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日 時:10月18日(日)午前10時
集 合:近鉄京都線・JR学研都市線「三山木駅」駅間のロータリー
解 散:JR学研都市線同志社前 京都線近鉄興戸駅
案 内:吉村和昭(学芸課長) 若林邦彦(同志社大学教授)
コース:山本駅跡→飯岡横穴群→トヅカ古墳→東原古墳→薬師山古墳→ゴロゴロ山古墳→飯岡車塚古墳→同志社大学 歴史資料館→新宗谷館跡→マムシ谷窯跡→下司古墳群→筒城宮伝承地碑→田辺天神山遺跡

「」は会報から転載。

三山木駅

お天気にも恵まれ、120人を超す会員が参加。

コロナ対策の手の消毒と封筒(名簿)の確認のあと吉村先生の解説から例会が始まった。

飯岡、同志社大学周辺は昭和60年1月20日第303回例会「南山城の歴史と風土」中村潤子先生のご案内以来、35年ぶり。

周辺は三山木遺跡。弥生時代前期中頃には集落が確認されている。

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山本驛旧跡

「寿宝寺という真言宗の寺の門前に「和銅四年設定 山本驛旧跡」の碑があります。山本駅は旧山陽道の駅家で、『続日本紀』和銅4年(711)正月2日条に「始置都亭駅、山背国相楽郡岡田駅、綴喜郡山本駅、河内国交野郡楠葉駅」との記述があります。正確な位置は不明ですが、駅はおよそ三山木駅周辺付近にあったと推定されます。この地は南北に通る旧山陽道(およそ府道八幡木津線の位置と推定)と、西へ向かえば普賢谷を抜けて河内へ、東へ向かえば木津川を越えて古北陸道へつながる東西道が交差する交通の要衝です。」

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飯岡遺跡

 左手に飯岡丘陵が見えてくる。南東斜面が飯岡遺跡、頂上部が古墳群。

「弥生時代後期の高地性集落である飯岡遺跡について記します。この付近の遺跡では、三山木駅付近の三山木遺跡において、弥生時代前期中頃には集落が成立していたことが確認されています。しかし、調査面積が小さいこともあり、詳細は不明です。大規模な発掘調査がおこなわれていないことも一因ではありますが、木津川左岸上流域において、弥生時代前・中期の顕著な遺跡はあまり認められません。顕著となるのは飯岡遺跡、田辺天神山遺跡が出現する後期となってからです。飯岡遺跡は昭和34年の第1次調査で、丘陵南東部の道路崖面に露出していた円形の竪穴住居跡が調査され、昭和53年の東原古墳の調査では主体部の下層から後期の溝状遺構が検出されました。昭和57年の第2次調査では方形周溝墓の溝が、昭和60年の田辺病院増築にかかる第3次調査では方形の竪穴住居跡が、そして平成4年の第4次調査では多角形住居跡、円形住居跡、方形周溝墓(一辺12二m)が重複して検出されました。さらに、平成5年の第5次調査では薬師山古墳墳丘北裾の調査にともない土坑が検出されています。これらの調査によって丘陵南斜面を中心に居住域が広がり、頂部には比較的古い時期の住居と墓域(方形周溝墓)が営まれるという高地性集落のおよその構造があきらかとなっています。」

飯岡横穴群

「飯岡丘陵の南東裾、送電線鉄塔脇に飯岡横穴がある。花崗岩の岩盤を掘削した南に開口する横穴墓で、かつては2基存在したとのことです。早くから開口していましたが、昭和53年に内部調査がおこなわれ、羽子板形の平面形、かまぼこ形の天井形態をもつことがあきらかとなりました。玄室は両袖式で、長さ4.1m、幅1.7〜2.3m、高さ約1.5mの規模をもちます。6世紀後半〜末の築造です。」

