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友史会国内遺跡見学バス旅行

「徳島・気延山周辺の古代遺跡を巡る」
日 時:2019年6月2日(日)
見学先:山の神古墳、八倉比売神社古墳、宮谷古墳、奥谷1号墳、矢野古墳、徳島市立考古資料館
案 内:徳島市立考古資料館 村田昌也主任学芸員、大粟美菜学芸員、橿原考古学研究所附属博物館吉村和昭学芸課長

以下の文章の引用・参考資料

・『徳島・気延山周辺の古代遺跡を巡る』村田昌也徳島市立考古資料館主任学芸員

・『川と人間-吉野川流域史―』東潮徳島大学名誉教授(橿考研OB)

徳島市と気延山周辺の歴史

「令和になって最初の国内研修バス旅行は、徳島市の気(き)延(のべ)山に点在する古墳群の見学です。 徳島は古くは吉野川流域から那珂川北岸一帯を「粟の国」那珂川から南側を「長の国」と呼ぶ二つ の国に分かれていましたが、713(和銅6)年に統合され「阿波国」と記されるようになりまし た。徳島を横断する吉野川は利根川、筑後川と並ぶ三大暴れ川で、縄文時代は吉野川の河口付近で 合流する鮎喰(あくい)川(がわ)の流域が生活基盤となり、魚介を中心に狩猟採集を行う人々が集落(三谷遺跡)を 形成しました。気延山麓の扇状地にも集落が築かれ、矢野遺跡は西日本でも有数の遺構と遺物に恵 まれた縄文時代の集落です。縄文時代の終わりには三谷遺跡に近接する低地で水田を作り、稲作を 行う集団が定住し(庄・蔵本遺跡)米づくりとともに、青銅器や鉄器の技術も伝わり、鮎喰川流域、 特に東岸に多くの集落が形成されるようになりました。これらの集落では稲作以外に朱の精製作業 も行われ、朱が付着した石杵や土器が出土しています。この鮎喰川東岸に点在していた集落は弥生 時代の終わりには衰退し、代わって西岸に巨大な集落が形成されました。矢野遺跡を見下ろす気延 山の尾根上には、畿内の影響を受けたと考えられる纏向型前方後円墳(宮谷古墳)が築造され、三 角縁神獣鏡が3面出土していることから鮎喰川西岸の集落が近畿地方との強いつながりを持って いたことがわかります。宮谷古墳の築造以降、気延山には次々と盟主的存在の墓が築かれていきま したが、古墳時代中期になると気延山には大きな古墳が築かれなくなり、眉山より南側で古墳の築 造が行われるようになりました。徳島平野南部を流れる多々羅川流域で県内最大の前方後円墳であ る渋野丸山古墳が築造され、墳丘の形が畿内地方と同じ規格であることから畿内の政権と関わりの ある人物の墓ではないかと考えられています。渋野丸山古墳以降、前方後円墳は築造されなくなり、 多々羅川流域での古墳築造も停止しています。古墳時代後期になって、再び気延山一帯に横穴式石 室の施設を持つ円墳が作られましたが、多くの古墳は江戸時代以降、開墾や土取りで破壊されてい ます。古墳のある気延山は石井町と国府町の境にある標高212.3mの小高い山で、1185年源 義経がこの山で休息したことから気延山と名付けられました。気延とは休憩と言う意味だそうです。

 白鳳期になり各地に国評里が設置されると、阿波における政治的中心施設が気延山東麓に設けられ、この施設が後に阿波国府へと改変されたと考えられ、国分寺と国分尼寺も続いて創建されました。

 長年阿波国府の所在地について様々な議論がおこなわれ私案が示されてきましたが、阿波国府に関連するとみられる遺構や遺物が見つかった観音寺遺跡や敷地遺跡の成果から阿波国府は溝や壁で囲まれた区画の中に関連施設が集約された都城型の国府ではなく、小河川によって区切られた微高地上に分散して関連施設を設ける分散型の国府だったのではないかと考えられるようになってきています。

 阿波国府がいつまで機能していたのかははっきりしていませんが、鎌倉時代になり最初の阿波国守護佐々木氏(近江源氏)が国府に隣接する鳥坂に城を構えていることから、この時期には少なくとも国府の機能は残っていたと考えられています。しかし、承久の乱ののち阿波国守護となった小笠原氏が吉野川沿いの勝瑞に城を構えていることから、この時期には阿波国府の機能は失われ、気延山東麓の阿波の中心地としての役割を終えたと考えられています。」

