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友史会 令和元年(2019)9月例会「斉明天皇の神まつりと吉野宮を体感する」
日時:2019年9月15日(日) 午前9時30分
案内:重見 泰先生
近鉄橿原神宮前駅(出発)⇒ミハ山→飛鳥稲淵宮殿跡⇒(稲渕へ)⇒男綱→飛び石→南淵請安墓→飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社⇒キトラ古墳壁画体験館「四神の館」(昼食・休憩)⇒比曽寺跡⇒吉野歴史資料館(出張企画展「発掘 古代の宮滝遺跡」)→宮滝遺跡→桜木神社⇒浄見原神社⇒近鉄橿原神宮前駅(解散)
     ※(凡例)⇒:バス移動       →:徒歩移動

橿原神宮駅

事前に申し込みをした147名が橿原神宮前駅よりバス3台を連ねて飛鳥・宮滝へ向けて出発。

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ミハ山・稲淵宮

最初にバスから降り立ったのはフグリ山(ミハ山)の麓。今年の2月例会「飛鳥の神名火を巡る」の際には神名火の有力な候補地とされたミハ山に登ったが、今回は改めて円錐形の姿を眺めながら重見先生と下尾会長の挨拶・説明を聞く。

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ミハ山の南東麓に位置する稲淵宮殿跡へ歩く。残暑の日差しが照りつける。

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飛鳥稲淵宮殿遺跡で説明を受ける。

ミハ山の南東麓に位置する七世紀中頃の宮殿跡です。正殿とみられる九間×四間の東西棟建物を中心に後殿と脇殿が計画的に配置されており、正殿と後殿の間の空間は一辺40センチメートルほどの石を敷き詰めた石敷の庭になっています。正殿のまわりに石敷を施すのは飛鳥宮跡や宮滝遺跡と同じ特徴であり、計画的な造営と建物の規模を考えあわせると王宮に類する施設だったと考えることができます。

 妄りに立ち入ることのできないカムナビ山の麓に宮殿を構えることができるのは天皇か天皇に近い有力者と考えられます。遺跡の造営時期は難波から飛鳥に還都した頃であることから、飛鳥還都で中大兄皇子が皇祖母尊(のちの斉明天皇)らを率いて遷った飛鳥河辺行宮の候補地と考えられています。

                                        (会報より)

男綱・飛び石

男綱の解説を聞く

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稲渕と隣の栢森に伝わる神事に〝綱掛神事“がある。子孫繁栄と五穀豊穣を祈り、悪疫などが飛鳥川と道を通って来ることを防ぐために毎年1月に行われる。稲渕には男綱、栢森には女綱が吊り下げられている。今回は男綱の見学のみ。

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飛鳥川に渡された飛び石を一方通行で渡る。「初めて渡った!」「念願の飛び石を渡れた!」と感激する声が方々から聞こえる。水量が少なく皆さんズボンを濡らすことなく無事に渡り終える。

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万葉集にも数多く詠まれた飛び石(石橋)と飛鳥川

水かさが増すと渡れないことから両岸のふたりが悲しむ姿が目に浮かぶ・・・。

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南淵請安墓

南淵請安墓へ

推古16年(608年)遣隋使に随行した学問僧。 中大兄皇子・中臣鎌足らに儒学を授けたという。

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南淵請安墓碑

川の方に張り出した尾根上にあり、廻りを一巡できる。

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南淵請安墓全景

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南淵請安墓で説明を聞く

飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社

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川沿いに歩いて飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社へ向かう。

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飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社の前の清流には大きな淵があり、

そこで皇極天皇が祈雨を行ったという説がある。

高貴な方が乗っていた馬の足跡があるとか、あったとか。・・・。

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飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社参道 拝殿には200段の階段を上る。

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飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社拝殿

今回は時間の関係で参拝せず、200段の石段はパス。

1時間半の徒歩による飛鳥川上流の散策を終え、冷房の効いたバスに乗り込み昼食場所へ。

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キトラ古墳壁画体験館「四神の館」(昼食・休憩)

平成28年9月に開館した施設で「四神の館」という名前は公募して付けられた。

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比曽寺跡

比曽寺跡に到着。 世尊寺山門から現在の本堂を見る。

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比曽寺西塔跡

推古天皇が夫の敏達天皇のために建立したと伝わる。相次ぐ戦乱に災いされ焼失した。

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比曽寺東塔跡

聖徳太子が父の用明天皇のために建立したとされる。文禄3年(1594年)豊臣秀吉によって伏見に移され、その後徳川家康によって大津市の三井寺に移された。

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比曽寺跡で説明を聞く。

吉野郡最古の寺で現在は霊鷲山世尊寺といい、過去には吉野寺、現光寺、栗天奉寺とも呼ばれていました。『日本書紀』欽明14年(553)5月条によると、河内国の泉郡茅渟の海中から雷のような音と太陽のような光が現れたので天皇が確認させたところ楠木が海に浮かんで耀いていたといい、献上されたこの楠木で造った仏像が吉野寺の光を放つ像だと伝えています。したがって吉野寺が『日本書紀』編纂時には存在したことが確実ですし、採集された軒瓦には七世紀中頃のものがあるため創建時期は飛鳥時代にまでさかのぼるものと思われます。