 鉄塔の左、白い看板の左下が横穴。雑草が茂って近づけず。

 望遠で拡大。矢印の下に横穴。

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飯岡咋岡神社

「宇賀之御魂神と菅原道真を祭神としています。幕末までは天神を称していました。『延喜式』にみえる咋岡神社の比定には議論がありましたが、明治8年にこの神社が式内咋岡神社と認定されました。ところで今春、中公新書より刊行され話題となっている『椿井文書 ―日本最大級の偽文書』(馬部隆弘著)には驚かされることが多いのですが、この偽文書が式内咋岡神社を巡る争いに大きく関わっていたことにも触れられています。」

 飯岡の北西1kmに草内昨岡神社があり、どちらが式内社昨岡神社か争った。

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トヅカ古墳

「昨岡神社低位の緩斜面にはトヅカ古墳が立地しています。径20m、高さ3.5mの円墳で、墳丘には埴輪、葺石がみられます。内部主体は、主軸を南北にとる竪穴式石室です。長さ3m弱、幅0.7m、高0.9mを測ります。明治7年、樹木伐採に際して発掘され、銅鏡3面(神人車馬画像鏡、尚方作神人画像鏡、変形一神四獣鏡)、勾玉2、管玉・小玉多数、鹿角装刀剣、鉄地金銅張鏡板付轡、杏葉、鞍金具片が出土しました。古墳時代中期後半(5世紀後半)の築造とみられます。これらの出土遺物は京都国立博物館に所蔵されています。ところで、昭和13年に日本古文化研究所により刊行された梅原末治著の『近畿地方古墳墓の調査 三』、「山城飯岡トヅカ古墳」には、現存以外にもいくつかの古墳が存在したことを記録した図が示されています。」

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薬師山古墳

「薬師山古墳は平成5年の墳端部の調査と測量により、径約38mの規模をもつことがあきらかとなりました。墳丘裾が丘陵斜面にそのまま続くように築造されており、視覚的に大きくみせる効果を狙ったものとみられます。これは後述するゴロゴロ山古墳にも共通する点です。高さは東側で約6mを測ります。北側の墳裾では古墳の掘割の可能性がある傾斜面が検出されています。葺石・埴輪の存在は明確ではありません。なお墳頂部には薬師堂が建てられています。」

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ゴロゴロ山古墳

「ゴロゴロ山古墳が立地する西の頂は位置的に丘陵のほぼ中央にあたります。径約60m、高さ約9m、墳頂平坦部の径約20mを測る山城地域最大級の円墳です。葺石が認められ、墳丘北東部の一部には壕が巡ります。」

ゴロゴロ山古墳墳丘へ登る。

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飯岡車塚古墳

「飯岡車塚古墳は、丘陵西端に舌状に張り出したところを切断、尾根に直行した形で主軸を北北東―南南西にとって築造された前方後円墳です。全長90m、後円部径60m、前方部幅約42mを測ります。明治35年に後円部の竪穴式石室が掘り起こされています。主軸方向に造られた石室は、割石を小口積みにしたもので、長さ約2.4m、幅約1.2m、高さ約1.2mと短く、また長さに対する幅の割合が高いものです。天井石は確認されていません。床面には粘土床がありました。勾玉4,管玉26、小玉、石釧24以上、車輪石4以上、鍬形石1、刀剣破片、脚付小形坩片が出土しています。天井石が認められない理由として、出土遺物に鏡鑑類がないことなどを根拠に過去の盗掘により持ち去られた、あるいは木蓋の可能性が考えられます。墳丘には葺石、埴輪が認められます。昭和五一年、墳丘東側の道路拡張にともなう調査で、墳丘最下段の葺石とその外側を巡る楕円形円筒埴輪(図4)の列が検出されています。築造時期は前期末とみられます。」

