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日時:2021年10月17日(日)10:00~
案内:鶴見泰寿 資料係長
行程:北大江公園→難波津推定地→戊申年木簡出土地点→法円坂遺跡・前期難波宮跡内裏西方官衙→難波宮跡→上町谷窯跡→三光神社→真田丸跡→細工谷遺跡(百済尼寺)→堂ヶ芝廃寺(百済寺)→摂津国分寺跡→四天王寺(解散)

 上町台地は大阪市中心部を南から北へ延びる細長い台地(標高20メートル前後)で、かつては、東は平野川・河内湖、北は大川、西は天満砂洲・大阪湾によって囲まれ、周囲には数多くの谷が入り込んでいて、「清水谷」「細工谷」「桃谷」などの地名が残る。

 上町台地の開発は5世紀前半にさかのぼる。この頃の遺跡は一般的な集落ではなく、初期須恵器生産・玉製作・鍛冶生産などの上町台地付近のヤマト政権の重要な施設で使用される物品を製作する官営工房であった。

 上町台地はヤマト政権にとって外交上の重要な場所であり、5世紀から7世紀にかけて迎賓館や倉庫群が置かれた。大化元年(645)に難波宮を造営した最大の理由は外交戦略上のもの。

北大江公園

 集合は北大江公園。

この付近は上町台地の北西の縁で、北側が難波津推定地であり、朝廷の迎賓館などの施設があった小郡の候補地。

『日本書紀』によると

・応神22年3月応神天皇は難波の大隅宮に行幸。

・仁徳元年、仁徳天皇は難波高津宮に遷る。

・仁徳11年4月に治水工事の詔を出し、10月に北を掘って南から入る水を西の海へ流す難波堀江の掘削を行なった。難波津はヤマト政権直轄の港。

・継体6年12月の記事には、ヤマト政権が設置した迎賓館、難波館(なにわのむろつみ)が初めて登場。

・安閑元年10月に安閑天皇は難波屯倉を設置。

・欽明13年10月の仏教伝来の記事によると、蘇我稲目が小墾田家に仏像を安置し向原家を寺としたところ、国に疫病が流行し物部尾輿と中臣鎌子が天皇に奏上して仏像を難波堀江に流し棄て、寺を焼いた。

・欽明22年、難波大郡において、新羅の使者が貢物を献上する時に百済の下位の序列にされたとして激怒して帰る。上町台地東の河内湖沿いにあったと推測されている。この翌年に任那官家が新羅によって滅ぼされた。

・敏達12年、任那復興のために百済から日羅(百済の高官で父は肥後国の火葦北国造)を招聘して難波館でヤマト政権の大夫と会談。難波館には門があり、内部に庁があったことが記事にみえる。

・推古16年(608)4月、遣隋使小野妹子が裴世清を伴って帰国すると、隋使のために高麗館の上に新たに館を造営。難波には高句麗・百済・任那のための三韓館があった。9月に隋の客人を大郡に招き帰国前の饗宴を開く。

・舒明2年(630)に難波大郡三韓館が改修された(『日本書紀』)。これは同年3月から9月にかけて高句麗・百済の使者が来朝したためとみられます。

・皇極4年(645)大夫等を難波の郡に派遣し、高句麗が献上した金銀その他の品々を受け取る。

・大化元年(645)難波遷都

長年にわたって難波が外交の舞台として重要であったことが、大化改新のあと難波に遷都することにつながる。

大化改新を経て、都が難波から飛鳥に戻った後も、難波館は存続。

・持統6年(692)11月「新羅の朴憶徳を難波館にて饗禄す」

・大宝3年(703)閏4月「新羅の客を難波館にて饗す」

法円坂遺跡

 5世紀頃までは上町台地に人が集住した形跡はあまりないが、5世紀前半からヤマト政権による上町台地の利用が始まる。

法円坂遺跡の大倉庫群で、みつかった遺構は、5間×5間(一辺約10メートル)の高床総柱建物16棟が東西2群に分かれて、正方位で東西南北に合わせて整然と並ぶ。この倉庫群は瀬戸内海水運と大和川水運の結節点としての難波津に設定され、国内だけではなく外交の拠点として利用された。現地には建物跡が表示され、倉庫の一棟が復原されている。

