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2019年12月例会「當麻寺と二上山を訪ねる」
日時:令和元年12月15日(日) 
案内:鶴見泰寿氏
集合:近鉄南大阪線当麻寺駅西へ徒歩5分「相撲館」午前10時
行程:當麻寺境内→傘堂→當麻山口神社→鳥谷口古墳(昼食)→岩屋峠→二上山雄岳・葛木坐二上神社→大津皇子二上山墓→葛木倭文座天羽雷命神社→加守廃寺→近鉄二上神社口駅

相撲館

集合 相撲館

鶴見先生の案内で当麻寺から二上山を目指す。

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当麻寺参道を進む。

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當麻寺

 二上山東麓にある當麻寺は7世紀後半の創建と考えられている。

『建久御巡礼記』(建久三年、1192)によれば麻呂古王(用明天皇の皇子)を本願とし、當麻真人国見(壬申の乱の功臣)が辛巳年(681年、天武十年)に現在の地に遷したとされる。

 麻呂古王の子孫である當麻氏は、天武十三年(684)に當麻公から當麻真人へと改姓。當麻真人老の女の當麻真人山背は舎人親王の室となり大炊王(後の淳仁天皇)を産んでいる。

 當麻寺の伽藍配置は、金堂・講堂が南北に並び、南側に東西塔があり、西側に東面して曼荼羅堂(本堂)がある。

當麻寺は興福寺の末寺であったため、治承四年(1180)の兵火で伽藍の多くが消失したが、金堂は本尊が残っていることから、一部が焼損したのみで全焼は免れたようだ。

古くは真言宗の寺院でしたが、応安三年(1370)に知恩院の奥の院として誓阿上人が往生院を創建すると浄土宗・真言宗の二宗併存となる。

東門から境内に。

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鐘楼が目の前に

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金堂(重要文化財)

 現在のものは元暦元年(1184)に再建。本尊は弥勒仏の塑像で、乾漆四天王像(多聞天像のみ鎌倉時代の木彫像)とともに白鳳期の制作。金堂の正面には凝灰岩製八角石灯籠(重要文化財)があり、これも創建時のものと考えられている。

左金堂、中央本堂、右講堂

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八角石灯籠

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講堂(重要文化財)

 現在のものは嘉元元年(1303)の再建。地下から焼土層が検出されたので、こちらは火災を受けて全焼したことがわかる。

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本堂(国宝)

本堂(曼荼羅堂)は當麻寺で最も規模の大きな建築。

東を向いた南北七間、東西六間の寄棟造本瓦葺。

長い間に改築を受けていて、永暦二年、1161の再建。

内陣には奈良時代後半~平安時代初期に制作された六角宮殿(曼荼羅厨子)が設置され、中に當麻曼荼羅が納められている。厨子は木製黒漆塗りで、柱や天井に金銀泥で草花文、雲文が表され、屋根の下面には金平脱技法で飛天・含綬鳥・唐草文の飾りが施されている。描かれた文様を正倉院宝物と比較することによって、760年代頃の制作年代と考えられている。仁治三年(1242)に厨子に扉・連子・菱欄間などが取り付けられ現在の姿になっている。

 本堂地下から古墳石室が発見されている。内陣東辺中央付近でみつかった礫槨は、長さ約2.4m、幅約0.9m、残存高約0.2mで、人頭大の自然石で造られている。副葬品は鉄剣・鉄鏃・鑓鉋・鑿・鉄斧・鉄鎌。5世紀後半の古墳とみられる。

本堂前で説明を聞く。

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當麻曼荼羅(国宝)

綴織の曼荼羅で、縦横とも約4mで染糸によって図像を織り成している。正倉院宝物と比較すると織りの密度や繊維の均質性が高く、技術的な観点から日本国内での制作ではなく中国唐代の作品と考えられる。遣唐使などによって請来されたものと想像できる。

中将姫伝説は『観無量寿経』の韋提希夫人の話をもとにしたもの。

西塔(国宝)

 三重塔で奈良時代後期~平安時代前期と推定されている。東塔とは異なり二重・三重とも柱間三間。九輪が八箇であることは東塔と共通。

足立康によって再建説が出されていて、白鳳期の舎利容器がみつかっていることから創建は古くなる可能性がある。-

東塔(国宝)