小笠原氏は甲斐源氏の一族。文永4年(1267年)に三好郡郡領・平盛隆を討ち、阿波上郡(美馬・三好)を獲得、岩倉を拠点とした。子孫に三好氏、安宅氏など。

鮎喰川西岸、気延山周辺の遺跡

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鮎喰川東岸の遺跡

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淡路サービスエリア

8:40新大阪発。参加者は94名、バス2台はほぼ満席。

現地の天気予報は曇りで午後から降水確率が上がる。雨が降らなければいいが。

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大代古墳

鳴門インターを超えると、大代古墳トンネルの上に大代古墳が見える。

残念ながらここで、雨が降り始める。

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天気が良いときれいに見える(2月の下見時に撮影)。左側が前方部。

「大代古墳は、阿讃山脈から南に延びる標高43mの尾根上にある古墳です。2000年に四国横断自動車道建設 に伴う事前調査で発見されました。全長54mの前方後円墳で墳丘は前方部、後円部ともに2段築 成で葺石が施されています。下段平坦部と前方部の頂部には円筒埴輪が並べられていたことがわか り、後円部には朝顔形、盾形、家形の埴輪片が出土しています。後円部の中心に竪穴式石槨が設け られ、刳抜式船形石棺が検出されました。石棺は香川県大川郡に産する火山岩の白色凝灰岩製と考 えられ、石棺の内外面に水銀朱の塗布が確認されました。盗掘で副葬品は殆ど原位置にはなく、石 棺外に鉄剣、盗掘埋土から銅鏡片、鉄剣片、管玉等が多数出土しました。大代古墳は発掘調査後、 四国横断自動車道の建設で破壊される予定でしたが、重要な古墳であることからトンネルを通す 方法で保存されることになり、鳴門インターチェンジ近くから車窓で見ることができます。」

 大代古墳 刳抜式船形石棺(徳島県埋蔵文化財センター。2007年の国内遺跡見学会のおりに撮影)

 墳丘主軸線に沿って竪穴式石室が設けられており、さぬき市津田町火山産石材に内側に朱を塗った刳抜式船形石棺が検出された。火山は、阿讃山地の北側、西北西に40kmほど離れており、瀬戸内海から鳴門土佐泊まで海上を運ばれたのだろう。被葬者には、大和政権と讃岐に影響力を持ち、瀬戸内から大阪湾をつなぐ海上交通を掌握した人物が想定されている。

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ここからしばらく中央構造線断層に沿って進む。

 構造線の北側は和泉砂岩層、南側が緑泥片岩の三波川帯と地層が大きく分かれる。

高速道路の下には積石塚萩原墳墓群や天河別神社古墳群などの前期古墳が作られている。

これらの中に、規格性(①前方部が細長く側面が内側に湾曲。②積石が用いられる。②2基の竪穴式石室を持ち、石室は墳丘主軸に斜行し、埋葬頭位は東西。③鏡を1面副葬)を持つ、小規模な前方後円墳が多数みられる。高松を中心に瀬戸内海の交通の要地に築かれており、海運を掌握した集団で様々な機能(操舵、造船、飲料食糧調達など)を分担した有力者たちの墓と考えられている。

 これらの有力者の力関係は、当初は均等だったが、周辺部の徳島や旧大川郡(現さぬき市)から次第に崩れ、畿内と結びつく有力者が現れる。これら有力者が讃岐型前方後円墳の伝統を引き継ぎながら、畿内の古墳の特長をとり入れた古墳を作り始める。

これが宮谷古墳と考えられている。

旧吉野川を渡る。(Google)

板野インターチェンジを降りて、一般道を南下し、旧吉野川を渡る。

500mほど上流には黒谷川郡頭遺跡がある。弥生時代から古墳時代初期(庄内式)の朱の精製工房跡と推定され、石杵、石臼、辰砂が住居跡から出土している。出土した土器はこれから訪ねる気延山東麓の矢野遺跡と共通しており、朱は南方25kmの阿南市加茂谷、四国八十八カ所霊場21番札所太融寺北側の若杉山から運ばれたもの。黒谷川郡頭遺跡は矢野遺跡の住人のサテライト工房と考えられている。

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吉野川第十堰

吉野川第十堰(Google)

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吉野川第十堰(3月に南岸から撮影)

