集合
集合場所 奈良県庁
滝坂の道は雨天時だと滑りやすいため雨天時コースも検討していたが、当日は天気に恵まれ、暑いぐらいの晴天だった。
下尾会長挨拶
「5月は北井先生のご案内で『銅鐸の出土地を巡るⅧ』、6月は日帰り遺跡研修旅行『徳島・気延山周辺の古代遺跡を巡る』、7月は鶴見先生の『7世紀の政治史と近江』の講演を計画しています。皆さんご参加ください。」
勝川先生挨拶
「博物館では、保存科学を担当しています。今日は保存科学の視点で文化財石造物の保存について皆さんと一緒に考えていきたいと思います。」
当日は橿原考古学研究所の共同研究員である鹿谷氏も参加された。
奈良公園をぬける
春日大社に向かう
春日大社参道に入る。
飛鳥中学前で勝川先生から「保存科学」の解説を聞く
「文化財を後世に残していくためには保存処理が必要となります。文化財に保存処理を行うにはどのような方法を用いるのか、保存に適切な環境を考えなければなりません。さらに、文化財を修復する時は可能な限り当時と同じ材質や材料、技術、手法を用いることが必要とされます。そのためには文化財が何でできているか、今どのような状態か、どのような技術が用いられているのかを調査する必要があり、そこで活躍するのが「保存科学」という分野です。
保存科学による調査で、文化財の材質、内部構造等を知ることができます。また、文化財の保存環境の研究や修復のために用いる材料、技術の研究を行うのもこの分野です。つまり、保存科学とは伝統的な材料や技術にない部分を現代の材料や技術に求め、両者の長所を引き出して応用する分野であるといえます。人文・社会科学と自然科学を結び付ける分野であるということもできます。
一方、保存科学の手が及ばない文化財も存在します。信仰の対象になっており人の手が入ることを拒むもの、人手不足で調査が行き届いていないもの、存在を忘れられてしまったものなど、理由は様々です。
滝坂の石造文化財は昭和30年代の記録があるのみで、その後の調査が行われていません。石造物を巡りながら、どのように保存・修復すればよいかを考えてみたいと思います。」
滝坂の道
滝坂の道に入る
最初の地点である寝仏まで少し距離があり、ここからは山道が続く。
寝仏
寝仏の解説を聞く
横倒しになっていることから「寝仏」と呼ばれる。もともと横倒しで作られたのではなく、周辺の磨崖仏から落下したものであると考えられている。全体に苔類が繁殖しており、岩石そのものの劣化も激しいため、細かい部分の彫刻をはっきりと確認することが難しくなっている。
寝仏は石の裏に掘られている。左下が頭。
彫られているのは大日如来坐像といわれる。
石造文化財は地盤から切り離すことが難しいもの(建造物の礎石や摩崖仏など)と、地盤から切り離すことができるもの(石灯篭や石塔)の二つに分けられる。動かせないものはその場で何らかの処理をしてこれ以上劣化しないようにし、動かせるものは博物館など屋内へ運んで展示や修復を行う。
夕日観音
夕日観音を見上げる
夕日観音は崖の上。
花崗岩に半肉彫りで弥勒仏が表されている。約1.6m。夕日に照らされる姿が美しいことから「夕日観音」と呼ばれる。作者は朝日観音と同じであるとされ、鎌倉時代に作られたと言われる。ところどころ岩石が剥落した痕跡がみられるが、顔の正面は残りが良く、衣の表現もしっかりと確認できる。
夕日観音の下にある滝坂三体地蔵
朝日観音
朝日観音を見上げる
朝日観音の解説を聞く
朝日に真っ先に照らされることから「朝日観音」と呼ばれる。文永2年(1265年)の銘文があることから、鎌倉時代に作られたと言われる。
全体が苔類などに覆われているが、顔や衣の表現はしっかりと確認できる。一部にひび割れや剥落の痕跡がみられる。
ここで先生から石造文化財の劣化について詳しいお話があった。
石造文化財の劣化は環境に左右されることが多く、その要因は物理的、化学的、生物的な作用に分類される。
(1)物理的作用…問題視されているものに凍結破砕がある。岩石に浸透した地下水・雨水などの水分が凍結と融解を繰り返すことによって生じる。岩石の内部にある水分が凍結面まで移動し、氷の結晶が成長する際に生じる圧力が原因となって、岩石の表層が剥離したり、ひび割れたりする。また、地震による振動や火災による熱膨張・収縮で石造文化財が破損することもある。
