日時:2021年 9月19日(日)10:00~
案内:平井 洸史 学芸課主任技師
集合:近鉄南大阪線上ノ太子駅南口
行程:叡福寺北古墳→春日向山古墳→山田高塚古墳→二子塚古墳→葉室公園→一須賀古墳群→近つ飛鳥博物館前バス停・解散
集合場所の上ノ太子駅付近は、「近つ飛鳥」と呼ばれる。この地名は、『古事記』履中天皇段にみる「近飛鳥」に由来するもので、『日本書紀』履中天皇即位前紀にも当地域に「飛鳥山」の名称をみる。古代には鉢伏山の北側を含めて安宿郡とされており、「飛鳥」の字名は上ノ太子駅北側の飛鳥戸神社を中心にいまも残る。一須賀古墳群や敏達、用明、聖徳太子、推古天皇陵が築かれたこの一帯は古墳時代後期から飛鳥時代にかけて、大和の飛鳥と同じく多くの先進文化が華開いた土地であった。今回は平井先生の案内で王陵の谷磯長谷と南河内の大群集墳と一須賀古墳群を巡る。
上ノ太子駅
きれいに整備された上ノ太子駅南口に集合。
手や指の消毒と検温を実施して参加者確認のため封筒を集める。
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会長と平井先生の挨拶のあと叡福寺に向けて出発。
叡福寺
叡福寺に到着。
四天王寺や、下の太子(大聖勝軍寺)、中の太子(野中寺)とともに、太子信仰の霊場。聖徳太子は推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)49歳で薨去後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女と、2か月前に亡くなられた母穴穂部間人皇后と共に埋葬されたという。今年は1400年忌にあたり春に法要があった。
叡福寺縁起境内古絵図は椿井文書とも。
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境内で平井先生の解説を聞く。
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叡福寺北古墳へ向かう。
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叡福寺北古墳
聖徳太子墓とされ、太子信仰の対象となってきた。墳丘は3段築盛の円墳であり、直径は南北約43m、東西約53m。主体部である横穴式石室については、江戸、明治時代における記録が残っており、とくに明治12年の宮内省における調査報告には石室細部の寸法が記録されています。これらデータをもとに梅原末治氏と森本六爾氏は復元を試み、梅原氏は明日香村岩屋山古墳との類似性を指摘しており、石室の築造は格狭間を施した棺台および紵棺とも7世紀中葉以降と推測される。叡福寺北古墳が聖徳太子墓だとすると、太子の没年からは数十年の開きがあり改修・改葬の結果とみる意見と、岩屋山式石室の出現時期をさかのぼらせる意見がある。
聖徳太子霊廟
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叡福寺北古墳 西から墳丘(段築がみえる)
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墳丘横の石塔。台石は石棺?
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太子和みの広場にある叡福寺北古墳の石室模型
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松井塚古墳
叡福寺の東側の太子和みの広場には松井塚古墳の石槨が移設されている。
松井塚古墳は、山田高塚古墳の北方約300m、仏陀寺古墳の西側に所在する古墳であり、宅地内の井戸掘削に伴って偶然発見された。埋葬施設は、凝灰岩の刳抜式家形石棺の小口に横口部を設け、石扉をはめる構造の横口式石槨。
横口式石槨は南河内地域において出現し、とくに河内と大和のふたつの飛鳥で多く採用された新たな埋葬施設。いくつか種類のあるうち、松井塚古墳のような家形石棺の小口に横口を設けたものは「石棺系横口式石槨」とされるもので、隣接する仏陀寺古墳や富田林市お亀石古墳、羽曳野市小口山古墳などでもみられる。松井塚古墳のものは蓋と身が分かれており、蓋はお亀石古墳例にみるような縄掛け突起をもたない。松井塚古墳の石棺形施設のまわりは形骸化した石室が構築され、その間には礫が充填されていた。お亀石古墳の場合は瓦によって充填されている。
石槨内では人骨とともに多量の土師器片が出土しており、副葬品としてではなく遺骸を置くために床全面に敷かれた可能性が想定されている。土師器および石槨の特徴から築造時期は7世紀中葉以降と考えられている。
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尼ケ谷(あまんたに)古墳
松井塚古墳の移築石槨の隣に尼ケ谷古墳の横穴式石室が移築復元されている。尼ケ谷古墳は春日向山古墳の西側200mほどの位置に所在し、太子中央線の延長にともなう発掘調査によって新しくみつかった古墳。
墳丘規模が20m程度の円墳もしくは方墳で、横穴式石室は全長8.8mの両袖式。比較的小さな石材を用いており、特に羨道部はかなり小型。石室内からは多くの土器および鉄釘が出土しており、6世紀後葉に築造されたのち7世紀に釘付式木棺での追葬がなされたと推定される。つまり、尼ケ谷古墳は磯長谷の王陵に隣接し、時期的にも並行する古墳。石室からは垂飾付耳飾の一部と考えられる金環が出土。
