2019年10月例会「古代豪族葛城氏の一大拠点、南郷遺跡群周辺を歩く」
日時:10月20日(日)午前10時
案内:青柳泰介学芸係長
行程:JR掖上駅→掖上鑵子塚古墳→條ウル神古墳→條庚申塚古墳→みやす塚古墳→室ネコ塚古墳→室宮山古墳→(昼食)→南郷遺跡群→御所駅解散
今回は葛城氏の一大拠点南郷遺跡群・葛城地域最大の前方後円墳室宮山古墳を中心に、葛城地域南部の主要な遺跡を歩きます。南郷遺跡群は案内して頂く青柳先生の研究活動の原点の一つになっておられ、とても思い入れのある遺跡です。先ず、掖上鑵子塚古墳後円部の周堤から葛城地域の境界になる郡界橋辺りを遠望し、水越峠に向かって全15㎞を東西に歩くルートです。南郷遺跡は金剛山の東側山腹から山麓にかけて広大な土地を切り開き、様々な施設が斜面を利用して配置された遺跡群ですが、今は棚田になり往時を偲ばせる建物は残っていません。長距離行となりますが水越峠を越える東西ルートを一気に踏破し、葛城地域の人々がこのルートをいかに重要視していたかを考えながら、ヤマト王権を支えた葛城氏の支配拠点だったことを体感したいと思います。
和歌山線「掖上駅」
JR和歌山線「掖上駅」傍の駐車場にて集合
晴天の下、120名の会員さんが集まりました
青柳先生は今年10回も今日のコースを歩かれたそう
掖上鑵子塚古墳後円部側周堤から郡界橋方向を見る
葛城地域の東の境界になり、重要な戦略拠点!
「見逃さないで下さい」と先生がその方向を示される
掖上鑵子塚古墳
国見山北麓の山間にある古墳時代中期中葉の大型前方後円墳(全長149m)です。
発掘調査はされていませんが、早くに盗掘されており、金銅製帯金具や埴輪が採集されています。
掖上鑵子塚南古墳(鑵子塚古墳・前方部南隣、径35m程度の円墳)を東から見る
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掖上鑵子塚古墳後円部が見えてくる。
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掖上鑵子塚古墳前方部前端北側から前方部
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條ウル神古墳(巨勢山658号墳、全長70m)
古墳時代後期後葉の前方後円墳ですが、墳丘がかなり削りとられており、本来の形状を想像するのは困難な状況です。大正年間に大型横穴式石室(玄室長7,1m以上)や家形石棺(全長2,8m) が発見されています。
條ウル神古墳を東から見る
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條ウル神古墳を西南西から見る
「見学できないのが、残念ですね」と説明板を映す会員さん
條庚申塚古墳(巨勢山642号墳、径23m)
横穴式石室が開口している後期の円墳ですが、調査をしていないので、正確な時期は不明です。
條ウル神古墳から庚申塚古墳墳丘を望む。
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庚申塚古墳墳丘を南東から見る(墳丘登口に小祠あり)
みやす塚古墳
かつて墳頂部を調査し、ヒレ付き円筒埴輪列が確認された前期後半の大型円墳(径50m)です。
みやす塚古墳を東から見る
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みやす塚古墳を北から見る
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室ネコ塚古墳(方墳 1辺63m)
ネコ塚古墳は宮山古墳の陪冢と考えられていますが、明治時代に調査され、竪穴式石室が検出されて、鉄器が副葬されていたようです。そのほか甲冑、刀剣類、鏃などの鉄器片や埴輪片などが採集されています。
室ネコ塚古墳をR-309号線越しに南から見る
室宮山古墳(前方後円墳 全長238m)
南北の前方部側面に各々張出部、北側のくびれ部に造出をもつ、葛城地域最大の前方後円墳です。
北側張出部ではかつて粘土槨が検出され、甲冑、刀剣類、鏃などの鉄器が副葬されていたようです。