吉野川本流六条橋を渡ると下流に吉野川第十堰が望める。

1672年(寛文12年)、蜂須賀綱通により徳島城下へ舟運利便性向上と灌漑用水確保のため吉野川支流の別宮川の吉野川からの分流部を広げる開削が行われた。その後の洪水でこの水路が拡大し、別宮川が吉野川本川となった。

その結果、旧吉野川に流れる水量が減少し、水稲栽培に影響が出るようになったため、1752年(宝暦2年)に、旧吉野川への流量を確保する堰が当時の第十村(現在の石井町)につくられた。これが吉野川第十堰である。

藍はこの地方の古くからの特産物であったが、藍は本来連作が聞かない植物である。この地域ではたびたび発生する吉野川の洪水が肥沃な土の流入をもたらし、連作が可能となっていた。徳島藩はこのため敢えて堤防を築かなかったといわれる。

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山の神古墳

ほぼ定刻、11時半すぎに徳島大学実験農場前到着

大型バスで近づける道がなかったのですが、まだ、工事中の道が徳島大学農場そばまで延び、近くで下車することができた

 徳島市立考古資料館 村田昌也先生、大粟先生のお出迎えを受ける。

ここで現地参加の川島さんが合流。

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村田昌也主任学芸員の説明を受ける。

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山の神古墳へ向かう。

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山の神古墳の墳丘西裾で解説を聞く。

「山の神古墳は、気延山の北西端、標高40mの丘陵の岩盤を削平し築造された前方後円墳で、1978年に発見 されました。1983年に測量調査がされ、全長約57mを測る県内で3番目の規模を誇ります。 2014年以降の発掘調査で、墳丘の斜面に施された葺石は基底部に列石を設けず葺かれていたこ とが分かりました。また墳丘には円筒埴輪等の埴輪が確認されず、東側くびれ部付近から壺形土器 が出土しており、この土器の形状から古墳時代前期末の4世紀後半に築造されたと考えられていま す。主体部の埋葬施設は東西に主軸をとる2基の粘土槨で構成されています。覆っている粘土の陥 没状況から、第1主体部には箱型木棺、第2主体部には割竹形木棺が安置されていたと推定されて います。埋葬施設の主軸は東四国の前期古墳に多くみられる東西をとっているものの、埋葬施設は 近畿地方の影響を受けた粘土槨を採用していることから、この古墳の位置づけが大きな課題になっています。」

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墳丘に登る。

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後円部を望む。

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墳丘に残る緑泥片岩の石材。

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北西から墳丘を望む。右の木立が2号墳。

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2号墳は直径14mの円墳。鉄鎌、鉄斧、円筒銅器と家形埴輪片が出土しており、1号墳より新しい4世紀末の築造と考えられる。

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丘陵の岩盤を削り出した1号墳墳丘を西側から望む。(雑草のない2月の下見時に撮影)

右が後円部。

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バスに戻り考古資料館でトイレ休憩。

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宮谷古墳

宮谷古墳へ向かう。

「宮谷古墳は気延山の南東端、標高45mの舌状丘陵上に立地する全長37.5mの前方後円墳です。 阿波史跡公園の整備に伴って、1989年に墳丘の範囲を確認する発掘調査がされ、墳丘後円部に葺石が施されていること、三面分の三角縁神獣鏡が出土したことから、翌年主体部の発掘調査が行われ、墳丘の主軸東西にほぼ沿う方向で竪穴式石槨が検出されました。竪穴式石槨は主軸全長約6m、幅約1.2m、壁面は垂直に立ち上がり、蓋石は残っていませんが床面に粘土床が設けられており、重圏文鏡や管玉・ガラス小玉、鉄器(鉄斧・鉄鏃・ヤリガンナ)が出土しました。 前方部端部斜面上より出土した三角縁銘帯六神四神獣鏡は黒塚古墳、内里古墳、三角縁唐草文帯二神二獣鏡は赤塚古墳(大分県)、伝鶴山丸山古墳(岡山県)三角縁獣文帯五神四獣鏡は前橋天神山古墳、黒塚古墳、桜井茶臼山古墳と同形で、徳島県では唯一の出土事例です。埴輪は出土しておらず、二重口縁壺の破片が複数の個体分出土しています。この破片とよく似た形状のものが纏向勝山古墳の周濠内より出土しています。近年の研究で後円部径と前方部長の比率が2:1になる纏向型前方後円部と考える解釈があり、とても関心が持たれる古墳です。」