 倉庫群は5世紀後半に廃絶するが、上町台地は6世紀にさらに発展。

積山洋さんは「法円坂倉庫群の廃絶後、6世紀を通じてその規模を拡大し、6世紀末~7世紀初頭つまり推古朝(593~628)のころにほぼピークに達し、人々の大規模な集住が続く」としている。

復元倉庫

倉庫跡を示す石が埋め込まれた広場

難波宮

・孝徳天皇は大化元年(645)6月に即位すると、12月に難波へ都を遷すが、前期難波宮に入ったのは5年後の白雉元年(650)12月晦であった。

・大化2年正月是月条 難波狭屋部邑(さやべのむら)の子代屯倉を壊して行宮(子代離宮)を造り御す

・大化2年9月に蝦蟇行宮(かわづのかりみや)に御す

・大化3年(647)に朝廷の迎賓館などの施設があった小郡を壊して宮の造営を行う(小郡宮)。吉川真司さんは子代離宮小郡宮と考えている。大郡の施設は上町台地の東側にあった。(欽明22年是歳条・推古16年九月条・舒明2年是歳条)。

 小郡宮の所在地については諸説あり、吉川真司さんは大坂城の北の低地、西本昌弘さんは中央区石町付近(集合場所の北大江公園付近)を想定。いずれにせよこの段階までの宮は上町台地上ではなく周縁部であった。

白雉元年(650)正月の元日朝賀は味経宮(あじふのみや)で受けた。『和名抄』に東生郡味原郷(天王寺区小橋町、味原町付近か)がみえるが難波長柄豊碕宮と同一場所と解釈するのが適切

 白雉元年12月晦、孝徳天皇は大郡宮から難波長柄豊碕宮へ遷る。これが前期難波宮跡。全体が完成したのは白雉3年(652)9月。『日本書紀』は「宮造ること已に訖りぬ。其の宮殿の状、殫に論ふべからず」と記し、それまでの天皇の宮とは全く異なる様であった。孝徳朝の政治は儒教・仏教の思想とそれに基づく文明化で、国博士旻の影響が大きかったとみられる。難波宮もそうした政策の一つ。

 難波宮造営の監督「将作大匠」として渡来系の荒田井直比羅夫(倭漢直比羅夫)が任命されたことが白雉元年(650)10月の記事からわかります。なお、倭漢直比羅夫は大化3年(647)4月に難波の溝掘り失敗し、孝徳天皇は自分の責任として工事を中断。

 この場所には生国魂社があったことが孝徳即位前紀の記事「仏法を尊び、神道を軽りたまふ。生国魂社の樹を斮りたまふ類、是なり。」からわかる。難波宮造営に際して神社の樹木を伐採したのでしょう。

難波大社・難波生国魂神社・難破坐生国咲国魂神社(延喜式)とも呼ばれましたが、天正11年(1583)に大坂城築城のために現在の場所に移転、慶長11年(1606)に豊臣秀頼が社殿を造営したが、大坂夏の陣と明治45年の大火、大阪大空襲などで焼失。

前期難波宮跡

 前期難波宮跡は東西・南北ともに約650mで、中央南側に朝堂院、中央北側に内裏が配置。内裏前殿、内裏後殿、東西八角殿、内裏南門、朝堂院、東方官衙、宮城南門などの遺構がみつかっている。すべて掘立柱建物で、瓦が出土しないことから板材や檜皮で屋根を葺いたとみられる。柱は日本の伝統的な素木ではなく中国風に赤く塗られたものであったかもしれない。

 朝堂院は南北263m、東西233m。平城宮朝堂院とほぼ同規模、藤原宮朝堂院より南北長が少し短く、飛鳥の宮と比較すると桁違いの規模・規格の施設。

藤原宮・平城宮の朝堂は東西各6棟、合計12棟。前期難波宮跡では東西各7棟、合計14棟。

 内裏前殿は、内裏南門を挟んで朝堂の北側にある。現在は道路の下になっている。

東西9間(約37m)、南北五間(約19m)の大型四面廂建物で、北面中心から軒廊が延びて内裏に接続する。

前殿南側は東西約75m、南北約45mの砂利敷き広場となり、天皇の前に大臣らが整列して政務・儀式を行なった重要な場所。

内裏南門の左右には柱列で囲まれた区画があり、それぞれの中心に八角殿が配置されている。柱穴は三重で最外部のものは木製基壇の柱とみられる。仏教的な要素を指摘する説もありますが、藤原宮・平城宮の事例から楼閣的な施設になると考えられる。

