2018年2月例会「保存科学の観点から宇治を歩く」
案内 勝川若奈先生 河﨑衣美先生
日時 2月18日(日)10時
集合 JR宇治駅
行程 JR宇治駅(出発)→宇治市歴史市資料館→白川金色院跡→白山神社→平等院→浮島十三重塔→宇治神社→宇治上神社→源氏物語ミュージアム(解散)
約九㌔のコースです。JR宇治駅から白山神社まではアップダウンのある道になります。
今回は文化財の保存と保存科学に焦点を当てながら宇治を歩きます。
文化財を後世に残すための手段の一つとして、文化財に対する保存処理があります。文化財に保存処理を行うにはどのような方法を用いて処理を行うのか考えなければなりません。また、保存していくにはどのような環境が適切であるかを考える必要があります。さらに、文化財を修復するときは可能な限り当時と同じ材質や材料、技術、手法を用いることが必要であるとされます。そのためには文化財が何でできているか、現在どのような状態であるのか、どのような技術が用いられているのか等を調査する必要があります。そこで活躍するのが「保存科学」という分野です。
保存科学による調査を行うと、文化財の材質や肉眼では見えない内部構造等を知ることができます。また、文化財の保存環境の研究や修復のために用いる材料や技術の研究等を行うのもこの分野です。つまり、保存科学とは伝統的な材料や技術にない部分を現代の材料や技術に求め、両者の長所を引き出して応用する分野であると言えます。人文・社会科学と自然科学を結び付ける分野であると言うこともできます。
JR宇治駅
JR宇治駅前に119名の会員さんが集合
いつも通り、会長の挨拶から例会がスタート!
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勝川若奈氏から「保存科学」について説明
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宇治市文化センターをお借りして休憩と歴史資料館(写真右建物1階)を見学
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静岡茶、狭山茶と並んで日本三大茶といわれる宇治茶の宇治茶会館前を歩き白川金色院跡に向かう
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白川金色院跡
白川金色院は平安時代後期(1102年)に藤原頼通の娘であり、後冷泉天皇の皇后であった藤原寛子によって建立されたと伝えられています。室町時代中期(1460年)に焼失しますが、すぐに復興され「白川十六坊」と称される数多くの坊院を有する寺院として発展していきました。明治時代になると廃仏毀釈によって廃絶、廃寺となり現在では惣門や九重石塔等のわずかな建造物のみが残されています。 惣門の創建は16世紀末頃まで遡り、18世紀末頃に大規模な修理か古材を用いての再建が行われたと言われています。この惣門には色調の異なる赤色顔料が塗布されています。元興寺文化財研究所が二種の赤色顔料について調査を行っています。調査の結果、惣門に使用されている赤色顔料のうち古い段階(下の層)に塗布された顔料がベンガラ、新しい段階(上の層)に塗布された顔料が鉛丹であることが判明しました。後述の、白山神社の廃棄部材の調査結果と併せて考えると、同じ建造物部材に塗布される赤色顔料でも時期によって材料が変遷していると言えます。
また、白川金色院跡は十年程かけて宇治市が発掘調査を行っています。その際、経塚関連遺構から鏡が二面(秋草蝶鳥鏡、山吹双鳥鏡)出土しました。鏡は分析が行われ、秋草蝶鳥鏡の組成が白銅(高錫青銅)であるのに対し、山吹双鳥鏡は一般的な青銅であると分かりました。
16世紀末の創建といわれる白川金色院の惣門をくぐる
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白川金色院の惣門
下の層の赤色顔料ベンガラと、のちに上塗りされた鉛丹が何百年を経ても残っている
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惣門支柱の下部はかなり傷んでいた
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「此の附近 金色院跡」の石碑が建つ
我が世の春を謳歌した藤原氏の跡がここにも
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九重石塔
一人づつ順番に見学
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白山神社
