2019年5月例会「銅鐸の出土地をめぐるⅧ」
日時:2019年5月19日(日) 午前10時
案内:北井利幸先生
行程:佐名伝ふれあい広場→佐名伝遺跡・佐名伝銅鐸出土推定地→滝遺跡・滝銅鐸出土伝承地→原遺跡→(バスで移動)→JR隅田駅→火打野銅鐸出土地→JR隅田駅解散(全行程 約8km)→(希望者のみ)隅田八幡往復
大阿太・佐名伝遺跡
集合
大阿太ふれあい広場。
会長挨拶「本日解散の隅田駅の近くに、人物画象鏡で有名な隅田八幡神社があります。
希望者は例会解散後、ご案内します。6・7月は講演会、9月はバス見学を予定しています。バスの例会は事前申し込みが必要ですので宜しくお願いします。」
北井先生挨拶「今日は遠いところにお集まり頂きありがとうございます。銅鐸を巡るシリーズは今回で8回目となります。これまでの銅鐸出土地を巡る例会では、山間部・集落内・沿岸部などの埋納地を見学しました。今日は吉野川沿いを歩きますが、山と深い渓谷からなる地形で、平地部が少ない地域です。これまで見学してきた盆地部との違いを現地に立って確認し、埋納地、集落遺跡、吉野川との位置関係から何に対して銅鐸を使用していたのか考えたいと思います。」
佐名伝遺跡の解説を聞く。
佐名伝銅鐸は民家に保管されていて、出土地や出土状況、どのような経緯で所蔵されるに至ったか等も不明。銅鐸と舌をつなぐ部分は今までよくわかっていなかったが、佐名伝銅鐸に付属する舌には鎖のような物がついていた。ただし当時鎖状のものをつくる技術があったかどうか疑問が残る。
吉野川にかかる柳瀬橋から佐名伝遺跡を望む。
佐名伝銅鐸は佐名伝集落の旧家に伝わった。
経緯は不明だが、銅鐸は骨董的価値が高く、購入することもできるため、民家で長年保管されている場合もあるとのこと。
銅鐸の内外面には砂礫、土壌が付着しており、これら付着物の検討から銅鐸は鰭を上下に立て、鈕側を起こし気味にして、土坑内で上部となる鐸身の面を水平に近い状態にして埋納していたと考えられる。
付着していた砂礫は上市から宇智川にかけての吉野川右岸の段丘層の砂礫と推定された。佐名伝の民家で保管されてきたことと合わせて、本鐸は佐名伝周辺に埋納されたと推定される。また、佐名伝地域からは縄文時代後期・晩期の土器が多く発見されているが、弥生時代中期・後期の土器片も少量採集されており、本鐸が埋納された時期に集落があったと思われる。
---
吉野川対岸から佐名伝遺跡を望む。
---
吉野川対岸から望む佐名伝遺跡。
---
吉野川左岸を下る。
---
南阿田大塚山古墳入り口を通過。
---
(番外)
今回は訪問しないが、南阿田大塚山古墳は結晶片岩を積み上げた石室を持つ後期古墳。
吉野川南岸地域では緑色結晶片岩が産出され、石室や石包丁にも使われる。
(2012年遺跡地図シート27で撮影)
---
原遺跡を対岸から眺める。
原遺跡は滝遺跡の北西、吉野川の対岸に位置する標高130から138mの河岸段丘上に立地する。弥生時代中期の集落遺跡。
吉野川との比高差は15m以上、遺跡の範囲は段丘面の東西約300m、南北約1kmと推定。これまでに行われた発掘調査により墓域を中心に南北に集落域が確認された。
稲作農耕に関わる石包丁の出土数が少なく、狩猟具が多く出土している。川から陸地までの高低差が大きく、遺跡まで水を引いて稲作農耕が行えないため、狩猟、漁労中心の生活をしていたと考えられる。
このような山間部では弥生時代でも縄文時代とあまり変わらない生活だった。しかし墓は方形周溝墓であるなど、弥生時代の特徴も見られる。
対岸で原遺跡を眺めながら解説を聞く。
吉野川にカヌー
---
滝遺跡
滝遺跡で説明を聞く。