 天武天皇は天武8年(679)に難波に羅城を築き、天武12年(683)に複都制の方針を打ち出して難波をもう一つの都とする。しかし、難波宮は朱鳥元年(686)正月に焼失。『日本書紀』は「酉の時、難波大蔵省に出火し、宮室悉く焚けぬ」と記す。酉刻は午後6時頃です。内裏西方官衙の発掘調査では、倉に囲まれた建物が火災に遭ったことが確認されたが、幸いなことに敷地北辺や西辺に配置された倉庫には延焼しなかったようである。西風にあおられて東方へ火災が広がったとみられる。倉庫群を管理した建物が出火元の大蔵省の一部とみられる。

前期難波宮の説明を聞く

内裏前殿は道路の下

八角殿の前を通って後期難波宮大極殿へ向かう

内裏西方官衙

 大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の建設工事に伴う調査で、宮跡の西北相当から北・西を区画する柱列とその内側に展開する8棟の倉庫群がみつかりました。北辺に位置する東西方向の倉はいわゆる「双倉」で、3~4棟の倉が一つの屋根で繋がった巨大なものです。これらの倉庫によって囲まれた中心には管理棟とみられる火災痕跡がある掘立柱建物がある。出火した「難波大蔵省」の一部とも考えられる。

宮跡西北隅では花崗岩で護岸した湧水池から石組み暗渠で北西へ排水する水利施設がみつかっており、台地上にあった難波宮で使われたとみられる。 

 この水利施設から北へ約150mの地点(大阪府警察本部)で、幅約50m、深さ約8mの谷を埋め立てた層から絵馬や木簡が出土。木簡は「戊稲稲戊申年□□」(戊申年:648)と書かれており前期難波宮跡の造営が孝徳朝まで遡ることがあらためて確認。

大阪歴史博物館北側の柱跡を示す石。

内裏東方官衙

前期難波宮跡の東部は天武朝の火災を受けていない。東八角殿の東約300mの一帯には8群の区画があり建物が規則的に配置されている。北に倉庫、その南に東西棟、さらに南に南北棟が向かい合わせになるパターンがとられ、官衙とみられる。東方官衙群の一角には回廊で囲まれた区画があり五間の南門がある。区画の中央には四面廂の南北棟建物があり周囲は礫敷き舗装された格式の高い施設。文武天皇が文武3年(699)に行幸しているので、それに関する施設とする見方もある。

後期難波宮跡

・神亀2年(725)聖武天皇は即位翌年に難波宮へ行幸。ここから聖武朝難波宮が始まる。

・神亀3年(726)10月 聖武天皇難波宮へ行幸。藤原宇合を知造難波宮事に任命。

・天平4年(732)9月には石川枚夫を造難波宮長官に任命し、宮の造営が続く。

・天平6年(734)3月 難波宮に行幸。この頃には完成に近づいていたとみられる。

・天平12年(740)2月 行幸。

・天平16年(744)閏正月から2月にかけて難波宮に行幸し、恭仁宮へ戻った一週間後に高御座と大楯を難波宮に運ばせる。

・同年2月26日「今、難波宮を以て定めて皇都となす」という難波を皇都と定める詔が出され、難波遷都。聖武天皇が難波から紫香楽へ行幸している最中に元正太上天皇によって出された勅。

・同年3月11日 難波宮が正式な都となったことを示す儀礼、石上・榎井両氏が大楯と槍を宮門に立てる。

 『続日本紀』の複数の記事をまとめると、聖武朝難波宮には大安殿、東西楼殿、中外門、太政官庭、東南新宮があった。実際に発掘された後期難波宮跡では、大極殿・朝堂院地区と少し離れて北に内裏地区、宮の東部・西部に区画があった。