 奈良時代の三重塔。二重と三重は柱間が二間となる独特なもの。屋上の九輪は八箇とこれも独特。

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舎利容器

 平成29年の屋根瓦解体修理工事の際に、相輪部心柱の先端から金製(高さ2.1cm)、銀製(高さ3.1cm)、銅製(高さ9.1cm)の三重の入れ子式の舎利容器がみつかった。形状や構成などから白鳳期に遡るものとみられている。三重の舎利容器は滋賀県崇福寺跡、奈良県法隆寺などにも類例。

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傘堂に向かう。正面に二上山が見える。

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傘堂

 一辺が約40cmの四角い一本の柱に方形造の屋根を架けた瓦葺きの建物(奈良県指定有形民俗文化財)。郡山藩主本多政勝の菩提を弔うため、家臣や農民によって延宝二年(1674)に建立された。

傘堂に吊り下げられていた梵鐘は、現在は石光寺が所蔵。梵鐘には大池の開削と、傘堂との関連をつづる銘文が刻まれている。水飢饉に苦しむ農民のために大池の築造を行なった藩主と工事関係者の菩提を弔う供養塔として傘堂は守られました。

また、安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっている。毎年八朔の日に新在家・染野・今在家の三カ大字の役員が集まり「八朔の法要」が行なわれる。

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當麻山口神社

 式内大社。祭神は大山祇命・天津彦火々瓊々杵命・木花佐久夜姫命。大山祇命は「大いなる山の神」を意味し、山口神社の本来の祭神。『三代実録』によれば貞観元年(859)正月二七日に従五位下から従五位上に昇叙された。

もとは當麻寺境内にあったものをある時期に移転したと社伝にある。

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鳥谷口古墳(県史跡)

 二上山東麓で土取工事中に偶然発見された。一辺約7.6m、高さ2.1mの方墳で、小字名から鳥谷口古墳と命名された。墳丘は外面に人頭大の自然石を貼石し、東・北・西には幅約3mの掘り割りがあった。凝灰岩製の横口式石槨は未成品の家形石棺の蓋を転用して組まれたもので、前室も付属していたようだ。石槨の内法は長さ約1.6m、幅約0.6m、高さ約0.7m。開口部は南側面東寄りにあり長い棺を入れることは困難なので、再葬した埋葬施設とみてよい。

 出土遺物は少なく、土師器3点と須恵器4点だけ。土器の型式が飛鳥Ⅳにあたることから、鳥谷口古墳は7世紀第四四半期頃の築造と考えられる。

宮内庁は「大津皇子二上山墓」を大津皇子の墓に指定している。一方で、この鳥谷口古墳を大津皇子の二上山の墓に比定する説もある。

鳥谷口古墳を見渡せる親水講演で昼食。

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鳥谷口古墳

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二上山への登りにかかる。

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ますます坂がきつくなる。

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岩屋峠

 竹内峠の北側を通行する標高約350mの峠。『西国名所図会』には「河内より大和路に越ゆる内にて第一の難所なり」とある。

 峠の名前の由来となった岩屋(国史跡)は大小二つの石窟からなる。大石窟(幅7.6m、高さ6.1m、奥行き4.5m)の中央には凝灰岩製多層塔があり、北壁面には三尊立像が彫られていたようである。奈良時代の須恵器・土師器が出土していることからその頃の寺院跡と考えられる。この付近は凝灰岩の石切場であったので、それを利用して造られた。

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二上山

 金剛山地の北端に位置する双耳峰で、橿原市方面からみて山の右側(高い方)が雄岳で標高517m、左側(低い方)が雌岳で標高474m。

二上山周辺は火成岩や火砕流堆積物が分布している。サヌカイトは安山岩の一種で、北麓付近で原石採掘・加工がされ、打製石器に利用された。凝灰岩は屯鶴峯・鹿谷寺跡・穴虫などで切り出され、石棺・基壇外装・礎石などに利用た。ザクロ石(金剛砂)は火山岩が風化・流出したものの堆積物で、研磨剤やサンドペーパーなどに利用された。

『続日本紀』天平十五年九月の記事には「以大坂沙治玉石」とあり、奈良時代には既にこの付近で採集された砂を用いて玉石が磨かれた。

雄岳、雌岳の中間の馬の背。

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雄岳山頂

ようやく山頂に到着。解説を聞く。

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葛木坐二上神社

式内大社。祭神は豊布都霊神・大国魂神。『延喜式』には「葛木二上神社二座」とあり、二神が祀られていた。創建は不明ながらも、『三代実録』貞観元年(八五九)正月二七日に従五位下から従五位上に昇叙されたことから9世紀に遡ることは確実でだが、当初からこの場所に鎮座したかどうかは不明。