なお、一段目のテラスには埴輪列がめぐっていました。
八幡神社境内
先生の説明に耳を傾ける皆さん
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室宮山古墳後円部への登り口
今回は石室にスズメバチがいるとのことで、見学は中止になりました
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室宮山古墳南側、桜田池公園で昼食・休憩
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桜田池公園から見る室宮山古墳南側墳丘
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南郷遺跡群
南郷遺跡群は金剛山の東麓部、東西1.4km、南北1.7km、面積にして約2.4㎢に広がる巨大集落遺跡です。古墳時代の中頃、5世紀代を中心とした時期のさまざまな特徴をもつ施設や建物が検出されました。またこの遺跡群では渡来人に関わる遺構・遺物が検出され、渡来人により支えられた集落であったことがわかりました。(『葛城の王都 南郷遺跡群』より)
多田桧木本遺跡(おいだひのききもといせき)(標高130m)
南郷遺跡群の最北端に位置し、古墳時代中期後半の住居地らしい遺構を検出。
南郷遺跡群入口百川畔で説明を聞く
右林の手前、小高い平坦部は多田桧木本遺跡
佐田柚の木遺跡
古墳時代中期から後期にかけて、連綿と遺跡が継続していました。特に、中期前半のミニチュア鉄斧とガラス小玉の鋳型、および中期後半の「大壁建物」が特筆されます。
多田桧木本遺跡(左)を抜けて、下茶屋カマ田遺跡へ向かう。
左奥が佐田柚の木遺跡
下茶屋カマ田遺跡
中期前半の玉造や鍛冶関連遺物が出土しており、常設展示で遺物や写真パネルが紹介されていました。
下茶屋カマ田遺跡での説明
ここから登り坂にさしかかる
南郷九山遺跡
南側斜面地の高所では小規模な導水施設(中期前半。廃絶時の層から鉄滓約十キロ、鞴羽口数十片が出土しました。南郷遺跡群で最多です。また、常設展示にあった木製キヌガサの柄も少し下流で出土しました)、中位では土器棺列(後期か?)、低所では土器が多量に出土した河川(中後期)を確認しました。
谷を2つ越えて南へ。
下茶屋サカイ田遺跡を過ぎ南郷安田遺跡へ向かう
右奥が南郷九山遺跡
谷を越えて振り返る。右奥が下茶屋サカイ田遺跡
左奥が南郷九山遺跡、南郷九山遺跡の谷を越えた北側が南郷井柄遺跡
振り返ると細い尾根と深い谷が!ここから遺跡群の中央部。
今まで歩いてきた北部の緩傾斜地の違いを体感する
南郷安田遺跡(なんごうやしだいせき)(標高160m)
南北に並んだ3つの区画からなります。中央に大型建物(1辺17mの正方形)を配置し、南側に竪穴建物群(管理施設?)、北側に柵・塀で囲まれた空間(まつりの空間?)を随えています。この施設群の山手には柵・塀がめぐり、下手は崖となっていますので、広場を想定できません。
南郷安田遺跡から奈良盆地南域を見る、畝傍山が見える。
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南郷安田遺跡での説明 遺跡は左側奥
南郷大東遺跡(標高190m)
導水施設がありました。この施設は、全長25mにおよぶ大規模な施設であり、上流側から石貼りの貯水池→導水用木樋2本→垣根と覆屋で二重に遮蔽された大型槽付き木樋→排水用木樋からなります。特に、垣根、覆屋、槽付き木樋は、埴輪にも形象されますので、出土遺物(韓式系土器、製塩土器、馬遺存体や、特に、木製品が多彩な内容をもち、農工具、機織具、刀剣形、照明具などがみられます)などもあわせて考えると、葛城地域の首長と渡来人のリーダーなどが参列し、夜間に執行された、水を用いた重要な儀礼の場であったと考えられます。
南郷大東遺跡瀬説明を聞く。
正面に見える金剛山の頂点の円錐形は白雲丘
王の山とも呼ばれている
南郷大東遺跡
導水施設の説明に先生の思いが込められているよう
どんな儀式が行われていたのか?興味津々
殯の施設かも・・・?