(2)化学的作用…大気汚染・酸性雨による劣化等が挙げられる。中でも塩類風化は、石造文化財の最も大きな劣化要因と言われている。地下水・雨水や岩石に含まれる塩類が岩石内部で水に溶けこみ、水分の乾燥とともに岩石表層に析出(液体の中から固体が分かれて生成されること)することで起こる。岩石表層に析出した塩類が結晶化して層を作り、岩石を破壊するため、結晶化した塩類の層の下は非常に脆い状態になっている。塩類の結晶化が繰り返されることで層はどんどん成長し、膨らんだり剥落したりするとその下の脆くなった岩石も崩れるため、石造物の形を大きく変えてしまう。
(3)生物的作用…石造物周辺や岩石に生育する草木、苔類、地衣類(藻類と菌類が合わさったもの)、微生物も劣化の原因となる。例として岩石の隙間に樹木が入り込んで成長し、破損させてしまうなどが挙げられる。また、苔類などが銘文の彫刻上に繁殖すると読解できなくなる。また、岩石を溶かす成分を分泌する種類も存在する。
この3つの作用は単独で生じているのではなく、互いに影響を与え合っているため、広い視野を持って劣化状況を捉える必要がある。
朝日観音
花崗岩で中央に弥勒仏、左右に地蔵仏が表されている。
首切地蔵
首切り地蔵
鎌倉時代に作られたと言われる。1.8m。荒木又右衛門(江戸時代初期の剣豪で大和郡山藩の剣術師範)が試し切りをしたという伝説がある。風化によって顔などの彫りが丸みを帯びている。
ここで昼食
後発組はここで鹿谷氏から解説を聞く
先発組は春日山石窟仏へ向かう。
春日山石窟仏
春日山ドライブウエイから石窟仏へ登る
春日山石窟仏到着
道幅が狭く、後ろは崖のため、背後に注意しながら見学。
大正13年12月7日に史跡指定された。凝灰岩製。東西2つの石窟から成る。
春日山石窟仏左側
大日如来坐像の左側に「八月廿日始之作者今如房願意」と彫られている。興福寺の記録によると、銘文の「八月」の上に「久壽二季」と彫られていたようだが、現在は残っていない。また、阿弥陀仏坐像の右側には「保元二年二月廿七日佛造始四月廿一日開眼」という墨書がある。現在は確認することが難しいが、昭和17年頃には僅かに確認できていたそう。
銘文と墨書から、春日山石窟仏は平安末期に作られたと考えられている。
春日山石窟仏右側
春日山石窟仏は劣化が激しく、昭和2年に現地確認が行われた際には既に原形の復元が難しいほど崩壊していたことが記録されている。しかし、西窟の像に彩色が残っていることや銘文や墨書で年代が分かる重要な資料であることから、保存のために覆屋が設けられた。昭和17年には金網も設置される。
地獄谷石窟物への道、池の周りに枯草の中に可憐な花が。
うらしま草(浦島太郎が釣り糸をたれているようにみえる)
野のスミレ
馬酔木(あせび)の白い花
馬酔木の赤い新芽
地獄谷石窟仏
地獄谷石窟仏入り口に到着。2組に分けて見学。
地獄谷への道は台風の被害で荒れていた。
足元に注意しながら登る。
柵越しに石仏を見て説明を聞く
地獄谷石窟仏
大正13年12月7日に史跡指定される。凝灰岩製。聖が住んでいたという伝説から「聖人窟」とも呼ばれる。石窟の中央壁に十一面観音・廬舎那仏・薬師如来立像が線彫りされている。また、右側内壁に妙見菩薩坐像、左側内壁に阿弥陀仏坐像が線彫りされている。左側内壁は崩壊しており、阿弥陀仏坐像は下半身しか残っていない。
銘文などがないため、制作年代は不明だが、線彫りの表現から奈良時代~平安時代に作られたものであると推定されている。中央壁の三尊と右側内壁の妙見菩薩坐像には彩色が残っており、目ではっきりと確認できる。昭和28年の調査では中央壁の廬舎那仏の胸元と裾に金箔が貼られている痕跡があったと記録されている。さらに右側内壁の妙見菩薩坐像は、目や眉が線刻ではなく彩色のみで表現されており、室町時代以降に破損部分を補修したと考えられている。地獄谷石窟仏は春日山石窟仏ほど劣化が激しくないが、ところどころ苔類や地衣類の繁殖がみられる。
最後に
「訪れる人がいなくなると文化財は忘れられていき、時が経つとどこに何があったか分からなくなってしまいます。そうなると保存もできません。今日訪れた場所は簡単に来ることができる場所ではないですが、この素晴らしい史跡が忘れられないために是非周りの方々にお勧め頂き、また皆さんも機会があれば見学に来て下さい。」
と、勝川先生が話され、解散。
途中解説下さいました鹿谷氏、ご案内下さった勝川先生、ありがとうございました。
(解説文 協力 工藤玲奈)