日時:2021年11月21日(日)10:00~
案内:吉村和昭 学芸課長
行程:新田辺駅→興戸廃寺跡→京田辺市中央公民館(展示室)→興戸古墳群→薪神社→堀切古墳群→大住車塚古墳・大住南塚古墳→月読神社→JR学研都市線大住駅(解散) 全行程 約13㎞
集合は京田辺駅
京田辺市は、山城国南部にあたり、河川流域では、木津川の左岸に位置しています。平成9年に市制を敷くまでは田辺町でした。田辺町は明治39年に村から町となりますが、昭和26年には、周囲の大住村、普賢寺村、草内村、三山木村と合併して現在の規模となりました。今回歩くのは、旧田辺町と旧大住村の範囲となります。
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JR線路上にかかる煉瓦造りの三連の跨線橋(馬坂跨線水路橋)の上に天井川の馬坂川が流れる。明治31年の竣工。
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興戸遺跡・興戸廃寺
興戸遺跡は縄文時代から中世にかけての複合遺跡で南北約900m、東西約500mに及ぶ。奈良時代から平安時代の山陽道を意識した区画をもつ掘立柱建物などが発見されており、遺物には二彩陶器、土馬、斎串などを含み、官衙的な性格をもつものとみられる。
興戸廃寺は、興戸遺跡の西寄りの小高いところに位置する。飛鳥時代後半から平安時代にかけての軒丸瓦、軒平瓦、鬼板瓦(図3)が採集されたが、発掘調査がおこなわれていない。飛鳥時代末に創建された寺院であったとみられる。
京田辺市中央公民館文化財展示室
展示品は興戸廃寺の瓦、堀切古墳群の武人埴輪、馬形埴輪、円筒埴輪、大住南塚古墳の円筒埴輪片、飯岡車塚古墳の円筒埴輪など。
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堀切7号墳出土 イレズミの武人埴輪
堀切7号墳出土 人物埴輪
中央公民館裏手には堀切6号横穴墓に納められていた組合式家形石棺が展示されている。
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興戸古墳群
中央公民館の南側の丘陵、興戸古墳群へ向かう。
弥生時代後期の方形台状墓(5号墳)を含む、古墳時代前期を中心とした総数10基からなる古墳群。
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1号墳は標高88mの最高所に位置しており、東側の低地との比高差は約50m。
後円部を東に向けた小形の前方後円墳で、全長約24m、後円部径約17m、高さ約1.5m、前方部幅約7m。墳丘北側と南側に周溝を持ち、粘土槨は南北に主軸をとる。粘土槨が後円部中央からは大きく外れていることから、複数の主体部の存在が推定される。築造時期を特定できる遺物は出土していない。
墳丘盛土には弥生時代中・後期の土器を含み、盛土の下部から弥生時代後期の竪穴住居跡(南北2m以上×東西1m以上)、北へ離れた位置からは柵跡が出土。この丘陵に弥生時代後期の高地性集落が営まれていたこと、中期にも土地利用があった。
1号墳墳丘図
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2号墳は直径28mの円墳で、昭和17年に墳丘で採集された家形埴輪が京都大学考古学研究室に持ち込まれた。18年に調査がおこなわれ、墳丘に残る空洞から、割竹形木棺が腐朽したところに粘土床と被覆粘土が原形をとどめた形で観察された。空洞内からは内行花文鏡、管玉、石釧、鍬形石、管玉、剣のそれぞれ破片が採集された。
大正3年~5年に2号墳から盗掘された遺物と推定される、内行花文鏡2、管玉、車輪石・鍬形石・石釧の腕輪形石製品のなかの京都大学所蔵の内行花文鏡が、調査時採集の鏡片と接合したことから、2号墳の副葬品であることが確定。内行花文鏡は3面であったことも判明。
この主体部は墳丘中心よりかなり南東寄りであることから、主体部は複数であることが想定される。
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9号墳
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京田辺中央公園で昼食
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酬恩庵(一休寺)
鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。元弘の乱(後醍醐天皇の倒幕の戦)で焼失。6代の法孫一休禅師が康正年中(1455〜6年)に堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名。一休禅師はここで後半の生涯を送り81才で大徳寺住職となった時もこの寺から通い文明13年(1481年)11月21日88才で示寂。遺骨は当所に葬られた。
紅葉の山門を横目に先に進む。
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薪神社
酬恩庵前の道の奥には薪神社がある。この地にあった天神社に同じ地区内にあった八幡社が合祀されて、明治40年に薪神社となる。祭神は天津彦根命、応神天皇。
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拝殿南東にはもとは甘南備山山頂にあって、月読命が依り付いたと伝えられている「影向石」が祀られている
