦、金属製品など様々な種類の遺物が出土している。合計約460点の埴輪片が出土しており、酒船石遺跡からも、いくつかの形象埴輪、円筒埴輪が出土している。飛鳥宮東側山裾付近では、少なくとも6世紀前半には、古墳が築造されており、古墳の経営母体の集落遺跡には飛鳥寺下層などがある。
墨書土器には「大寺」の文字があり、飛鳥寺(法興寺)との関連性が考えられ、硯やベルトの飾りであった可能性がある金具などの出土から、集落に「官人」的な識字層が存在していた可能性がある。
土製品は、瓦・鴟尾・塼・土馬・鞴羽口などが出土。
東山カワバリ遺跡は、竹田道を挟んですぐ南側に展開する遺跡で、多くの瓦が出土している。飛鳥寺の鴟尾が出土しており、竹田遺跡に近接することや、飛鳥寺に近いことなどから、竹田遺跡同様に、ある時期、飛鳥寺と何らかの関わりをもっていたと考える。
確認された最大の建物は、飛鳥地域の中でも大形の部類に入る。竹田遺跡付近は、大字「八釣」がすぐ東側に展開しています。万葉集の歌に柿本人麻呂と歌をやりとりする中で、天武天皇第十皇子である新田部皇子が、矢釣山の麓に居を構えていた可能性を示唆するような反歌があり、皇子の邸宅であった可能性もある。
「矢釣山木立も見えず降りまがふ雪の騒ける朝楽しも」
矢釣山の木立も見えないほど舞う雪の朝は何と心楽しいことだろう
柿本人麻呂が新田部皇子の館に向かう時の歌。
八釣マキト古墳群
この古墳群は、酒船石遺跡で亀形石造物が発見された同じ年に発掘された。南東から北西に延びる丘陵尾根上に横穴式石室や小石室などが、合計7基あった。古墳自体は消滅し、1号墳と4号墳の石室が古墳公園へ移築され、5号墳が、飛鳥資料館中庭に移築された。
古墳は6世紀中頃から築造が開始され、7世紀前半頃まで継続して営まれた。古墳は、北西から南東へ、5号墳、1号墳、3号墳、4号墳、2号墳、6号墳というならびで築造されており、築造順は1号墳(6世紀中頃)→2号墳(6世紀中頃~後半)→5号墳(6世紀後半)→3号墳(7世紀初頭)→4号墳(7世紀前半)。
1号墳は18m程度の円墳。地山を掘り込み墓壙とし、右片袖式の横穴式石室で全長6.05m、玄室長3.55m。奧壁は大きく4段で、壁面が、ほぼ垂直に積まれている。
出土遺物は、土器・装身具・武器・武具・馬具。
土器は、須恵器の高杯・器台・短頸壺・子持蓋。
装身具として耳環・銀製空玉・滑石製玉・ガラス玉。耳環は3点出土しており、いずれも銅芯で、薄く延ばした金を被せる。銀製の空玉は、薄い銀板2枚を、別々に扁平な半球状に打ち出し、それらを接合したもの。ほとんどが押しつぶされた状態で出土。ガラス玉は143個。
武器は大刀・刀子・鉄鏃が出土。刀子には、責金具と鞘尻金具があり、いずれも金製。
武具は、木製箱形の本体に革と布を重ね、上から金具を打ち付けた胡籙金具。
馬具は、ほぼ一背分の部品が出土。鞍金具は前輪と後輪の州浜金具が各一点。鞖が一点。州浜金具は、鉄地金銅張。縁金具は、頭のみ銀張した鉄釘を使用し、木製鞍に固定。他にも鉄地銀張の雲珠などが出土。
4号墳は、最も小さな石室を持つ古墳。石室の構造も、他の古墳とは異なり、竪穴系の小石室でした。石室規模は77㎝×55㎝で、2石2段や3石2段の壁面構成で、天井は消失。床面に石は敷かれていないが、中央北寄りと南寄りに15~30㎝の扁平な石を並べて棺台の可能性がある。出土遺物は須恵器杯二点。この土器が、古墳の時期を確定する根拠となっている。
当地を治めていた有力豪族層として、その候補の一つに中臣氏の名前を挙げている。
1号墳石室
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4号墳の小石室
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弘計皇子神社を通過。
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高家一ッ橋古墳
高家一ッ橋古墳は、道の北側、給水塔の東側にあったが消滅。横穴式石室を持つ約17mの円墳とされている。
遺物には須恵器、銀製空玉、不明鉄製品、不明銀製品。空玉は八釣・東山古墳群から出土した銀製空玉と同じ技法で蛍光X線分析の結果、純度の高い銀製。金アマルガム手法による鍍金がなされていた。出土した須恵器杯身で6世紀後半の時期が考えられている。
高家一ッ橋古墳のあった尾根を見上げる。
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高家(たいえ)ヒラノ2号墳
峠の頂上ではお地蔵様の道路を挟んだ右手に、高家ヒラノ2号墳の横穴式石室がある。両袖式の横穴式石室は玄室が4.1m、羨道長5.2m以上。馬具・耳環・土器などが出土。