結晶片岩でできた箱式石棺墓が検出された。
滝遺跡
---
滝銅鐸は集落と吉野川の間、左側民家付近から出土した。
現在、銅鐸は所在不明。
原遺跡と距離が近いことから、原遺跡の人が埋めた銅鐸の可能性もある。
また距離の近さから、もし原遺跡と滝遺跡が一つの集落であったなら共同で銅鐸を製作、使用したことも考えられる。
---
滝遺跡。
正面の山中、天福寺にコウモリ塚古墳がある。
---
(番外)
コウモリ塚古墳は、今回は訪問しないが、南阿田大塚古墳と同じように結晶片岩を積み上げた石室を持つ後期古墳。(2012年遺跡地図シート27で撮影)
(番外)
コウモリ塚古墳石室。(2012年遺跡地図シート27で撮影)
---
吉野川にかかる阿太橋から上流を望む。左岸(左側)が滝遺跡。
---
原遺跡
阿太橋から上流を望む。右岸(左側)が原遺跡。
---
原遺跡。
竪穴住居跡が出土した阿太小学校。
---
原遺跡。
阿太小学校から北側の墓域を望む。
墓域の範囲は東西100m、南北約200mと推定。--
阿太ミニ体育館で2班に分かれる。
1班は昼食前に隅田駅に移動し、昼食。
--
2班は阿太ミニ体育館で昼食。
--
阿太ミニ体育館前にある、式内社阿陀比売神社。
祭神は、阿陀比売大神-木花咲耶比売命
本殿は春日造。 江戸時代初期の建築と考えられ、五條市重要文化財。
---
(番外)
2班は吉野川に沿って下流へ。
途中の田圃に残る狐塚古墳の横を通過。(2012年遺跡地図シート27で撮影)
---
火打野銅鐸出土地
1班は隅田駅から、2班はバスで直接火打野銅鐸出土地へ向かう。
火打野銅鐸出土地
高さ約43cm、六区袈裟襷文の扁平鈕式銅鐸。吉野川を北にのぞむ高さ20mほどの丘陵斜面で、鰭を上下に、紐をやや斜め上にして埋納されていたとされる。この出土状況について本鐸を紹介した梅原末治は森本六爾の調査報告を得て知ったそうだが、興味深いことに森本の直筆野帳の図は梅原の記載と異なる。森本は鰭を上下ではなく水平に描いており、鰭を水平に埋納する事例(天理市石上銅鐸など)があることから、どちらの可能性も考えられる。
調査が詳細にされていないため集落は不明だが、北東約1.3kmに弥生時代中期後半に盛行する中遺跡が位置している。
最後に先生から、
3つの銅鐸の共通点として、川に面した斜面に埋納されていること、埋納方法は特に盆地部の銅鐸と変わらないことが挙げられる。
このことから、銅鐸は農耕祭祀としてだけに使われるのではなく、自分たちの生活の基盤となるものに対して埋められ、今回の地域では漁労、物資運搬などで人々の生活を大きく支えた吉野川に対する祈りとして銅鐸を使用したのではないかと考えられる。
吉野川北岸から火打野銅鐸出土地を望む。
吉野川は深い断崖を作る。
---
JR隅田駅・隅田八幡
隅田駅でいったん解散。
希望者は隅田八幡に向かう。
---
隅田八幡の長い参道。
---
隅田八幡隋神門
---
隋神門天井に描かれた日本画家 客殿南峰昭和29年作の「雲龍」
---
隅田八幡拝殿
---
隅田八幡神社の人物画象鏡国宝指定記念碑。
人物画象鏡は青銅製で径19.9cm。正確な出土年代や出土地は定かでない。周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出。
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
「癸未(みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」
---
本殿裏にある経塚。
北井先生、ご案内ありがとうございました。
(解説文協力 工藤玲奈)