白山神社は8世紀後半に疱瘡が流行した際、治癒を願って建立されたと伝わっています。平安時代後期に藤原寛子によって白川金色院が建立されると、その鎮守社となりました。重要文化財に指定されている拝殿は、住宅風の古建築で宇治離宮の遺構であるといわれています。白山神社では、境内に廃棄されていた建築部材の樹種と付着している赤色顔料の調査が行われました。調査対象となった廃棄部材には色調の異なる赤色顔料が使用されており、二層になって塗布されていました。また、廃材のなかには修造紀年銘や修造履歴、大工名等の墨書が確認できるものもあります。顔料の塗布状況と墨書の相関関係をみると、古い段階の塗装は江戸時代後期以前、新しい段階の塗装は明治時代初期以降に行われたと分かりました。これらの部材は境内に廃棄される前は白山神社の小屋として用いられていたことははっきりしていますが、それ以前にどのような場所でどのような建造物の部材として使われていたのかは定かではありません。廃棄部材に使用されていた木材のうち赤色顔料の塗布が確認できたもの(①)、赤色顔料と紀年銘墨書が確認できたもの(②)の二点について樹種同定が行われました。調査した結果、①がヒノキ材、②がスギ材であると分かりました。また、二層に塗られた赤色顔料のうち、下の層(江戸時代後期以前)に塗られた顔料はベンガラ、上の層(明治時代初期以降)に塗られた顔料は鉛丹であることも分かりました。白川金色院跡惣門の調査結果と併せると、同じ建造物部材に塗装される赤色顔料でも時期によって材料が変遷していると考えられます。ベンガラから鉛丹への材料の転換は珍しいことではなく、平等院鳳凰堂等の修復作業の際にも行われています。
白山神社鳥居前で説明を聞く
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拝殿・重要文化財
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拝殿
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本殿
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宇治川にいたカワウ(「宇治川の鵜飼」はウミウ)
宇治川で生まれ育ったウミウはウッティーちゃんの愛称で親しまれている
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平等院
平等院は1052年に藤原頼通が宇治の別業を仏寺に改めたものです。鳳凰堂はその翌年(1053年)に阿弥陀堂として建立されました。鳳凰堂は当時の芸術の粋を集めて建築され、藤原摂関家の栄華を現在に伝えるものとして貴重な建築物です。鳳凰堂四棟(中堂、両翼廊、尾廊)は国宝に指定されています。また、木造阿弥陀如来坐像や中堂壁画、金銅製鳳凰等も国宝に指定されています。平等院鳳凰堂は建立から現在に至るまでに何度も修理が行われています。修理によって建立当初とは異なる仕様に変更された部分もあります。例えば、鎌倉時代から室町時代の修理では土壁から板壁への変更や尾廊の花頭窓の追加等が行われました。江戸時代の修理では中堂基壇を壇正積から亀甲積にする等の変更が行われ、明治時代の修理では中堂母屋の軒支柱の取り外しや裳階の屋根勾配を増す等の変更がありました。昭和時代の調査では扉画八面が保存のため模写を行った複製品と交換されました。平成三年から平成十五年には平安後期の状況を再現することを目標とした庭園の保存整備が行われ、中島が石組護岸から洲浜に戻されました。その後、平成24年から平成26年にかけて、屋根と塗装を中心とする修理が行われました。前述の通り鳳凰堂は創建から現在に至るまで何度か修理が行われたことにより、創建当初とは仕様が変更されている部分がありますが、今回の修理(平成24年から平成26年)では可能な範囲で旧意匠や仕様を復元することが意識されました。そのため、鳳凰堂の塗装についての再調査と確認が行われました。再調査と確認により、建立当初鳳凰堂の中堂扉の外面は朱漆塗でその他の木部は丹土(につち)塗であった可能性が示唆されました。修理が行われる過程で丹土塗は丹塗に変化し、斗栱(ときょう)の木口も丹土塗から黄土塗に変化する等使用顔料が変化していったことも確認されました。修理に際しては明治時代以前に行われた修理を踏襲するとともに、木材の保護も図り、赤色塗装の範囲を拡大しました。柱は下部まで丹土塗を行い、明治時代の修理では黄土塗であった斗栱の木口や黒塗であった瓦座も丹土塗を施しています。顔料を塗布する際の膠着材には膠を使用し、樹脂等の使用は最小限にとどめています。防カビ剤の混入も行っていません。ただし、雨や人の接触によって顔料の剥落が起こりやすい建物下部にはアクリル樹脂を混入したものを使用しています。また、彩色部分は全て塗り直すのではなく、顔料の剥落止めを行うことで古い彩色を一部保存しています。
平等院 南門から入る
春節と重なり、中国からの観光客がいっぱい
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鎌倉時代から室町時代の修理では尾廊(右)に花頭窓の追加が行われた
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平等院 勝川氏の説明を聞く
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鳳凰堂
昭和26年硬貨のデザインに選ばれてから平等院と言えば誰もが10円玉を思う?