高家古墳群は発掘調査された古墳の数が45基。未確認の古墳も含めて、100基近くの数にのぼるのではないかともいわれる。古墳の築造時期は、6世紀の末葉から7世紀前半が主体。
高家ヒラノ2号墳の石室で説明を聞く
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高家ヒラノ2号墳の石室
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高家ヒラノ2号墳の石室を上からみる。
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高家ヒラノ2号墳から飛鳥を望む。
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春日神社境内古墳
高家ヒラノ2号墳から南、尾根筋に春日神社境内にある。その中に、古墳の石材ではないかとおぼしき石が多数存在する。
春日神社への長い階段を登る
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春日神社本殿
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春日神社古墳石材
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春日神社から二上山、畝傍山を望む。
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桜井市から天理市、若草山までの地形や景観が一望できる。
地元の方によると、条件次第で比叡山が目視できるとのこと。
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一乗寺で昼食。
お寺の東側一帯が高家古墳群
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宮内庁指定崇峻天皇陵通過。
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倉橋柴垣宮伝承地通過
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梶山古墳群
梶山古墳群が築かれているのは音羽山の北側麓付近。尾根の先端付近には、溜池に埋没してしまった古墳も何基かある。そのうちの4基が発掘されており、須恵器などが出土。水没を逃れた古墳は、両袖式横穴式石室で、現存しているものがあります。
梶山古墳は全長8.5m、玄室長3.6mで、遺物が出土していない。石材の積み方などから6世紀後半から7世紀初頭頃築かれたと考えられている。
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赤坂天王山古墳群
赤坂天王山古墳群墳丘図
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赤坂天王山古墳群に関する記録は、早くも江戸時代には登場。大正年間になると奈良縣史蹟勝地調査会によって調査が行われ、石室・石棺の実測図が作成された。同じく昭和初期に墳丘の測量を行っている田村吉永によって「赤阪天王山古墳」の名称が初めて使用された。
1号墳は6世紀末~7世紀初頭にかけて築造された、約50mの方墳。墳丘は三段築成。「天王山式」の指標となる横穴式石室は両袖式で、玄室長6.5m、羨道長8.8m以上。
広陵町牧野古墳の石室と規格の上での親縁性が指摘されている。
奧壁は3石3段で側壁、奧壁は、持送りで天井石は2石。
石棺は流紋岩質凝角礫岩で製作された刳抜式の家形石棺、身も蓋も、ほぼ完存。表面にはベンガラが付着。
先行する古墳群の中に後から一号墳が築造されたのではないか。
1号墳石室開口部。
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3号墳墳丘
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3号墳石室開口部
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2号墳墳丘
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2号墳石室開口部
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石室見学組と石室を見ない組に分かれて近鉄朝倉駅に向かう。