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堀切古墳群
堀切古墳群分布図
薪神社南側の丘陵に位置する後期群集墳の1つで、円墳10基、横穴墓10基の存在が知られている。甘南備山から北東に延びる標高約65~80m、南北方向の谷をはさんだ東西の丘陵に分布。
円墳は直径20m前後の規模で、横穴式石室を主体部としている。横穴墓の大半は西側丘陵斜面に位置する。
第Ⅰ期(6世紀前半):群の造営開始。西側丘陵の5号墳、7号墳など埴輪をもつ横穴式石室墳が築造される。
第Ⅱ期(6世紀後半~7世紀初頭):西側丘陵(4・9号墳)とともに、東側丘陵でも古墳の築造が開始される(1・11号墳)。横穴墓の築造が始まる(組合式家形石棺をもつ6号墓)。
第Ⅲ期(7世紀前半):古墳の築造停止。横穴墓の築造が主体となる。
第Ⅳ期(7世紀後半~8世紀):横穴墓の築造停止。一部に8世紀まで追葬が認められる(10号横穴墓など)。
7号墳は、墳丘の大半が削平されていたため主体部は不明。周溝から須恵器器台、須恵質の円筒埴輪、形象埴輪の人物埴輪、馬形埴輪、靫形埴輪が出土。円筒埴輪では大きく焼け歪んだもの、人物埴輪では顔面に直弧文風の刺青をした男性埴輪が注目される。
横穴式石室の規模をみると、全長9.3m、羨道長4.7m、玄室長4.6mを測る一号墳が最大で、かつ唯一の両袖式石室。
11号墳は玄室石材がほとんど抜き取られているものの、全長8.5m以上でおそらくは1号墳と同程度の規模を有する。
1号墳石室は全面石敷きで、二上山産凝灰岩の組合式家形石棺が置かれている。石室内から、鉄鉾、鉄鏃の武器、馬具(轡・雲珠・座金具・鐙兵庫鎖・鉸具など)、刀子、ガラス小玉、須恵器、土師器の豊富な副葬品が出土。一方、11号墳は盗掘、石室破壊のため、破片化しているが、二上山産凝灰岩の組合式家形石棺片、土師質亀甲形陶棺片が出土。前者が初葬、後者が追葬棺と考えられる。
横穴墓は、平面形が逆台形状、あるいは徳利状で、玄室天井はかまぼこ形を呈する。遺体を直葬したもの(4・5号墓)、棺台石の存在から木棺と推定されるもの(7~10号墓)、石棺を納めたもの(6号墓)がある。玄室規模は6号墓が最大で残存長4.6m、玄室奥壁幅2.6m。石棺は組合式石棺で、石材は播磨の竜山石。石棺内には成年前半の女性一体が葬られていた。
10号横穴墓では追葬にともなう銅製帯金具が出土していて、その利用が8世紀まで続くことがわかる。
6世紀後半以降、堀切古墳群が立地する京田辺市北西部から八幡市美濃山にかけての丘陵部を中心に横穴墓群が集中。飯岡、堀切、松井、荒坂、女谷、美濃山、狐谷の各横穴墓群で、総数は200基を超える。
4号墳と4,7,8,9,10号横穴墓のあった小学校敷地
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室町時代、隼人正であった中原康富の日記『康富記』の記述に、山城国大住郷(現在の京田辺市大住付近)が隼人司領であることが記されています。これによりこの地が古代において、南九州の隼人が移配された土地であることがわかります。『正倉院文書』には、八6名の隼人の名が記された計帳の断簡、いわゆる「隼人計帳」があり、永らく国郡未詳とされてきたが、西田直二郎によって、山城国大住郷のものであることが確定した(『洛南大住村史』)。この成果により、この地に集中する横穴墓と隼人の関連が説かれるようになり、堀切七号墳の直弧文の刺青をした人物埴輪も同じ文脈で語られることがあった。しかしながら、隼人の畿内への移配は天武朝(7世紀後葉)以降のことで、横穴墓の築造年代までさかのぼると考えること、ましてや6世紀前半の埴輪と関連づけて考えることは難しいと言わざるを得ない。
大住南塚古墳、大住車塚古墳
古墳は岡村・東林集落の中間の緩い斜面地に位置し、両者とも後方部を南東、前方部を北西に向けた前方後方墳。前期後半の築造で、南塚が先行するものとみられる。
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大住車塚古墳は全長約66m、後方部一辺約30m、高さ約4.5m、前方部幅約18m、高さ約1.5m。周囲の長方形の周濠がよく観察できる。発掘調査がおこなわれていないため、詳細は不明。竪穴式石室があるとの地元の伝承がある。
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大住南塚古墳は、全長71m、後方部一辺37m、前方部幅30mの前方後方墳。周濠は平面長方形で、外堤内側で103m×73m。円筒埴輪、楕円円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪が出土。明治27年頃に開墾で竪穴式石室が発見され、石製品と刀剣類が出土。
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月読神社
延喜式内社で、祭神は月読尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊。現在の本殿は一間社春日造で、明治26年の再建。例祭(10月14日)には「大住隼人舞」が奉納される(京田辺市指定無形民俗文化財)。これは古代、宮中儀式において隼人が演じた歌舞を偲んで、鹿児島県薩摩川内市日枝神社の隼人舞をモデルに昭和46年に復元されたもの。
月読神社に着く
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隼人舞の碑
最期の説明を聞きJR大住駅に向かう。