極楽寺ヒビキ遺跡(標高240m)
調査時には南西コーナー以外のコーナーが崖崩れで消失していたようですが、かつては、前方後円墳の側面にとりつく陸橋をともなった出島状遺構そっくりの、石貼りの方形区画が存在していました。それだけではなく、この区画の山(西)側に寄せて、先述した室宮山古墳出土の家形埴輪とそっくりの柱形状と配置をした大型建物(1辺約15mの正方形)が樹立されていたのです。すなわち、二重に古墳との類似点を見いだせるのです。なお、この施設では、その大型建物の東側に広場を伴いますので、南郷安田遺跡とは機能的な違いがあったと思われます。
なお、遺跡群南端に展開した中期前半の大規模儀礼施設群は、有機的につながっていた可能性があり、葛城氏のリーダーたちにより、地域を統合するための重要な儀礼を執行していた可能性があります。南郷大東遺跡で夜間に儀礼を執行したことや、垣根の入り口が南郷安田遺跡の方向を向いていることなどを考慮すると、その儀礼は、南郷安田遺跡(夕方~夜、大型建物内に参集して何かの儀礼を執行か?)→南郷大東遺跡(深夜~早朝、水を用いて農耕儀礼、機織り儀礼、模擬戦など多彩な儀礼を建物内外で執行)→極楽寺ヒビキ遺跡(夜明け前~朝、大型建物外の広場に参集して何かの儀礼を執行か?)という流れになっていたと想像されます。そして、南郷大東遺跡や極楽寺ヒビキ遺跡のように、古墳を構成する要素との形状的な共通点が存在することは、この一連の儀礼が、権力基盤をかためる上で、かなり重要な儀礼であったと想像できますが、その実態に迫るには、まだまだ時間がかかります。
極楽寺ヒビキ遺跡 南西から北東方向
極楽寺ヒビキ遺跡 南西から北西方向
極楽寺ヒビキ遺跡 解説を聞く
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極楽寺ヒビキ遺跡から奈良盆地を見る
磐之媛が夫に嫌気をさし、高津宮には帰らず
奈良に行く途中に見えた高宮は、威容を誇る建物だったのでしょう
奈良盆地を見ながら極楽寺ヒビキ遺跡を去る
黄金色に輝く棚田は、遥か昔はたくさんの建物が重なりあう葛城の王都で、
高殿は光輝いていたように思える一日でした。
葛城氏は、それまでになかった独特の地域開発を古墳時代中期に実践しました。それは、韓半島での活動の成果を反映させた「葛城四邑」の建設を基礎としていました。すなわち、桑原、佐糜、高宮、忍海の四つの集落です。地名より佐糜は南郷遺跡群南方の佐味、忍海は北方の忍海に比定でき、高宮は葛城地域最大の前方後円墳である室宮山古墳に近いことなどより南郷遺跡群に、桑原は室宮山古墳の次代の前方後円墳である掖上鑵子塚古墳から唯一見える郡界橋周辺が比定できるのではないかと考えます。
交通路、古墳、集落、そして農業生産域が有機的に結びついた、きわめて機能的な地域開発を想定できます。 その中でも南郷遺跡群(高宮)は重要な位置を占めたので、その重要性をアピールするため、遠方からも視認できる工夫がされていました。すなわち、様々な施設が重なって見えないように、斜面地を利用して配置され、特に重要な施設は上方に設置されたのです。それは、この遺跡群が廃絶して久しい現代においても分かります。
また、葛城四邑をつなぐ交通路も絶妙で、南北ルートは、紀ノ川→佐糜(風の森峠)→高宮→忍海→竹内峠・大和川、東西ルートは、河内石川→水越峠→高宮→桑原(郡界橋)→新沢千塚・曽我が想定され、両ルートは高宮で交差すると考えられます。そして、その高宮周辺に葛城地域最大の前方後円墳(室宮山古墳)、地域のシンボル(一言主神社)を配置していますので、かなり周到に地域設計がされたと考えられます。
特に、水越峠を越える東西ルートが重要視された可能性があり、それは室宮山古墳の主軸、古墳時代前期の秋津・中西遺跡の位置、弥生時代の銅鐸・多鈕細文鏡の埋納位置などからも推定できます。
(解説文は『友史会報616号』より引用)