 竪穴式石槨の蓋石は、後世に盗掘に遣い、副葬品とともに蓋石も持ち去られたと考えられていたが、近年では蓋石は最初からなく、石槨を木製の板で覆った石囲木槨と竪六式石槨の中間的形態をなす埋葬施設だったのではないかという考えが示されるようになってきた。

気延山で産出したとみられる結晶片岩が淀川流域を中心に近畿の前期古墳の竪穴式石槨に利用されており、石囲木槨が阿波萩原墳墓群で先んじてその後近畿に伝播していることから石囲木槨から竪穴式石槨への変化も阿波から大和に伝わったとの見方もある。

後円部から前方部を見る。

 前方部端面平坦部に土坑が2つ見つかっており、斜面で出土した三角縁神獣鏡は、鳥居状の構造物に吊り下げられて脱落したとの見解が示されている。

弥生から古墳時代初期、吉野川北岸では画文帯神獣鏡を副葬する古墳が点在するが、南岸では見られない。このような地域で突如三角縁神獣鏡を副葬する宮谷古墳が出現する。

南岸の勢力が大和との関係に大きな変化がおきたと考えられる。

 宮谷古墳の主軸延長上の東麓から矢野銅鐸が出土しており、宮谷古墳被葬者との関係も考えられている。

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後円部墳頂で解説を聞く。

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前方部下から墳丘。

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南側から墳丘。右が前方部。

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後円部前で記念写真。 拡大写真

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八倉比売神社古墳群

八倉比売神社古墳群

 八倉比売神社古墳群は気延山山頂から東に延びる標高110mの尾根上に形成された円墳の1号墳と方墳の2号墳からなる古墳群です。古くは前方後円墳とする説と円墳と方墳に分けられるという説がありましたが、1992年におこなわれた測量調査によって、前方後円墳ではなく、円墳と方墳が接して存在していることが確認された。

 円墳と方墳が接して築造される事例は気延山から西に約6kmはなれた場所に所在する曽我氏神社古墳群でもみられ、曽我氏神社古墳群は発掘調査から古墳時代前期の築造であることがわかっており、八倉比売神社古墳群についても同じ時期に築造されたのではないかと考えられている。

長い坂道を登る。

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坂道の後に長い階段が待っていた。

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八倉比売神社拝殿に到着。1号墳へは神社右脇の坂道を登る

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八倉比売神社1号墳墳頂で解説を聞く。

「矢倉比売神社社殿の裏側に位置する直径35m、墳丘高約5mの円墳です。埋葬施設については未調査のため明らかになっていませんが、墳頂部に白色円礫が散在していることから、宮谷古墳と同様に竪穴式石槨が設けられていたのではないかと考えられています。頂上部に結晶片岩を積み上げて築かれた五角形の構造物についてはこの古墳と直接的な関係はなく、1790(寛政2)年に徳島藩10代藩主蜂須賀治昭の命により、神社に地神を祀る施設の基壇と考えられています。」

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 早雲伯耆の建白によって徳島藩10代藩主蜂須賢治昭が設置させた地神塚。古墳との直接的な関連は無いと考えられているが、地中にあった竪穴式石槨を解体し、その石材を転用している可能性は非常に高いと考えられている。

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1号墳から2号墳を望む。

 八倉比売神社2号墳は1号墳の北西に隣接して築造された方墳で、―辺が約20m、墳丘高約3メートルを測ります。円墳よりも方墳の規模が小さいのは曽我氏神社古墳群の特徴と共通しており、それぞれの被葬考の性格を考えるうえでの手掛かりになると考えられます。埋葬施設の詳細は不明ですが、曽我氏神社古墳群での発掘調査の成果から、八倉比売神社2号墳でも竪穴式石槨が設けられているのではないかと考えられている。

北側から墳丘を望む。(2月に撮影)

右が2号墳、左が1号墳。

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阿波史跡公園

阿波史跡公園を通って奥谷1号墳へ向かう。

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竪穴住居、高床倉庫などの古代の邑が復元されているがここに遺跡があったわけではない。

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奥谷1号墳

奥谷1号墳くびれ部から墳丘へ登る。

「奥谷1号墳は気延山山頂から東に延びる尾根の先端、標高42mの地点に立地する全長46mの前方後方墳で、県内唯 一の前方後方墳です。阿波史跡公園の整備に伴い、1989年に墳丘の範囲確認を目的とした発掘調査が 行われました。墳丘は地山の岩盤を前方後方墳に削ったあと、盛土をされていることがわかり、墳丘の斜面 に葺石も施されていて、円筒埴輪列も検出されました。埋葬施設については調査が行われていませんが、後 円部の中心部に南北に長いくぼみがあり、竪穴式石槨が設けられているのではないかと考えられています。 奥谷1号墳は気延山東麓において宮谷古墳に続き、矢倉比売神社古墳群と並ぶ盟主墳と考えられ、それまで徳島では存在していなかった前方後方墳を採用し、円筒埴輪の設置、南北に主軸を とる埋葬施設と、気延山における前期古墳の中では畿内的要素が非常に濃い古墳であると認識されています。 」

