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現在に引き継がれた道や地割に残る痕跡を追いながら大和の古道「中ツ道」を横大路から羅城門まで踏破する。
日時:2021年 4月18日(日)
案内:重見 泰 主任研究員
集合:近鉄大阪線耳成駅
行程:近鉄耳成駅―三輪神社―東竹田遺跡―天満神社―村屋坐彌冨都比賣神社―保津・阪手道―天皇神社―山辺御県坐神社―前栽駅―業平姿見の井戸―北横大路―「京道」―平城京羅城門跡―JR郡山駅―近鉄郡山駅

 近鉄耳成(みみなし)駅に集合。全行程は23kmと長丁場の予告に関わらず参加者は95人と予想以上に多い。

 駅前の挨拶のあと横大路を中ツ道の出発点三輪神社へ移動。

三輪神社

 三輪神社は2016年11月例会でも重見先生に案内していただいた。

三輪神社には槻の大樹が残る。

社殿の南側に磐座らしい石があり、古代に三輪山を遙拝する場所だった可能性が指摘されている(和田2009)。境内の入口には御神木の大槻の木があり、この槻木は『西国三十三所名所図会』巻八に「槻の大樹」と題する挿絵で紹介されている。

 三輪神社では、「中ツ道は香久山を直進したか?」の説明を受ける

「中ツ道の地割痕跡は横大路より南では確認出来ないが、藤原京の設定基準として利用されていることや、南延長上にあたる飛鳥寺西門前の敷石遺構の存在と飛鳥宮跡内郭の西面大垣に沿った位置関係などから、飛鳥まで直線的に敷設されたという見解(以下、南進説)があり(岸1988)、その延長には飛鳥の神名火山である「ミハ山」が位置している。

 一方でこれを否定する見解もある。嘉元元年(1303)頃の「大和国東喜殿荘近傍図」(『東大寺文書』)には「中ツ道」と書かれているが14世紀頃の「中ツ道」は横大路以北の中ツ道の南延長上ではなく、その西側を通っていたことになる。

 横大路の南側でも道がみつかっているが、横大路北側では拡幅工事が行われているが南側では拡幅の痕跡がない。藤原京の東四坊大路とみるとのこと。

壬申の乱と中ツ道

 『日本書紀』天武元年(672)七月条の壬申の乱の記述によると、北から南下して飛鳥の倭京に向かう近江軍に対し、将軍大伴連吹負は上・中・下の三道に兵士を配置するとともに自ら中ツ道の守衛に当たった。中ツ道沿いの村屋には近江方の将犬養連五十君らが駐屯し、精兵およそ200人を率いた別将盧井造鯨が吹負の本営に攻め入ります。この時、吹負の本営は手薄で攻撃を防ぐのは困難であったが、大井寺の奴、徳麻呂ら5人が加勢し、先鋒となって鯨らの攻撃を食い止めた。その間に、上ツ道の箸陵付近で近江軍に勝利した三輪君高市麻呂置始連菟らが盧井造鯨らの後方を衝いたため、鯨率いる軍勢は悉く逃げ出してしまったという。

また、『日本書紀』にはこの戦闘より先のこととして、村屋神が祝にかかり、

「今吾が社の中道より、軍衆至らむ。故、社の中道を塞ふべし」

と託宣したという記述がある。この村屋神が上述した磯城郡田原本町蔵堂にある村屋坐彌冨都比賣神社のことで、その境内を中ツ道が通っている。近江方の将犬養連五十君らはこの付近に駐屯していたようだ。

壬申の乱の時点では、中ツ道が横大路以南に延びていない可能性が高いため、大伴吹負の本営は横大路との交差点である三輪神社付近だと考えられる。また、三輪君高市麻呂置始連菟らが上ツ道から村屋に向かった道は、上ツ道から初瀨川沿いに北西に進み、村屋で中ツ道と交差する保津・阪手道であろう。

徳麻呂らの大井寺の所在については、現在の桜井市大福の北あたりに想定するものや(三輪神社の南西隅にある面堂の礎石が大井寺のものであった可能性が指摘されている。

また、安倍寺跡の調査でみつかった墨書土器の「井寺」は大井寺である可能性が指摘されている。「百済大井に宮つくる」(『日本書紀』敏達元年四月条)とあり、桜井市吉備にある吉備池廃寺が百済大寺であることが確実なので大井はその地域のことであり、大井寺もそこに所在したものと考えられる。