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軍配形の切り抜き窓を設け、阿字池の向こう側から木造阿弥陀如来坐像(国宝)が拝める工夫が施されている
まさに西方極楽浄土の世界
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鳳凰堂中堂(南東から撮影)中堂南面屋根には平安中期の瓦1,553枚を再利用している)
平成の大修理で数枚八尾市の向山瓦窯で焼かれた瓦が使われていたことが判明
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金銅製鳳凰を撮ると鬼瓦側面に「平成廿五年修補」と彫られていた
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浮島十三重塔
鎌倉時代に奈良西大寺の高僧叡尊によって建てられたとされるこの石塔は、現存する日本最古かつ最大の石塔で、重要文化財に指定されています。十三重塔は何度も洪水による倒壊と再興を繰り返してきましたが、宝暦の大洪水(1756年)による流失以降、約150年間川の中に埋没していました。現在の石塔は明治時代に再建されたものです。かつて十三重塔に使われていた相輪は興聖寺の境内で見ることができます。十三重塔のような石造文化財の劣化は環境に左右されることが多くあります。その要因は「物理的」、「化学的」、「生物的」の三種に大きく分類することができます。物理的要因としては凍結、熱、振動等が挙げられます。これらの要因によって石造文化財に割れが生じたり、折れたり、剥離したりします。化学的要因としては塩類風化が挙げられます。塩類が岩石表面に析出することで破損し、劣化します。また、大気汚染も化学的な劣化要因の一つです。生物的要因としては草木や苔、微生物等が挙げられます。これらの劣化要因に対しては樹脂による石造文化財の強化やクリーニング等の対策が取られています。対象となる石造文化財の劣化要因は何か、どのような状態にあるのかを考慮しながら対策を講じていくことが大切です。
浮島十三重塔 高さ15m、日本最大、最古の石塔。
この石塔の下には網代や漁具が埋められ、魚霊の供養塔になっている
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橿原考古学研究所資料課技師河﨑衣美氏から劣化の要因や対策の説明を聞く
カンボジアで保存の仕事に携わっておられた河﨑先生、今日は助っ人に
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石塔は明治41年に再建され、相輪は新たに作られた。旧の相輪は興聖寺の境内で見ることができる
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興聖寺に保存されている十三重塔の相輪
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宇治神社
宇治神社の創建年代や起源は明らかではありません。宇治橋の上流宇治川の右岸の辺りは菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の宮居の跡であり、菟道稚郎子命の死後にその神霊を祀ったのが、この神社の始まりであると伝えられています。本殿や菟道稚郎子命坐像が重要文化財に指定されています。宇治神社において特徴的なのは木造の狛犬です。鎌倉時代前期につくられた阿形、吽形の一対で、現存する木造の狛犬では最古の例です。ヒノキ材を用いた一木造りです。口の周辺に植毛の痕跡があることから、制作当初はひげが生えていたと考えられます。吽形については全体に渡って劣化が激しく、虫による被害が多数見られました。また、左肩、左前肢、左目、尻尾等は欠損し、それぞれの部位の接合が緩み離れていました。そのため合成樹脂で木材を硬化し、形状を整えるとともに、欠損した部分はヒノキ材で補足、補修するなど原状を回復させるための修理が行われました。現在は阿形、吽形ともに宇治市歴史資料館に収蔵されています。
宇治神社に入る
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宇治神社本殿にて勝川氏の説明を聞く
木造の狛犬の写真を掲げながらのお話に、会員さんたちは興味深け
菟道稚郎子命は非業の死を遂げた皇子!この狛犬は皇子のもとで大切にされていたのではないだろうか?
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宇治神社拝殿
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拝殿前に「祭神 菟道稚郎子命」の石碑、兎道稚郎子命の死後にその神霊を祀ったのが神社の始まりであると伝えられている
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現存する最古の木造の狛犬は「歴史資料館に預けてあります」の張り紙
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宇治市歴史資料館に預けられている木製狛犬(宇治市歴史資料館刊「宇治の文化財」より)
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宇治上神社
宇治上神社には菟道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇が祀られています。創建年代などの起源ははっきりしていませんが、日本最古の神社建築として有名です。本殿や拝殿等が国宝に指定されています。明治維新前は宇治神社と合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対し、宇治上神社は上社・本宮とされていました。
平成16年(2004年)に奈良文化財研究所と宇治市によって、建築部材の年輪年代測定が実施されました。対象となったのは本殿や拝殿に用いられた部材です。測定の結果、本殿は1060年頃、拝殿は1215年頃に伐採した木材を使用していることが分かりました。また、本殿内部の内殿3棟は順次建立されたと考えられていましたが、3棟が同時に建てられたものであることも分かりました。これまでは建築様式等から、平安後期頃に建立された現存する日本最古の神社建築であると言われていましたが、平成16年の調査はそれを裏付ける結果となりました。特に本殿は1060年頃の木材が使用されていることから、1052年に創建された平等院との関連性も示唆されます。藤原頼通が自らの宗教観を形にするため、平等院と神社を対で建立した可能性も考えられます。
宇治上神社鳥居手前に建つ「早蕨之古蹟」石碑
宇治市には『宇治十帖』の舞台となった古跡が10ケ所!早蕨もそのひとつ
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世界遺産・宇治上神社に入る
宇治市には世界遺産が二つも!さすがに平安貴族の別荘地
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拝殿・国宝
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境内の桐原水 宇治七名水の中で現存する唯一の湧き水
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本殿・国宝
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源氏物語ミュージアム
「さわらびの道」を歩き、源氏物語ミュージアムへ向かう
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源氏物語ミュージアム(背後の建物)前で解散、見学は自由
「宇治十帖」の世界を展示や映画で紹介
王朝絵巻にひと時 喧騒を忘れる
勝川若奈様(右)・河﨑衣美様(左)、ご案内ありがとうございました.
写真撮影 小田 正