 築造年代については古墳時代前期(4世紀末頃)と考えられている。

 年代的に大きな差は無いと考えられている矢倉比売神社古墳群が地域色の濃い古墳であることから、両者は好対照な古墳と言え、それぞれの被葬者が阿波においてどのような位置づけの人物であったのか強い関心がもたれている。

また、前方部墳頂部で箱式石棺墓、くびれ部で石置土墳墓が見つかっていますが、5~6世紀のものと考えられている。

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奥谷1号墳の前方部から墳丘を見る。

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奥谷1号墳の前方部から墳丘を見る。(雑草のない2月撮影)

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天気が良ければ、奥谷1号墳墳丘から宮谷古墳がよく見える。(木が枯れている2月撮影)

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矢野古墳

「気延山山頂から東に延びる尾根の先端、南側斜面に立地する直径17.5mの円墳です。埋葬施設は南側に 開口する複室構造の両袖式横穴式石室で、古くから開口していて羨道の一部が崩れています。墳丘の保全 と見学ルートの整備に先立って2003年に発掘調査が行なわれました。石室は緑泥片岩(青石)を積み上 げ構築されています。奥壁は1枚の大きな石、玄室の側壁は大型の石材(腰石)を設置した後に、中型の 板石を持ち送り状に積み上げています。大型の板石を縦向きに設置し袖石としていますが、羨道の途中にも 縦向きに板石があり、間仕切りを設けた複室の横穴式石室であると解釈されています。前室の側壁も天井部 も垂直で、羨道は現在の入り口付近からさらに南に延びていたと考えられています。石室の規模は現状では 全長11.5m、高さは玄室で2.8mを測り、石室内から金環、複数の須恵器と土師器が出土しています。 須恵器の年代から6世紀後半に築造され、7世紀中ごろに亘って追葬が行われたと考えられています。羨道 部で平安時代に利用された遺構が検出され、板石の階段状の遺構、埋土の最も高い位置で土師器が置いてい たことから、この古墳が祭祀用施設として再利用されたのではないかと考えられています。」

順番に石室に入る。

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石室脇に放置された石材。開削された羨道の石材か。

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石室内部。

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石室。

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徳島市立考古資料館

徳島市立考古資料館 左の森の中に矢野古墳がある。

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展示を見学

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縄文時代 城山岩陰遺跡のジオラマ。

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縄文遺跡 三谷遺跡の出土物

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手前から源田中広形銅剣、源田2号銅鐸、源田1号銅鐸、名東銅鐸、矢野銅鐸

「矢野銅鐸は全高97.8cm、重量17.5㎏を測り、徳島県内において完全な形で残っている銅鐸です。 突線紐5式6区袈裟襷文銅鐸に分類され(近畿式銅鐸Ⅳ-5式)最も大きく最も新しい時期の銅鐸に 位置づけられています。気延山の東麓一帯は弥生時代後期から終末期にかけて集落が形成され、特に 終末期にかけては四国でも有数の規模を誇る大集落であったと考えられています。矢野銅鐸はその集 落の中に埋納されていました。銅鐸出土時の土層の観察から、木製の外容器に銅鐸を納めて埋納して いたことが明らかになっています。また容器の形状が銅鐸の鋳型と似通っているという指摘もされ、 銅鐸の製作にある程度知識のある人物が埋納にも関わっていたのではないかと考えられています。 銅鐸の埋納坑の周囲には複数の柱穴が検出されていることから、銅鐸埋納後に掘っ建て柱式の建物が 建てられていた可能性も考えられています。宮谷古墳の主軸の延長戦上に矢野銅鐸埋納地が重なるこ とから、宮谷古墳の被葬者との関連性も考えられています。」

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矢野古墳の出土品。

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徳島市立考古資料館講堂でミニ講座

 徳島市立考古資料館講堂でミニ講座。

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 出発に先立ち記念写真 拡大写真

淡路ハイウエーオアシス経由新大阪着19:30過ぎ。