春日向山古墳(用明天皇陵古墳)
南東から春日向山古墳墳丘。
春日向山古墳は叡福寺北古墳より南東600mにある。東西66m、南北60mの三段築盛の方墳。後世の修陵によって整備された可能性もあるが、現在墳丘の周りには浅い濠と堤がある。江戸時代の記録に「石棺」が露出していたこと、洞穴が一つ開いていて大石があることが記載されているため、横穴式石室一基が存在したとみられる。
宮内庁により聖徳太子の父用明天皇陵に治定されている。敏達のあとを継いだ用明は、『日本書紀』、『古事記』によると、はじめ大和の磐余池上陵に葬られ、推古元年(593)年に河内磯長に改葬された。
山田高塚古墳(推古天皇陵古墳)
南西から山田高塚古墳。
山田高塚古墳は春日向山古墳の南東約700mにある、東西66m、57mの方墳。墳丘は三段に築かれており、上段はとくに長方形。埋葬施設は南向きの横穴式石室が東西に4mの間を隔てて並んでいると考えられており、墳丘南斜面に露呈している石材のうち西石、東石とされる2石は2基の横穴式石室のそれぞれの羨道天井石とされる。近世の記録には東側の石室に二つの石棺が納められていたようすが記されている。
推古の墓については、『日本書紀』によるとはじめ竹田皇子の墓に葬られたとされ、『古事記』によると「大野岡の上にありしを、後に科長の大陵に遷す也」とされています。そして『延喜式』では「磯長山田陵」とされており、現在、山田高塚古墳がこれにあてられている。築造時期は7世紀前半ごろと考えられており、推古の改葬墓とみたとき時期的な齟齬はない。双室墳であることは竹田皇子とともに改葬された様子を思わせる。
推古の初葬墓としては橿原市植山古墳が有力視されている。植山古墳もまた長方形の墳丘をもつ双室墳であり、規模は山田高塚より一回り劣る。石室と須恵器から、東石室は6世紀末、西石室は7世紀前葉と推測されており、これもまた初葬墓として年代的な矛盾はない。
南東から山田高塚古墳墳丘
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二子塚古墳
山田高塚古墳(推古天皇陵古墳)の南東約200mに位置する古墳で、墳形は長方形の下段に二つの方形段をのせた「双方墳」とされる東西両墳丘には横穴式石室がある。墳丘長は長辺約69m、短辺約35mで7世紀中ごろの古墳としてはひときわ大きな古墳。現在も開口している東石室は玄室長4.6mの両袖式横穴式石室に極めて短い羨道が取り付き、それを人頭大の礫で閉塞していること、玄室内部には部分的に漆喰が残存する。大型横穴式石室の衰退していく過程に位置付けられる。玄室の家形石棺は突起をもたない蒲鉾型の蓋をもつもので、二子塚古墳を7世紀中ごろとする根拠の一つ。西石室は現在埋没しているが過去の調査において、石材の大きさや構成に違いはみられるものの、石室形態が東石室と類似し、同様の石棺がある。
山田高塚古墳の被葬者と深い関係にあった有力者の墓と推測される。
山田高塚古墳から二子塚古墳へ向かう。
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二子塚古墳墳丘は工事中で入れず。
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磯長谷古墳群・葉室支群
二子塚古墳から西へ延びる尾根を800mほど歩くと、葉室公園に到着。葉室公園には釜戸塚古墳と石塚古墳が所在し、東には葉室塚古墳、北にはモンド塚古墳が隣接。同一丘陵上には、塚穴古墳や天皇塚古墳などがあり、大型長方墳と中小の円墳・方墳による一支群をなしている。現状、磯長谷古墳群のなかで顕著な群構造を呈すのはこの葉室支群だけ。
葉室塚古墳です。墳丘は長方墳で、東西75m、南北55mで墳丘規模は陵墓に治定されている春日向山古墳や山田高塚古墳を上回る。墳丘は二段築盛とされ、東西に二つの石室をもつ双室墳と推測されている。
葉室塚古墳の北西に隣接する釜戸塚古墳は径45mの円墳で、盗掘坑の形態から横穴式石室が存在したと推測されている。6世紀~7世紀の円墳としては大型であり、南側に接する一須賀古墳群には見られない規模の円墳。
石塚古墳は径30mの円墳で、葺石があったとされる。かつて全長10.6m、玄室長6.1m、幅2.1m、高さ2.6mの岩屋山古墳にやや先行する型式の横穴式石室が確認されており、玄室に家形石棺、羨道に木棺が置かれていたとされる。
葉室公園で平井先生の説明を聞く。
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一須賀古墳群
一須賀古墳群の古墳分布と石棺の採用傾向(平井2020を一部改変)
葉室支群のすぐ南には、一須賀古墳群が位置している。渡来系要素の多い、5世紀末から7世紀初頭にかけて古墳の造営された古墳群で、現在23前後の支群、総数260基ほどが確認されており、平尾山古墳群や高安千塚古墳群などとともに河内を代表する群集墳。
一須賀古墳群最北端に位置するQ17号墳と葉室古墳群とは小川を挟んで200mも離れておらず、両者が異なる尾根上に占地し、谷地形で区切られが、近接するQ支群やO支群の形成は6世紀後半か7世紀初頭と、葉室古墳群と重なる時期をもつことから、両者が無関係とは考えにくい。