 天智十年(671)、大海人皇子は天智天皇に出家する意思を告げ、許可を得て吉野に入ります。壬申の乱のきっかけとなる吉野入りですが、このとき大海人皇子が利用したのがこの吉野寺ではないかとも言われています。また、大海人皇子の吉野入りよりも四半世紀前、乙巳の変後に譲位を固辞した古人大兄皇子も出家して吉野に入りますが、このときも吉野寺に入ったと推測されています。(会報より)

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世尊寺境内

7世紀中頃の瓦が出土している。

数々の歴史の舞台となった寺だが、今はオオヤマレンゲや百日紅でも知られる。

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世尊寺本堂

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世尊寺鐘楼

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世尊寺太子堂

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世尊寺十三重塔

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宮滝遺跡

奈良時代の大型建物遺構が見つかった場所。聖武天皇の吉野離宮ではと考えられている。

象山が正面にそびえる。

「み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも」 山部赤人 巻六(九二四)

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重見先生の説明を聞く。

宮滝遺跡は縄文時代後期から古代にかけての複合遺跡で、その一部が国史跡に指定されています。宮滝は遺物が出土することで明治20年ごろには注目されており、吉野離宮を詠った万葉歌の地名や情景と合致することから吉野宮の候補地とされていました。吉野川を挟んで宮滝遺跡の南対岸には万葉歌に登場する象山と三船山が目の前にそびえています。

2018年度までに70次の調査が実施されています。その間に飛鳥宮跡における調査の進展で王宮構造に対する理解が進み、宮滝遺跡の石敷きが王宮構造と類似するものと考えられるようになりました。さらに宮滝遺跡で斉明朝~持統朝の園池がみつかったことから、斉明天皇が造営した吉野宮との関係性も高まりました。

 また、近年の史跡整備にともなう調査では、一次調査で確認された石敷きに囲まれた空間で正殿とみられる大型建物の規模を確定しています。古代の宮殿建物は左右対称に配置されていますので、確認された大型建物を中心とした建物配置を想定することができるようになり、全体像の想定復原が可能になりました。

 正殿の南正面にはカムナビ山を彷彿させる円錐形の象山がそびえていることから、吉野宮は象山を意識した建物配置であった可能性があります。持統天皇は31回も吉野宮に行幸しますが、その理由の一つに象山と三船山の間に遠く望むことができる青根ヶ峯北麓に祀られた吉野水分神に対して祈願するためだと考えられています。しかし、吉野宮の正殿とみられる大型建物からは青根ヶ峯がまったく見えません。正殿との位置関係からすれば象山をより重視していた可能性が高いと言えるでしょう。(会報より)

ここで吉野歴史資料館を見学するA班と、桜木神社へ行くB班とに分かれる。

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B班は吉野川を渡って桜木神社へ向かう。

象の小川が吉野川に流れ込む滝付近が「夢のわだ」

「我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にしありこそ」 大伴旅人 万葉集巻三(335)

 自分が(大宰府から)帰ってくるまで、夢のわだは浅瀬にならずに淵のままであってほしい

「夢のわだことにしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば」 万葉集巻七(1132)

 夢のわだとは言葉だけだったのだが現実に見ることが出来た。長い間思いに思って来たことだ。

宮滝遺跡の南側は吉野川の景勝地

川の深い緑色に吸い込まれそう。

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桜木神社

象(きさ)の小川にかかる水木橋を渡って桜木神社境内へ

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象(きさ)の小川の清流

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桜木神社境内

大穴牟知命、少彦名命とともに天武天皇を祀る。

大友方に追われた大海人皇子が桜の木の下に隠れて難を逃れたという

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吉野歴史資料館

A班は吉野歴史資料館で開催中の橿考研附属博物館出張企画展「発掘 古代の宮滝遺跡」を見学。

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重見先生から展示の説明を受ける。

館内が狭いので、1階と2階に分かれて見学。

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バス3台は梅谷醸造元前の駐車場に停めさせてもらう。

右奥は飛鳥時代の斉明~持統朝頃の園池や建物遺構があった場所。

園池からは長さ1mもある土管が10点以上出土した。資料館2階に展示してある。

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浄御原神社

バスは蛇行した吉野川沿いに走り最後の訪問地である浄御原神社へ。

神社手前の広場で説明を聞く。

天武天皇を祀る浄御原神社は天皇の淵を眼下に見下ろす断崖の上に建てられている。大海人皇子が大友方の追っ手から隠れすんだ場所と伝えられており国栖の人々がお守りしたと伝えられている。

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天皇の淵(片腹の淵)

国栖の人々は大海皇子をウグイでもてなした。皇子は食べたウグイの片側を水中に投じて勝敗を占ったところ、勢いよく泳いで戦勝を予兆したとの伝承がある。

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天皇の淵(片腹の淵)と背後は衣笠山

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国栖奏の着替えなどを行う仮屋

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神社へは川沿いの狭い石の参道をたどる。横は断崖。

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浄御原神社舞殿に到着。国栖奏はここで旧暦1月14日に催される。

こんな狭い場所に見物客が大勢来たらどうなるんだろうと心配になる。

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浄御原神社本殿

断崖の上に鳥取県の投入堂を思わせる社があり、中に小さな祠の本殿があった。

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浄御原神社の見学を終えてバス乗り場へ歩く。

バスは一路橿原神宮前駅まで戻り解散。

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説明文(藤原三津子)