 大極殿跡は東西9間(35.2m)、南北4間(14.8m)。凝灰岩製基壇の正面に3カ所、東西両面にそれぞれ1カ所、北面に2カ所の階段があり、北面中央は軒廊によって後殿とつながる。後殿の東西から回廊が大極殿前方まで延び、大極殿院南門に接続する。南門の南側に設けられた朝堂院の朝堂は東西各四堂。いずれの施設も礎石建物で重圏文軒瓦が葺かれた。内裏地区は、複廊の内裏回廊の中に内裏正殿と前面に建つ前殿、区画塀などが検出されが掘立柱建物で大極殿院とは対照的。

前期難波宮跡と後期難波宮跡では中軸線が完全に一致。これは決して偶然ではなく、宮室の地として朝廷が維持管理を継続し、建物の正確な位置まで把握していたとしか考えられません。なお、奈良時代の難波宮は外交の表舞台となることはなく、後期難波宮跡の建物は長岡宮(784~794)に移築された。

後期難波宮大極殿

難波大道

 推古21年(613)11月「難波より京に至る大道」を整備しました。難波から南へ約10kmはなれた大和川・今池遺跡(堺市北区常磐町・松原市天美西)では、難波宮中軸線の延長上に位置する7世紀の道路遺構が検出されました。幅約1.2mの側溝を持つ路面幅約18mの直線道路で、検出長は170m。しかしながら、後に紹介する細工谷遺跡の発掘調査では、難波大道推定地の谷筋の埋没・造成時期が8世紀中葉以降となることから、上町台地上に7世紀代に朱雀大路が敷設されていた可能性に疑問が呈されています(ただし正方位の建物や溝が広く分布することから、都市計画やその中心道路が存在したことは間違いない)。

朝堂院南門跡から難波大道跡をたどって南下

朝堂院南門跡を示す石柱

真田丸跡

 真田信繁(幸村)が清水谷・空堀を背後に大坂城の出城として慶長19年(1614)の大坂冬の陣の時に築いたもので、東西約280m、南北約270mの規模と推測されている。真田丸は絵図「摂津真田丸」(広島市立中央図書館蔵)や、絵図「大坂 真田丸」(松江市立松江歴史館)にその様子が描かれている。真田信繁がこの場所に出城を築いた理由には諸説があります。大坂冬の陣終了後、真田丸は和議によって破却され、西側が真田山、東側が宰相山(加賀宰相前田利常が講和後に陣を置いたとされる)と呼ばれるようになった。

真田丸北側出丸跡 後方が主槨

真田丸説明板

真田丸東槨

三光神社

 もとは「姫山神社」と称し、三光宮(宮城県仙台市宮城野区、中風封じで知られる)を境内に勧請し、明治41年(1908)に合祀して「三光神社」に改称。境内には「真田の抜け穴」とされる穴がある。

境内の西側には真田山陸軍墓地が明治4年(1881)に創設された。墓地には約5000基の墓碑が整然と並び、西南戦争から第二次世界大戦までの戦没者が葬られている。墓碑は軟弱な和泉砂岩製のため風化による損傷が激しく、近年は保存処理が進められている。

真田抜け穴と幸村像

陸軍墓地西端の段差。ブラタモリで紹介された真田丸東槨のへり。

加賀宰相前田利常が講和後に陣を置いたとされる宰相山公園で昼食

細工谷遺跡(百済尼寺)

 上町台地の南東には古代の百済郡が置かれていた。このあたりに勢力をもった百済王氏は百済義慈王の子であった善光を始祖とする氏族。善光は百済の人質として日本に滞在していたが、百済滅亡後に百済王氏の姓を賜わり日本の官人となった。奈良時代後半に河内国交野に移住するまで、この辺りが本拠地だったとされる。

 難波片江線建設工事に伴う大阪市天王寺区細工谷の発掘調査では、井戸や建物跡、谷筋に掘られた溝とそこに投棄された多量の遺物が発見された。特に注目されたのが「百済尼」「百尼」などと書かれた墨書土器で、付近に「百済尼寺」が存在することが明らかになった。「百済寺」とセットで造営された寺院。