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飯岡車塚古墳前方部

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飯岡車塚古墳後円部

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飯岡車塚古墳後円部裾で吉村先生の解説を聞く。

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飯岡を下りる。

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ウンカの被害で枯れた田圃が目立つ。

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普賢寺川に沿って同志社大へ向かう。

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同志社大学歴史資料館

同志社大学京田辺キャンパス南門で若林邦彦(同志社大学教授)のお出迎えを受け、同志社構内の遺跡を案内いただく。

「同志社大学歴史資料館には、同志社大学考古学研究室が全国各地でおこなってきた調査の出土資料、校地学術調査委員会による今出川・新町・京田辺の各キャンパスの発掘調査資料などが収蔵されています。当日見学する京田辺キャンパス内の遺跡出土資料が見学できるのはもちろんですが、各地の有名調査資料が見学できるのも魅力です。例を挙げると、大阪府和泉市の観音寺山遺跡(弥生時代後期の高地性の環濠集落)の出土資料。城陽市西山2号墳(古墳時代前期。南北約27m、東西約25m、高さ4m前後の方墳)の中央棺から出土した「陳是作竟」の 銘文のある天理市黒塚古墳出土鏡と同笵の三角縁神獣鏡。和歌山市井辺八幡山古墳(6世紀中頃。全長88mの前方後円墳)のくびれ部両造出しから出土した角杯か角笛を背負う武人、短弓を持ち挂甲に身を固めた武人、 鼻上に翼状の入墨をした力士像などの形象埴輪群などです。」

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三密にならないように15人づつ分かれて見学。

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新宗谷館跡

「同志社大学キャンパス南側、普賢寺川が流れる普賢寺谷に面した丘陵には、戦国期に在地土豪によって築かれた居館跡が点在します。後述の下司古墳群の立地する支脈先端にある新宮社東方館跡、その東にある新宗谷館跡、さらに東の尾根支脈にある都谷居館跡などで、それぞれに郭、土塁、壕跡などが残されています。これらは都谷中世居館群と総称されます。山城国南部は応仁の乱(1467~1477)前後に多くの戦いがあった地域です。また、乱後の文明17年(1485)におこった山城国一揆は南山城の国人衆を中心としています。これらの城館群はこうした背景に成立し、戦国時代を通じて機能したものです。最終的にこれらの城館は16世紀後半に廃絶しますが、これは『沢蔵及松永乱記』に記された永禄10年(1567)の松永久秀による普賢寺谷焼討ち、『多聞院日記』・『二条宴乗記』にみられる永禄12年(1569)、織田信長によってなされた普賢寺衆滅亡と関わるものとみられます。今回は新宗谷館跡(しそがたにやかたあと)を見学します。

 新宗谷館跡は南に延びる丘陵が普賢寺川に又状に延びる突出部に築かれています。最高所の標高は81mで、水田面との比高差はおよそ20mです。5箇所の郭が確認されており、Ⅱ郭(昭和55年・平成15年に同志社大学)、Ⅴ郭(田辺町教育委員会)の発掘調査がおこなわれています。Ⅱ郭は最大面積を有する郭で、東端の土塁西半分とその内側の調査がおこなわれ、貯蔵具の甕、調理具の擂鉢、供膳具である陶磁器類が多数出土しました。一方、Ⅴ郭からは、輸入陶磁器である青磁碗、白磁皿、染付皿とともに、Ⅱ郭では出土しない土師質の羽釜が出土しています。これらのことから、Ⅱ郭に居住空間が、Ⅴ郭には炊事場が置かれていたと推定されます。出土遺物の年代は15世紀後半~16世紀後半にあたり、館が機能していた時期もこの期間となります。これは文献上に記される付近の国人衆が活動していた時期と一致します。土器・陶磁器には被熱により変色したり表面の釉薬が解けたりしたものが多く含まれます。このことから新宗谷館が16世紀後半に火災に見舞われたことがわかります。さらに、調査所見から、土塁はこれらの遺物が廃棄された後に築造されたとみられ、同時期の軍事的緊張の増大のなか築造されたものと推定されます。」

現地説明板。館復元図。

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館跡南側の崖。

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南東から館跡平坦部。

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マムシ谷窯跡

「普賢寺谷に面した丘陵南斜面に造られた須恵器焼成のための半地下式窖窯です。昭和56年に調査されました。焚口、燃焼室の一部が崩落、煙道部も残っていませんでした。残存長5.56m、焼成部床面の最大幅は1.55mで、燃焼部の最大長は2.6mを測ります。傾斜角度は4~10度を示します。床面2面が確認でき、焼成は2度であったことがわかります。窯内には多くの須恵器が残されていたことから、2度目の焼成時に窯が崩落し、焼成中の須恵器が窯体下方に崩れ落ちたものと推定されました。須恵器の器種は杯身、杯蓋、甕、短頸壺、長頸壺、平瓶、横瓶、鉢、皿などです。窯の操業時期はおよそ8世紀前葉とみられます。なお、マムシ谷窯跡から約350m東の尾根末端にはもう1基、7世紀後葉の新宗谷窯跡があり(都谷居館跡と同じ尾根の末端)、灰原のみが残存していました。」