三輪神社社殿と大槻

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三輪神社で説明を聞く

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三輪神社南西角、中ツ道の起点(終点)にある面堂の礎石

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近鉄線を越すと中ツ道の痕跡を辿れない。東側の住宅地をぬける。

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東西の道から香久山を望む。

ビニールハウス手前の地割が中ツ道の痕跡。平均幅は36.6m。

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寺川渡りリサイクルセンター橿原付近へ。

三輪山と大神神社鳥居が見える。

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リサイクルセンター橿原(東竹田遺跡:藤原京左京北六条四坊)は東四坊大路(中ツ道)推定地で側溝の検出はないものの約23mの空閑地が確認されており、これは藤原京の偶数大路の幅約16mでは広すぎますが、中ツ道の幅としてばむしろ収まりが良くなる。中ツ道の側溝心心間距離が21.5mならば60大尺となり、代制の10歩になるのも興味深い。

大尺:大宝律令で度量衡規制を明文化し,大・小尺を制定する。大尺はいわゆる東魏尺にあたる高麗尺で,小尺とされた唐尺の1.2倍の長さをもち,大・小尺をそれぞれ測地と常用の二様に使い分けることを規定している。

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寺川にかかる竹田の原橋の欄干の歌碑。

「うち渡す竹田の原に鳴く鶴の間なく時無しわが恋ふらくは」

大伴坂上郎女が竹田庄から娘の大嬢に贈った歌。「竹田庄」は、大伴氏の拠点で東竹田遺跡からは「寺」の墨書土器や奈良三彩の小壺が出土しており、大伴氏の田荘との関係が注目される。なお、三彩小壺は橿原考古学研究所附属博物館で常設展示されている。

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東竹田近隣公園手前から仲ツ道の痕跡が辿れる。

祠と蓮華を見ながら北上。

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大田市町の集落に入ると天満神社が見えてくる。

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天満神社。本殿が2つ見える。目原坐高御魂神社二座(論社)。

  郡名/十市郡  社格/大社

  祭神/高御魂命・神産日命・菅原道真

貞観元年(859)正月27日に神階が従五位上に昇叙される(『日本三代実録』)。比定地には当社のほかに耳成山口神社、山口神社がある。当社の根拠は、神社の東と北を通って北流れる川を目原川といい、真目原という尊崇対象の小丘があること、宮の坪という地名など。

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鳥居に前には禁足地「真目原」がある。公民館南側。

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県道王寺田原本桜井線(旧軽便鉄道大和鉄道線路跡)を越えあぜ道を辿る。

大和鉄道は大正7年、王寺駅から田原本まで開通(現近鉄田原本線)。

大正11年田原本から桜井町(現桜井駅西側)まで伸延し、昭和3年JR桜井駅に乗り入れ。

昭和18年戦時体制で田原本から桜井まで廃線、線路跡は道路として残る。

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小川にかかる石橋をわたる。

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市営住宅の脇を通過。

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保津・阪手道との交差点。三輪山訪問を望む。

木々の向こう側の畑には後期の小形の前方後円墳「シロト古墳」があった。

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村屋坐弥富都比賣神社の森が見えてくる。

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村屋坐弥富都比賣神社

村屋坐弥富都比賣神社参道

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村屋坐弥富都比賣神社拝殿

中ツ道を通るルートを詠ったと考えられているものに次の歌がありる。

「幣帛を 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 神名火山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入り坐す見れば 古思ほゆ」(巻13―3230)

 この歌は平城宮から穂積、坂手を通り、飛鳥の神名火山を経て吉野に至る。

 古代の穂積郷は現在の天理市前栽付近であり、奈良から穂積までのルートは中ツ道を利用したものと考えられる。坂手は現在の田原本町阪手の南部にあたり、村屋で交差して坂手へ抜ける保津・阪手道を通ったものと下ツ道を南下して飛鳥に入り、フグリ山を横目に見ながら芋ヶ峠越えで吉野へ向かったと考えられる。

 この歌には題詞がないものの、奈良時代に吉野へ複数回赴いた聖武天皇の行幸の際の歌だと思われる。聖武天皇は平城居から中ツ道を使って村屋坐弥富都比賣神社へ、保津・阪手道から下ツ道沿いの牟佐坐神社を通り、飛鳥の神名火山であるフグリ山が接している嶋宮から吉野へと天武天皇ゆかりの壬申の乱にまつわる場所を経由したことは十分に想定される。