 また、7世紀末~8世紀初頭の井戸から「上和尼父南部徳了王久支」と書かれた木簡が出土し、尼寺に家族が訪れていたことが推測される。尼寺の所在地は残念ながら明確でありませんが、遺跡の東側、筆ヶ崎の尾根先端付近が有力な候補地となっている。

 谷筋の溝には、工房から廃棄されたとみられる和同開珎の枝銭・バリ銭、帯金具・耳環・匙など金属製品、銅板切り屑・銅粒・鉱滓などの金属加工関連遺物が多量に出土。枝銭は銅製品を作るためのリサイクルの原料であった可能性や、付近に鋳銭工房があった可能性(私営工房説・官営工房説があり)が想定されている。

細工谷遺跡説明板

東側から細工谷遺跡を望む。奥の道路上が遺跡。

右ビル付近が百済尼寺がったといわれる筆ヶ崎。

堂ヶ芝廃寺(百済寺)

 天智3年(664)3月「百済王善光らを以て難波に居らしむ」(善光は百済義慈王の子)により百済王氏の寺とする説があり、『日本霊異記』第14話には「釈義覚は本百済の人なり。其の国破れし時に、後岡本宮御宇天皇の代に当たりて、我が聖朝に入り、難波の百済寺に住む」とあるので、斉明朝には百済寺が存在したとみられる。

 堂ヶ芝廃寺には、かつて基壇跡が残り瓦が散布していた。石田茂作は『飛鳥時代寺院址の研究』において「豊川稲荷を祀る禅宗寺がある。境内に入るに、所々布目古瓦片の散布を見る事は、附近の繁華に比べて異様な感を興さしむ」「社殿の背に當り、地勢隆起し二本の榎繁茂するところ、古瓦の散布の特に著しきを見る」と記しています(基壇跡とみられていた「地勢隆起」は発掘により近代のものとわかった)。

堂ヶ芝廃寺 禅宗寺

摂津国分寺跡

現在の国分寺は、延宝8年(1660)に僧南源が再興したとされる。付近から奈良時代の蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦の古瓦が出土することから国分寺跡に当てられている。古代の文献には摂津国分寺はほとんどみえないので立地や変遷などは不明。「国分寺」は大阪市内に他にもあるが、瓦が出土したことから天王寺区国分町が有力。

国分寺公園北側にある現在の国分寺(ガレージで封鎖されていた)

四天王寺

 聖徳太子創建の寺院の一つ。南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置。

崇峻即位前紀 物部守屋征討の時に勝利を祈願

推古元年 難波の荒陵に四天王寺を造営。

推古31年7月 百済から贈られた舎利・金塔・幡などを四天王寺に納めた。

中心伽藍はその後、何度も焼失と再建を繰り返す。

昭和9年の室戸台風で五重塔・中門が倒壊、金堂も大破。昭和15(1940)に再建。

昭和20年3月の大阪大空襲で焼失し、昭和38年(1963)再建。

亀井堂亀型石槽は元興寺文化財研究所の調査報告書によると上下水槽は竜山石製で上水槽の花崗岩製亀甲・頭部は後世に付加されたもの。本来の上水槽は横長四角形だったようで、明日香村酒船石遺跡の導水施設により類似した形状になる。竜山石の利用は古墳時代に盛んとなり7世紀末頃までに衰退していくので、亀井堂の亀形石造物は四天王寺創建期、あるいは孝徳朝前後の時期が想定される。

四天王寺東門から入る。

四天王寺伽藍

四天王寺西門(さいもん)で説明を聞き解散。天王寺駅や四天王寺前夕陽丘駅に向かう。

                              本文中の説明は会報より引用

 大阪湾に沈む夕日を眺める絶好の場所で、人々は四天王寺の西門に立って、鳥居の向こうに沈む夕陽に向かって極楽浄土を祈った。

1236年(嘉禎2年)に歌人・藤原家隆が、太陽の没するさまを眺め浄土を観想するために、『夕陽庵』(せきようあん)を建て移り住んだ。夕陽丘の地名の由来とされる。

「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入り日をおがみつるかも」家隆