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大津皇子二上山墓

大津皇子は天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘、持統天皇の姉)との間に生まれた。天武十二年(683)二月一日に「始めて朝政を聴しめす」と『日本書紀』にあり、天武十年二月に皇太子となった草壁皇子に次ぐ立場だった。

朱鳥元年九月九日に天武天皇が崩御すると、同月二四日の殯に際して大津皇子が皇太子を謀反しようとしたとされ、十月二日に他の30人余りとともに逮捕された。翌日に大津皇子は訳語田の家で死を賜る。この時大津皇子は二四歳でした。

姉の大来皇女は弟の死を悼み「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む」という歌を詠んだ。

 大津皇子を二上山付近に埋葬したとする史料は、『万葉集』巻二―165・166の「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時、大来皇女哀傷みて作りませる御歌二首」のみで、具体的な場所について書かれたものはない。宮内庁は二上山雄岳山頂付近を「大津皇子二上山墓」として明治9年に指定している。その根拠は不明ですが、『大和志』(並河永編『日本輿地通志畿内部』の一部、享保一九年成立)で「在二上山二上神社東」としていることが影響していると考えられる。

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下りにかかる。

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当麻寺の塔を遠望。

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膝に響く坂道が続く。

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葛木倭文座天羽雷命神社

 式内大社。全国にある倭文(シドリ)神社の根本の神社。祭神は天羽雷命・天忍人命(アメノオシヒコノミコト)・大国魂命。主神の天羽雷命は、天照大神が岩戸に隠れた時に高皇産霊神の命を受けて文布を織った神で、縑(かとり)を織ることを業とした。その子孫が倭文連(『日本書紀』)。

倭文(しどり)とは古代日本の織物で、天理市下池山古墳出土大型内行花文鏡に付着した繊維製品(青色・黄緑色・茶色の縞織物)がこれだと考えられている。大同元年(800)の『新抄格勅符抄』には倭文神に23戸の神戸が与えられ、貞観元年(859)正月二十七日に従五位上に叙せられている。しかし、倭文神社は葛城市寺口にある博西(はかにし)神社とする説もあり、博西神社は18世紀には「葛木倭文大明神」と称されていた。

 天忍人命は掃守連の祖神。(『新撰姓氏録』)。『古語拾遺』には天祖彦火尊(アマツミオヤヒコホノミコト)と豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)との間に彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)が生まれた時、天忍人命が海辺の産小屋に供奉して箒で蟹を払ったという伝承が記されている。

加守廃寺(県史跡)

 二上山東北麓にある古代寺院跡で、尾根を挟んだ北と南の谷に遺跡が分かれる。北遺跡では塔跡が発見された。薬師寺塔と同規模の凝灰岩製壇正積基壇、犬走り、回廊の遺構が検出され興福寺式軒瓦が出土。『正倉院文書』に「造掃守寺御塔所解」(天平勝宝二年、750)としてみえる掃守寺塔跡と推定されている。

 南遺跡では長六角堂基壇を検出。

基壇は凝灰岩製壇正積基壇で正面と背面に石階(正面は三間分、背面は一間分)が設けられ、周囲には幅約1mの犬走りの石敷きがある。礎石はすべて抜き取られていたが、据え付け穴から、内陣は三間×二間で、四面に廂がつくことがわかる。

 出土する軒瓦は岡寺式の葡萄唐草文軒平瓦で、8世紀初頭から中頃のもの。葡萄唐草文軒平瓦は義淵僧正に関わる山岳寺院から出土することで知られ、醍醐寺本『薬師寺縁起』にみえる「掃守寺(「龍峯寺」」がこの寺院跡とみられている。『薬師寺縁起』には、怒りによって龍に変身した大津皇子を調伏し供養するために義淵と修円によって建立したとする説話が収められている。ただし、義淵と修円は活動した時代が異なるので、これは後世に創作されたものと考えられる。

 長六角堂跡の西方では金銅製骨蔵器が出土し、東京国立博物館に収蔵されています(重要文化財)。このことから長六角堂を加守古墓に対する供養堂とみる見解もあるが、出土場所は火葬墓の立地としては相応しいとは思えない。

この付近には加守廃寺のほかにも當麻寺や石光寺、只塚廃寺などの同時代の寺院が狭い地域に複数あり、創建にはやや特殊な背景があるのかもしれない。(文章は会報から引用)

南遺跡

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六角堂跡は湿地帯になっていた。左側で骨蔵器が出土。

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