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村屋坐弥富都比賣神社本殿

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村屋坐弥富都比賣神社歌碑

巻1―79・80 作者未詳

天皇の 御命かしこみ 柔びにし 家をおき 隠国の 泊瀬の川に 舟浮けて わが行く河の 川隈の 八十隈おちず 万度 かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の京の 佐保川に い行き至りて わが宿たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 磐床と 川の水凝り 寒き夜を いこふことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ われも通はむ

返歌

あをによし寧楽の家には万代にわれも通はむ忘ると思ふな

 藤原京から平城京へ遷都するときに詠われたもの。天皇の命によって住み慣れた家をでて、舟に乗って初瀨川から佐保川を遡って奈良に向かう情景を詠っている。初瀬川は村屋坐彌冨都比賣神社のすぐ東側を流れている。

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村屋坐弥富都比賣神社東側大和川(初瀬川)河畔で昼食。

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昼食後大和川(初瀬川)左岸を北上し、右岸に渡る。

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武蔵町の集落に入る。

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武蔵町素盞男神社通過

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布留川のほとり大樹の下に野神さん。「農神」で豊作や水の神。

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天皇神社

天皇神社  祭神/素戔嗚命 所在地/天理市備前町

創祀は文永9年(1272)といわれる。

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本殿は一間社春日造、檜皮葺で、棟札5枚とともに国の重要文化財に指定されている。

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井戸堂の集落を目指す。冷たい雨が時折降る。傘をさそうにも風が強い。

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山辺御県坐神社

山辺御県坐神社

  郡名/山辺郡 社格/大社

  祭神/建麻利尼命(山辺県主の祖神)など諸説あり

  所在地/天理市西井戸堂町

貞観元年(859)正月27日に神階が従五位上に昇叙される(『日本三代実録』)。当社のほか、天理市別所町の山辺御県神社を式内社にあてる説がある。

『御堂関白記』寛弘4年(1007)8月条、藤原道長の金峰山詣では、道長一行は八月二日丑時(午前2時)に出立しています。平安京羅城門を出て鴨河尻から舟に乗って淀川を下り、石清水八幡宮に参詣したのち、その夜は内記堂上に泊まっています。3日には大和に入って大安寺に泊まり、4日には井外堂、5日には軽寺に宿泊し、6日には壺坂寺・観音寺(子島寺)・現光寺(比曽寺)・野極をへて、9日に金峰山に至っている。

 井外堂は現在の天理市東井戸堂町・西井戸堂町付近と考えられ、平城京左京六条四坊にある大安寺から中ツ道をまっすぐ南下したようだ。軽寺からは下ツ道を通って壺坂峠を越えて吉野に向かっています。この金峰山詣でもまっすぐ吉野に向かうのではなく、著名な寺院に立ち寄る行程をとっている。

西井戸堂町の山辺御県坐神社境内には神宮寺である妙覚寺観音堂があり、道長が立ち寄った寺だと推測されている。観音堂には国の重要文化財である十一面観音立像が安置されている。なお、西井戸堂・東井戸堂の地名は、井戸の上に観音堂を造ったことからそう称されたといいう。

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山辺御県坐神社内の観音堂と石塔。

万葉集の歌碑が立つ。

巻1―78 元明天皇ヵ

  所在地/天理市西井戸堂町

        山辺御県坐神社境内

「飛鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ」

和銅三年二月、藤原宮から平城宮への遷都の時に、元明天皇が御輿を長屋原に停めて詠んだ歌だと伝えられている。「長屋原」は天理市西井戸堂町・東井戸堂町・合場町にあたる。

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山辺御県坐神社本殿

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布留川(北々流)に沿って北上。道端の石仏群。前栽の街並みが見える。

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天理市杉本町天理市立前栽公民館前の万葉歌碑

巻7―1353 作者未詳

「石の上布留の早稲田を秀でずとも 縄だに延へよ守りつつ居らむ」

題詞は「稲に寄する」。

歌碑の書は、鎌倉後期に書写された西本願寺本『万葉集』によるもの。

前栽駅でいったん解散。28人がさらに北、羅城門を目指す。

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西名阪国道手前大和郡山市新庄町

業平姿見の井戸と与謝蕪村の句碑「虫鳴くや河内通ひの小提灯」。

在原業平は天理市櫟本在原寺付近から十三峠を越えて河内へ通ったという。

ここはその道沿い。

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大和郡山市石川 橘街道の道標。仲ツ道は橘寺に通じるため近世には橘街道と呼ばれた。

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九条通り沿いの遺構地での解説

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九条通り沿い大型商業施設に設けられた案内板

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平城京羅城門跡公園(大和郡山市)に到着

羅城門跡は佐保川の河底

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郡山駅へ向かう。