葉室支群には陵墓クラスの大型長方墳が含まれる一方で、互いに近接して古墳を築き、周濠を共有するなど群集墳的な特徴をもつ。また、近隣に塚穴古墳のような小規模墳が複数含まれる点も、群集墳に通じる。葉室塚古墳が双室墳で山田高塚古墳などとの関係性を示唆し、その双室墳が一須賀古墳群のB12号墳に確認される点も葉室支群と一須賀の関係を示唆する。
一須賀古墳群A支群とO支群の立地する二本の尾根の間を通り抜けると、大阪府立近つ飛鳥博物館に到着。
近つ飛鳥博物館に到着後昼食休憩、午後は一須賀古墳群の説明からスタート。
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一須賀古墳群I支群
一須賀古墳群 I―5号墳
博物館の駐車場および建物の位置にあったのが一須賀古墳群のI支群。一須賀古墳群ではこのI支群から造営が開始され、I支群では朝鮮半島の百済地域より伝わった横穴式石室の初期事例がまとまってみられます。それらの特徴は、玄室奥壁から見て右側に袖部をもち、小型横長の割石を積んで構築したものです。玄室平面プランは比較的横幅の広いものを含み、短く外上がりの羨道が取り付く。こうした形態については同じく渡来系要素が多くみられ百済王族級の被葬者が想定される柏原市高井田山古墳との類似性が指摘されている。また、韓式系土器がI4号墳や5号墳で出土しており、これも渡来系要素としてみられます。このほかI支群ではミニチュア炊飯具と呼ばれる非実用土器も副葬されていました。この土器について、日本では渡来系要素の多くみられる古墳や群集墳にみられることから渡来系氏族に関わる器物と推測されています。同様の性格は釵子についても指摘されています。
三国時代の朝鮮半島におけるこれら器物の出土例は必ずしも多くありませんが、百済地域において類例をみており、横穴式石室と同様の導入系譜が想定されている。例えば、近年の調査により明らかとなってきたソウル近郊の城南板橋古墳群では、一須賀古墳群I支群や高井田山古墳とよく類似した石室とともにこれらの器物が出土している。
「釘付式木棺」は横穴式石室の墓制と一体で導入されたものとされ、一須賀古墳群では鉄釘が多くの古墳で出土しているす。なかには、釘の出土状況から「二棺並列」の棺配置を復元できる例もあります。そして、とくにI支群では先述の板橋古墳群と酷似した鉄釘も出土しており、石室構造から木棺の配置そして鉄釘にいたるまで包括的に新たな葬制の導入がなされたことをうかがえる。
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一須賀古墳群B支群
一須賀古墳群B-7号墳 石室
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一須賀古墳群B-9号墳 石室と石棺
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一須賀古墳群B-19号墳 石室内を順に見学
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I支群から一段階遅れた6世紀前葉から群を形成し、7世紀前葉まで造墓活動が続きます。急峻な尾根上に列をなしたように分布しており、比較的分布のまとまりを捉えやすいことから群集墳研究において多く取り上げられてきた支群です。ここではI支群にみた導入期の形態を保った横穴式石室はほとんど見られず、そこから発展した「畿内型石室」がみられます。6世紀前葉のB7号墳をみても、5世紀末から6世紀前葉のI支群に比べ石材は大きめです。石材の大型化は畿内型石室の変遷に沿った変化といえます。また、初葬の棺として組合式家形石棺を採用する古墳が少なからず確認される点は基本的に石棺を用いないI支群とは異なります。B9号墳はその顕著な例であり、大型石材を用いた左片袖の横穴式石室に組合式の家形石棺を納め、追葬に釘付式木棺を用いている。
石室や石棺の採用に倭的な様相をみる一方で、B支群においても朝鮮半島系の遺物が出土しています。B7号墳の垂飾付耳飾や銀製空玉がみられ、前者については半島のなかでも大加耶産との評価がなされています。また、B4、7、11、12、14号墳例などミニチュア炊飯具が多く出土している点はB支群の特徴といえる。また、追葬の場合もあるとはいえ釘付式木棺が継続的に使用される。
一須賀古墳群D支群
一須賀古墳群D-4号墳
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一須賀古墳群D-4号墳 石室内部
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B支群の南側の尾根に立地するD支群は、盛行時期や石室形態の変遷過程などにおいてB支群との共通性が高い支群といえる。初葬に石棺を用いる古墳が一定数みられる点も同様。
D-4号墳の石室は、消滅したWA支群のものを除くと古墳群内において現存最大級のものであり、石材もかなり大型化している。初葬には石棺を用いており、その後幾度か釘付式木棺による追葬を行っている。石室内からは釵子が三点も出土しており、うち一点は鎖を取り付け、花形飾りを伴う独自性の高いもの。十字形飾金具などさまざまな形の飾金具がみつかっており、精巧できらびやかな装身具をみにまとった被葬者の姿が想像される。
一須賀古墳群では釵子が計六点みつかっていますが、そのうち半分がこのD4号墳からの出土。D支群のもう一点の釵子は10号墳から出土しており、この石室も支群内3番目の規模。
説明文は9月会報より引用