窯跡は煉瓦の下に窯跡がある。

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下司古墳群

「普賢寺谷をのぞむ東方に延びた丘陵支脈の南斜面に営まれた8基からなる7世紀前半の群集墳です。昭和38年に京都府教委により1~4号墳、昭和58年に同志社大学により5~8号墳が調査されました。低位(標高約75m)に1号墳、中位に2~4・7号墳、高位(88m付近)に5・6号墳があり、8号墳は浅い谷を介して西側に立地します。いずれも南に開口する横穴式石室を主体部とします。後世に多くの石室材は抜き取られています。」

下司6号墳

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「2号墳は、墳丘・石室がもっとも良好に残っています。両袖式の石室は全長7.4m、玄室長2.75m、同最大幅1.72mの規模をもちます。木棺に装着された大小の鐶座金具、小型の鐶座金具にともなう六花形座金具、須恵器(杯蓋、杯身、無蓋高杯、はぞう、長頸壺)、土師器(椀、甕)などが出土しています。7世紀前葉の築造とみられます。」

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「最大の古墳は1号墳です。その他の古墳の規模は径10~14mほどですが、1号墳は径25~30mの円墳です。石室は両袖式で、全長8.55m、玄室長3.55m、同最大幅2.1m、高さ2.1mを測ります。陶棺片、木棺を留める鍍金銅鋲五、須恵器(杯蓋、杯身、無蓋高杯、短頸壺、盤、平瓶)などが出土しました。初葬者が7世紀前葉に玄室の陶棺に、追葬者が7世紀後葉に羨道の木棺に葬られました。」

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筒城宮址

「キャンパス正門前近くの小高い場所に「筒城宮址」(つつきのみやあと)の碑が置かれています。これは普賢寺川の北の丘陵、字都谷付近(つまり同志社大学京田辺キャンパス付近)が仁徳天皇の皇后磐之媛が滞在した筒城宮、継体天皇の筒城宮に比定されてきたことによります。碑は1960年、継体天皇の筒城宮設置(511年)から1450年を記念して組織された「筒城宮跡顕彰会」によって建立されたもので、キャンパス整備後、現状となったそうです。」

碑は元々三山木駅西側普賢寺川沿いにあったそうです。

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田辺天神山遺跡

「正門を出て、南東の丘陵を上がったところに田辺天神山遺跡があります。木津川流域を一望できる尾根の頂部(海抜82~83m)に営まれた弥生時代後期の高地性集落です。周囲の平野部からの比高差は約40mあります。昭和41年に宅地造成にともなう緊急調査が山田良三氏を中心におこなわれ(この報告では「三山木弥生式遺跡」として報告)、続いて昭和43年に同志社大学考古学研究室による調査がおこなわれました。

 集落域はおよそ南北60m、東西45mの楕円形を呈します。平坦面では23棟の竪穴住居跡が、広場を取り囲むように検出されました。住居は多く切り合う状況から、平面形が円形から方形へと変化していく過程が伺えます。また、集落中央からは性格不明の多くの土坑が検出されています。出土遺物には、弥生土器をはじめ鍬先状鉄器・刀子・ヤリガンナ・鉄鏃などの鉄器、石斧・石鏃などの石器が出土しています。また、類例の少ない銅釦(半球形を呈し、内面には紐などが通せる形状の装着部がある)が1号住居址から出土しています。」

7号住居は6号、5号住居に重なって営まれた。

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4号住居と奥に7号住居。

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16号住居で解説を聞く。

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JR同志社前、興戸駅へ急ぐ。